2019/08/31(土)

 昨日書いたことに関して、つまり正義でもマジョリティでもないかもしれない人たちについて何が言いたかったかというと、文学は誰に寄り添うべきかという問題を考えたい。この話になると、十年前に村上春樹がエルサレム賞を受賞した時のスピーチのことが真っ先に思い出される。

「高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。そうです。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の味方です。」

 今日調べてみるまで、ただ「私は弱い者の味方だ」というだけの話だと思っていたのだが、この引用の二文目を読むとそうではないことがわかる。村上は単に弱い人間に味方しているのではなく、人間の弱さそのものを愛おしんでいるようなところがあると思われる。

 正義と正義でないもの、マジョリティとマイノリティに人間を分けて、それぞれのどちらに小説は寄り添うべきかということを考える。まず注意すべきことは、小説中で登場人物が人を殺したからと言って、その小説が殺人を肯定するものではないということだ。同様に、マイノリティの人間を描いていてもマイノリティを肯定するものでない小説もあるだろう。要するに、小説に反映された作者の考えがどちらを向いているかということが大事なのだ。

 このように書くと、寄り添うも寄り添わないも結局作者の考え方次第であって、「べき」ということは言えないのではないか、という声が飛んできそうだ。しかし私は思うのだが、常に正義の味方しかしない小説、常にマジョリティの味方しかしない小説というのは、堅苦しくてつまらないのではないか。村上のたとえを借りるなら、小説がその面白さにおいて本領を発揮するのは、やはり「卵」を描く時ではないだろうか。正義やマジョリティの味方をするのは政治家に任せておけばいい(もちろんマイノリティの味方もしてほしいが)。

 結局求道者がどう、という話までは行きつかなかったが、それは先生に会ってから考えることにする。

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