端書、その六 狂科学者に雪の華を
「
それが、隠密集団『天龍八武衆』――その序列三位、『神隠しの羅刹』こと
☆
アラスカ州最大の都市、アンカレッジから北東に二〇〇マイルほど行った所にガコナという田舎町がある。
辺りは湿地帯が一面に広がっており、これといった特産品も観光地もない、なにもないのが特徴……といえば特徴の、小さな町であった。
この時期は昼間でも氷点下の日が続き、まさに冬の真っただ中である。その日も早朝から乾いた寒風が吹きすさび、積もった雪を平原へとならしてく。それはさながら、真白な砂丘のように見えた。
何もない町の郊外に、その場には不似合いな、五階建てSRC(鉄骨鉄筋コンクリート)構造の真新しい研究施設があった。
’三十一年〇二月一三日(約束の日まで、あと二一〇四日)
ヴァグザ究極の気象兵器、『HAARP』を停止させる作戦は失敗に終わった。しかし、池神剛志にはもう一つ、この地でやらなければならないことがある。
それは、とても個人的なこと……自分自身に決着をつけるべく、剛志は負傷した身を押してまでとある施設へと侵入していった。
窓を叩くは、激しい雪礫と雷鳴――外は、まさに冬の嵐。施設内に漂う薬品の匂いが、かすかに鼻をくすぐる。リボルバー、S&W M19コンバットマグナムを手に、剛志は暗い廊下を静かに進んだ。廊下を進む足は、防寒のそれでも床の冷たさが伝わってくる。
時折、稲光りが昼間のように廊下を照らし出し、その閃光は剛志の苦悶の表情をも浮かび上がらせた。轟く雷に呼応するよう、全身に“ズキン”と痛みが走る。壁に手を付くと、もう片方の手で上着の胸の辺りを掴んだ。
「くそ……」
剛志は、壁を背にして力なくその場へと座りこむ。なにか見えない力で、強く心臓を鷲掴みにされているような、そんな痛みであった。気を抜くと意識が持っていかれそうになる――近くで落雷があり、その轟音によって“ハッ”と現実に引き戻された。
今が昼間なのか、それとも夜なのか……窓の外は真っ暗で、風雪の唸りだけがいつまでも聞こえている。剛志は喘ぎながら、廊下の向こうの暗がりを見据えた。稲光が一瞬照らした先は、一番奥の研究設備が整った部屋であった。
「あそこか……」
暗室のように照明が消された部屋の内部には、透明で巨大な水槽がいくつも設置されている。ほとんどの水槽は謎の液体に満たされた状態で、ほのかに青白い光を放っていた。その中の一つに、年端もいかない少女がひとり、膝を抱えた状態で背中を丸めながら浮かんでいるのが見える。
「クックククク……実験は成功した。だが、なぜ目覚めんのだ……」
声を発したのは、フレームレスの眼鏡を掛けて痩せこけた男。その狂気じみた冷笑とシンクロするように、激しい雷鳴が木霊している。
「人類は長い間、生と死の境界に対して科学の力で越えることを禁忌としてきた。しかし、私は神に近づくことを恐れなかった……人類史上、誰も成し遂げることのできなかった“新たなる生命”を、私はここに誕生させたのだ。だが、なぜだ……なぜ、目覚めん……」
男は、譫言のように繰り返す。
「孤独な世界だ、ここは……生と死のコントロールは人類の悲願だったはずだ。なのになぜ、誰も私を認めようとはしない? 我が子よ……だからお前も、この私を拒絶するのか?」
眼鏡越しに見える彼の瞳は、無限の暗黒だった。それは、宇宙をまどろむ深淵のようで……そしてまた、彼自身の淀んだ心を表しているようにも思える。しかし、それこそが狂気に蝕まれた男の心を、容赦なく闇が侵食していった証であった。
ほかに為すべきことなど何もない……。
彼――プロフェッサー・トードスは、遺伝子工学、特に
若かりし頃から“生と死”に対して異常な興味を抱き、大学でも優秀な成績を修め続けていたという。しかし、彼の欲求は留まることを知らず、やがて家畜などの動物実験へとその矛先を向けていった。
当然、大学当局の知る所となり、再三に渡って警告や処分を受けることになる。だが、トードスは秘密裏に実験を続けていた。それでも飽き足らなくなった彼は、ついには人体実験にまでその研究対象を発展させていくのだった。
実験対象は、“新鮮”であることが絶対条件である。その為、彼の研究施設ではおびただしい数の
だが、間もなく彼の研究は暗礁に乗りあげてしまう。なぜか、正常な脳を持たぬ子や、自我を保てぬ子ばかりが生まれてしまうのだ。
トードスの苦悩は続いた……。
それでも、唯物論主義者で『魂』の存在など決して信じなかった彼は、“生と死の現象”のみにこだわり続け、研究に没頭することをやめなかった。
やがて、二十余名の
大学のポストは元より、学会や本拠地であるボストンまでも追放され、支援者のほとんどはことごとく彼の元を離れていった。
こんな時、声を掛けるべき彼に付き従う者が居なかったのだろうか。
彼はゆっくりと
それはわからないし、今となっては理解する必要もない……自分の居るべき場所なんてどこにもない。そんなものは最初からなかった。
彼にとって、生と死は観念でしかなく――無論、それまでの人生の中でも、近しい者たちを幾人となく見送ってきたのだろうし、中には身を切るような惜別もあった。それだけではなく、世界には生と死というものが溢れていることを、彼の眼はつぶさにそれを見てきたのだ。
地上の人間たちは、戦争で、飢饉で、屍の山を築いてきたのだし、自ら命を断つものもいれば、同胞の命を奪う者もいるだろう。
だが彼は、生と死の本質については、なにも
人は、『死』のために生きているのか? それとも、『生』のために死ぬのか?
そんな哲学的な自問自答を繰り返すまで、彼の心は壊れていた。すべてを失い、自暴自棄となっていく彼に、支援を申し出たのが秘密結社『ヴァグザ』であった。
「プロフェッサー・トードス!」
その声は、この場の主に向けて放たれた。
「ああ……君か、池神剛志君。久しぶりだね……
突然の来訪者に驚きもせず、トードスはゆっくりと椅子から立ち上がると、両手を高く掲げて剛志を招き入れる。
「おかげさまで、
「……そうか、それはそれは」
銃口をトードスに向けたまま、剛志は施設の中で最も巨大な水槽に視線を移す。
「それにしても、ちょっとこれは、ジョークが過ぎやしませんかね……プロフェッサー!」
それは、あまりにも我が子に似ていた――水槽の中の少女は、『月之巫女』である池神織子に瓜二つであった。
動くな! と、男を静止を命じた剛志は、少女に向かってゆっくりと近づいていく。
「どうやら、お気に召さなかったようだね……でも、この子は単なるクローンではないのだよ? 君にならその違いがわかるだろう? なにしろ、『月之巫女』の実の父親なのだから」
剛志は引き金を引いた。銃弾はトードスの頬を掠めて鈍い音を立てる。
「この子は、君の妻……いや、私の助手だった
銃を撃たれても、彼は動じなかった。それどころか、さらに剛志の心を踏みにじっていく。
「どうかね? 自分の妻を寝取られた気分は?」
剛志は再び銃の引き金を引いた――今度は左足の付け根を、間違いなく貫通する。その衝撃により、トードスはもんどり打って床に突っ伏した。
『パパ……さん……や、めて……』
「ひゃー、ひゃっひゃっひゃっひゃっ! 起きた! 目を覚ましたのか! なんてことだ! これが、神のなせる御業というものか!」
自分が撃たれたことには目もくれず、トードスは歓喜の声を上げる。ゆっくりと瞼を開けて、目覚めていく少女――彼女は再び、剛志に向けて『パパさん』と呼び掛けてくるのだった。
「なぜだ! なぜ、この子は俺を父親だと認識している? 御霊などあろうはずもない人工的な生命体が、なぜ!」
「そうだな……この子は君が来るまで、決して目覚めることはなかった……これが、“親子の絆”というものなのかな? しかもこの子は今、『月之巫女』とシンクロしているのだよ……」
そう呟いたトードスは、痛む足を気にしながらゆっくりと起きると、徐々に椅子に這い上がっていく。ようやく腰を落ち着けた彼は、ある秘密を告白していった。
「君の娘……『月之巫女』はもう、
「くっ……ヴァグザめが……」
爪が食い込み、リボルバーを持つ手から血が滴り落ちる。立ちすくむ剛志は、堪えようのない怒りでわなわなと震えた。
「それでも、
トードスは手元にあるキーボードを操作し水槽を開封すると、コックを開いて中の液体を輩出する。
「その瞬間に、すべてを遡ってこの世界の過去が
終焉の刻へ向かって、すべては動き始めてしまっている――それは最早、変えようのない事実であった。
窓の外は、ゆっくりと白み始めている。
「私を殺さんのかね?」
池神剛志はトードスの協力を経て、少女を水槽から外に出す作業をしていた。
「我が八武衆は、私怨で“殺し”はしませんよ。命令もなくあなたを殺したところで、俺に利はなにもないですからね。それに、この子もそれは望んではいないようだ」
「ならば、自分自身で決着をつけなければならんな……この施設は爆破する。君はその子を連れて、直ぐにでもここから離れたまえ」
水槽から外に出された少女は、剛志の腕の中でぐったりとしていた。
「それと……つでに、これも持っていきたまえ」
机の引き出しから小さなマッチ箱程度の木箱手に取ると、トードスはそれを無造作に放り投げて寄こす。
「これは……?」
「まあ、ヴァグザとの交渉にでも使うがいい。契約の箱――それが『失われた聖櫃』だ」
「なっ! これを……あなたは、いったいどこで⁉ それに、それが本当なら……聞いていた話とモノが違いすぎる」
「話せば長くなる。詳細は、『天より堕ちた巫女』……『
☆
数時間後、剛志はカナダへの国境に向かってカーキ色のジープ・ラングラーを走らせていた。助手席には、毛布にくるまれた少女が黙ったまま、ブリザードが吹きすさぶ窓の外を眺めている。
視界の悪い中、正面を見据える剛志はダッシュボードから嗜好するセブンスターを手に取ると、一本咥えて愛用のジッポライターで火を点けた。
運転席の窓を開けて、車内の煙を外へと逃がす――再び、ダッシュボードへと煙草の箱を放ったその横には、プロフェッサー・トードスからこの子と共に預かった木箱があった。
「寒くはないか?」
「……」
少女は終始無言だった。日本へは、空の便じゃ帰れなくなったな……そう思う彼の目前には、広大な雪原がどこまでも果てしなく続いている。
東北海道大震災が起きたのは、池神剛志が失踪したこの日から僅か三日後のことだった。
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