叙の五 青い瞳にサヨナラを ②


     ☆



「好きな男子でもできた?」



 遥夏がハヤトへの気持ちを再認識したのは、そんな母親からの何気ない一言だった。


「え? なんで?」


「だって、最近楽しそうじゃない?」


「……そうかな?」


「年頃の娘を持つ親としては、そういうことには敏感なのよ」


 遥夏の母、廣瀬ひろせ美香子みかこは、神威市内で飲食店『スナック・コロポックル』を営むオーナーママである。高校生の娘がいることなど、到底思えないほどの若さと美貌を備え、ご近所のおじ様方を中心に“憩いの場”を良心価格で提供していた。


「まったく正直な娘よねー。ま、あんたのそういうトコは嫌いじゃないけどさ?」


 伝票をチェックする手は休めず、返事のない遥夏を横目にフッと笑う母は、意外と上機嫌のように思われた。遥夏は図星を突かれてなお、無表情を装う。


「あんたは、どこかとっつきにくいトコがあるからねー。別に心配はしてないけどさ……浮かれて成績、落とさないようにしなさいよね?」


「わかってるわよ……」


 遥夏は、肯定とも否定とも取れる曖昧な返事をするに留まった。その一方、忙しい毎日を送りつつ、しっかりと自分を見ていてくれるこの母親のことを、どこか誇らしくも思えた。


 しかし、これまで幾度となく自慢の『恋バナ』を聞かされ、男性遍歴だけは多そうな母に相談などできるはずもない。いざ話したら最後、根掘り葉掘り聞かれた上、「だからあんたはダメなのよ」と、なぜか説教モードに移行していく。そんな有様が、遥夏には易々と想像できた。


 出勤前の美香子は、家に持ち込んだ仕事に区切りをつけると大きく伸びをする。


「遥夏、コーヒー入れて」


「自分でやって」


「うわー……サービス悪いな、この店は」


 文句を言いつつも娘の恋の行方に興味を持ち始めた美香子は、居間のソファーで雑誌を捲っている遥夏に背後から抱きついていく。


「ねェ、晩御飯なんか食べた? どっか美味しいものでも食べに行こうっか?」


「んー? 『ほか弁』で済ました。母さんのも冷蔵庫に入ってるよ。さて……勉強、勉強っと」


 母の魂胆を察知した遥夏は、自然な話題転換などの特殊技術スキルを持たないため、それとなく理由をつけて自室へと避難することにした。一人ダイニングに取り残された美香子は、電子レンジの中で静かに回転する『のりから揚げ弁当』を腕組みしたまま見つめる。


「……つまらん」



 言った手前、取りあえず自室の机の上に教科書、参考書、ノートなどを並べて遥夏は物思いに耽っていた。


(ハヤトは私のこと、どう思っているんだろう)


 あの球技大会以来、急接近したことに間違いはないのだが、それ以上の発展のないまま一ヶ月が過ぎようとしている。気がつくといつも傍にいて、ごく自然に接することのできる男友だち。今はまだ、それだけの関係……。


(私はハヤトのこと、どう思っているんだろう)


 見た目は背も高くスマートだし、顔立ちだって周りの男子の中でもひと際端正で、文句のつけどころがない。気のおけない性格だって、決して嫌いではなかった。


 はっきりとさせたい気持ちと、はっきりさせたくはない気持ち。“このままでいいと”思う反面、“このままでは嫌だ”という思い……様々な感情が入り乱れ、遥夏の心の中を交差していく。


 ひとり、悶々として上気する――姿見に映る自分は、なぜか『にやけ顔』だったことに軽いショックを覚えた。


「うわー、気持ちワルッ! これじゃあ、母さんにも気づかれるわけだわ」


 妙に腑に落ちた遥夏は、パシッと頬を両手で張るのだった。



     ☆



 ’三五年〇五月一五日(約束の日まで、あと五四五日)



 あくる朝――遥夏は通学路の途中で、無謀にもそのことを織子に話してしまった。


「遥夏の気持ち悪さなんて、今に始まったことじゃ……ブギャ!」


 遥夏の鋭い左回し蹴りが、勢いよく織子の臀部を直撃する。


「痛いってば! 彼が見たらドン引くぞ!」


 それでも遥夏の蹴りは、容赦なく織子の尻を連打していく。


「私の性格なんて、とっくに知られてるわよ!」


「くっそー、いたいけな少女の尻をいたぶる変態暴力女め……“痔”になったら責任取らせるからなー! ボラギノールは意外とお高いんだぞ!」


(もし、織子がいてくれなきゃ、私どうなっていたんだろう)


 二人の間に堂々と割って入ってくる彼女に対し、かなりの疎ましさを感じつつ……だた、それと同じくらい感謝もしていた。



 ハヤトとは家が別方向なせいもあって、登下校が一緒になることはなかったが、その代わりに学校内では彼と過ごす時間は長くなる一方であった。


 それはそれで、嬉しくも楽しいひと時ではあったのだが、周りを一切気にしない彼の接し方には、正直、困惑してしまうことも多い。


 そんな二人の仲を快く思わない者も、クラスの女子の中には何人かいるようで……ハヤトと仲睦まじく接する遥夏に対し、あからさまに嫌がらせをしてくる者もあった。だが、一触即発の場面になると、その空気を察したかのような絶妙なタイミングで、織子がクラスの雰囲気を一気に和ませていく。


 そのままでは孤立も已むなしであった遥夏を、『極東学院の最終兵器リーサルウエポン』、『時代遅れのスケ番アスリート』などと呼び習わし、その地位を確固なまでに成し得たのだった。廣瀬遥夏にとっては、大変不名誉な“二つ名”ではあったが、やはり池神織子は“無二の親友”に違いない――恋愛相談の相手としては、かなり難はあったが……。



「もう、付き合っちゃえばいーじゃん?」


「ははははははは……なにをおっしゃいますやら、織子さん」


「だってさー、お互い“好き同士”なんだべさー?」


「む、向こうは知らないわよ。私のこと、どう思ってるかなんて……」


「あー、もーこいつら、超めんどくせーっス! 親分、殺っちまいやしょう!」


 そう言って織子は、『親分』と呼んだ髭面のマスコット人形を遥夏の後頭部へ投げつけると、再び臀部へ蹴りを貰う。


 遥夏としても、相手の気持ちを確かめたいとは思っている。しかし、どうしても怖くて直接聞くことなどできなかった。


(それができたら、今更こんなに悩むこともないのかな? でも、お互いが好き同士だったとして、そこからなにがあるの? なにが変わるの?)


「だいたい、『付き合う』ってどういうことなのか、いまいちよくわかんないしさ……」


「まず、オリコに相談すること自体、間違いっしょ? オリコは無責任なことは言えないけど、無責任なことしか言えないもの」


 項垂れる遥夏を、織子は『親分』で彼女の頭をペチペチ叩きながら、慰めとも取れない言葉で諭していく。


(織子のくせに、小難しいことを言う……)


「あんたはどうなのよ……誰か、好きな人とかいないの?」


「あー、オリコは“みんなのアイドル”だからニャー。特定の人は作らないナリよ」


 なにかを悟ったかのよう表情で、遠くを見つめながら黙々と遥夏の頭をペチペチしてくる。そんな友人のことが、実は一番の“謎”な存在であることを、遥夏はこの時初めて思い知った。


「でもさぁ、おかしいと思わない? この前の球技大会の時以来、まったくなんのリアクションもないんだけど?」


「もう飽きた……ってことなんじゃね?」


 織子の無責任な一言が、遥夏の細やかな胸を深くえぐる。また、織子の無責任な情報によると、ハヤトの女子生徒からの人気は、同学年の男子生徒の中でも一、二を争うものだという。


「早目に告んないと、ほかの誰かさんにでも持っていかれてしまうべなー」


 矢継ぎ早に繰り出される、織子の無責任極まりないジャブのような発言が、遥夏のガラスの心を打ち砕いていった。


「ハアー……乙女のピンチだわ」


 らしくない遥夏の台詞が、カウンターとなって織子のツボを刺激し、爆笑を誘う――同時に、渾身の左回し蹴りが炸裂し、織子は「ギャン!」と宙を舞った。



 だが、そんな遥夏の淡い『初恋』は、割とあっけなく終わりを迎えるのだった。

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