第8話 明日はお休みだ
夜、雨が降ってきた。
ここレコードショップUFOはアーケード街からは外れてることもあって、天候に客足が左右される。てなわけで、暇になってきたし時間もちょうどよかったしで、今日はこのまま退勤することにした。
この雨だと今夜は星見ヶ丘公園には行けそうにもない。畳んだエプロンをロッカーにしまって、ノートとリュックと入れっぱなしにしていたカッパを手に取る。いつものタイムカードの端っこには、退勤時間は正確にって書かれてドキッとした。もちろん三十分間水増しするけど。
日課のお絵描きはモヒカンヘアの続きからだ。
ノートを開いてペンを持って、あらためて目の前の店長とノートの中の店長を見比べる。
うん。かっこいいな、この店長の絵。……ちょっと盛りすぎかな? いやいや、そうじゃないんだ。一日八時間くらい一緒に働いてて、そのうち0.1秒くらいかっこいい瞬間とかあって、そこだけを切り取ったというか、そういうことだから盛ったとかじゃない。擁護する必要もないけどさ。
店長はなんといってもあの目がいい。特徴的だ。長いまつげと、くりっとした黒目。第一印象だと純粋無垢でトボけた印象を受けるけど、何かをじっと見つめるときの鋭さは年相応の男性のそれで、なんか見透かされてるみたいで、あと変に色っぽい。加えてすこし鬱陶しい。
その目をもっとちゃんと見たくて、こっちも向いてほしいなって思ったから声をかけた。
「店長の母星って、なんて名前なんすか?」
「だから宇宙人じゃねぇつってんだろ!」
「へへ。そうでしたそうでした」
つってんだろ! って言うときの店長が好きだ。叱られてるのになぜだか思わず笑ってしまう。このモヒカンをずるいとこは、何を言っても最終的には好意的な感じで着地するところだと思う。それは店長自身の人徳なのか私の受け取り方の問題なのかはわからない。でも、そんなだから話してて気持ちいいしわりと楽しいし、年齢差もあまり感じない。不思議な感覚。
この絵が完成したら星見ヶ丘商店街イラストコンテストに出してみようかな。……え、モヒカンの絵で? どうなのそれ。でも、アーケードの入り口に店長のイラストが展示されてるとかめちゃ面白そう。まぁそれ以前に入賞するのか謎すぎるけどさ。
小さいため息が漏れた。
コンテスト以前に、私はちゃんと対象者を定めた絵を描かないとけないんだ。漠然と描いたものがどこかの誰かの心を打ち抜くなんてのは幻想だし、例えあったとしても生業として成り立つとは思えない。奇跡なんてそうそう連発できないだろうしさ。
同級生の子たちはみんな進学した。私も漠然と美大へ進学する思いで予備校に通ったりしたけど、明確に学びたいと思うことが見つけられずに結局やめた。学費を払ってぼんやりしたモラトリアムを買うのはあまりにもバカげてると思うし。
でもそんな風に偉そうなこといっても、現状はイラストを描くことで一円だって稼げてないんだ。お金を稼いで生きるためには、自分が好きなように描いた自称作品じゃなくて、ピンポイントに、その人のためだけの商品で対価を得られるようにならないといけないと思う。私に必要なのは奇跡じゃなくって、イラストで一円玉を掴み取ることだ。
なんてぼやいても、一円の価値だって自分に見い出せてないんだけど。その事実が私の技術と感性が無価値であることを裏付ける。存在すら何ら価値のないかもしれない。始まる前から終わってる。
教習もろくに受けずに、なんの技術も自信もないままに初心者マークを手渡されて社会に出てしまった。こんなだからぼんやりしてたら、絡め取られて殺されちゃうよほんとに。
「はぁ」
あぁーこんなことに思いを巡らせている時点で、私自身がモラトリアムの渦の隅っこで足をばしゃばしゃやってるってだけの存在ってことには気づいてる。気づいてるけど、レコードみたくぐるぐる回る渦の中に飛び込むこともできないし、渦を無視することもできない。結局どっちつかずの宙ぶらりんなんだ。
「へへ」
変な笑いが漏れた。自分を笑ってやった。笑い飛ばすことでなんとかバランスを保ってるとこがある。
「おー、いい感じじゃね。俺の色気そのまんま生き写し」
モヒカンが私の鼻の頭をくすぐった。上から覗き込まれた。
まただ。昨夜と同じ。顔を上げる。視線がぶつかったけど、あんまりにも近いから焦点が合わない。私の口から吐き出された息が店長の顔に当たって、熱を持ったまま跳ね返ってくる。胸のあたり――ダイナマイトがざわざわする。明らかに熱を持ってる。えっと、もしかして、ば、爆発するのこれ……?
「ちょっ、ちょっとストップ! まだ完成とかじゃないんで! 距離感が、あれなんで!」
「なんだよ、ノートが小せぇから見えねぇんだっつーの」
「なるほど、そういうことっすね……じゃなくって!? あ、もう閉店すね! 帰る!」
いつもならノートと画材はロッカーにぶち込むんだけど、バッグに詰め込んだ。ポンチョ形のカッパを着て店を飛び出すみたいにして出る。
店長がシャッターを降ろすのをちらちらと盗み見してからオレンジ号にまたがった。
「おつかれっした!」
「おー、気をつけて帰れよ。おつかれ」
雑に頷いて立ちこぎでぶっ飛ばす。濡れた地面を掻き分けて進むと、タイヤからしゃああああって音がする。マウンテンバイクの難点は、泥よけが付いていないことだ。特に後輪の水しぶきは調子に乗って背中まで濡らしてくるので困る。バッグは濡れないようにポンチョの中に入れてるけどそれでもちょっと心許ない。
右手で胸元に触れた。ここだけ熱くて、悴んで痺れた指先が温められる。相変わらずざわざわしてるけどさっきみたいな切迫感はなかった。何が原因なんだろう。店長が至近距離にいたから? 絵を褒められたから? そもそも店長の絵を描いてたから? それともまさか、コーヒーに媚薬的なものが……ないか。
いつものコンビニに立ち寄って、もっちりジューシー肉まんを買った。庇の下で食べてるうちに雨は小降りになってきたけど、星見ヶ丘公園に行くのはやめておくことにした。ゆっくりしてるうちに雪に変わっちゃかなわないし。帰って絵の続きをやろう。
玄関で服を脱ぎ捨ててお風呂場でダイナマイトを確認したけど特に変化は見られなかった。あんなに熱かったのに。もしかしたらざわざわした瞬間に何かが起こってる可能性もあるけど、さすがに人前で覗き込むにもいかないし。あぁ人前といえば、これじゃ水着も着らんないぁとか思ってみたりもしたけど、来年の夏にはなんとかなってそうな予感があった。投げやりな予感だけど。
スマホのラジオアプリを起動して、コタツに入ってノートを広げる。
カウンターの中でPCを眺めている店長の視線がこっちを向くことはない。だって絵だし。角度を変えてみた。やっぱり視線がこっちを向くことはない。だって平面だから。……なにやってんだろ気持ち悪い。
「よし、やるかぁ」
今日は寝落ちするまで描こう、そう思ってペンを握った。明日はお休みだ。
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