六章 限りあるもの 2—5
《夢 近未来13》
水魚の死は、蘭を傷つけた。
なによりも悲しかったのは、水魚が蘭にだまって、一人で逝こうとしたことだ。
水魚は自身の寿命が近いことを自覚していた。この日のために、自分の代役のクローンを、ひそかに用意していた。
屋敷に帰ると、そのクローンが待っていた。
「さきほど研究所から連絡が来ました。オリジナルが死んだのですね。そして、あなたは、それを知ってしまった」
「いつ、すりかわってたの?」
「半年前から、ときどき。でも、完全にあとを任されたのは、二週間前です」
これが、蘭を傷つけた。
「水魚は、二週間も一人だったの?」
クローンは目をふせる。
「そんな……それじゃ、昼子が教えてくれなかったら、僕は水魚が死んだことすら知らずに、ずっと……」
猛が、あいだに入る。
「蘭。水魚の意思だったんだよ」
「猛さんも知ってたんですね。知ってて、僕にかくしてた。
どうして水魚を止めてくれなかったんですか? せめて、こっそり、僕に教えてくれるとか……」
「おれだって止めたよ。けど、水魚は他人の言うことなんか聞くやつじゃないだろ。蘭、わかってやれよ。あいつの思いやりなんだ」
蘭は自分の部屋へ、かけこんだ。
十畳ほどの板の間。蘭の好みで、明治時代の洋間のように、しつらえてある。
蘭のために、調度の一つ一つ、水魚が支度してくれた部屋。
蘭が心地よくすごせるように、和室を板の間に改築し、窓も大きく、外の光が入るように直してくれていた。
まだパンデミックが始まる何年も前からだ。
蘭が研究所の奥から水魚を救いだし、この屋敷へ帰ってきた日のことを思いだす。
この部屋を蘭に見せたときの水魚が、どれほど嬉しそうだったか。
「もう生きて会えないんじゃないかと思っていた。ほんとに君と暮らせる日が来るなんて、夢のようだ。蘭」
「兄になってくれるって、約束したじゃないか」
「もちろんだよ。私たちは、家族だ」
水魚は二十歳すぎで神社に仕える身となった。
本当の家族と別れ、この八頭家の別棟で数十年をすごした。水魚と、もう一人の巫子、茜のたった二人で。
村への自由な出入りは禁じられた。
孤独な毎日だったろう。
そのあげく、研究所の実験台にされ、地獄の責め苦を味わった。
唯一、姉と慕っていた茜は、実験で殺された。
幸せなときなど、あったのだろうかと思えるほど、幸薄い人生。
だからこそ、蘭を迎えることを、あんなにも歓喜した。蘭が思うより何倍も、水魚の歓喜は深かったんだと思う。
いつも風呂場で、たすきがけで、水魚が蘭の体を泡だらけにして洗ってくれた。
背中、腕、足、それから前も。
ひのきの匂いのする広い浴場で、蘭の息吹と、水魚の息吹が、ひとつに溶ける。
水魚の腕が背後から、まわりこみ、前を洗うとき、耳元に彼の息吹がかかる。
そんなとき、そっと目をとじ、水魚の名をささやく。すると、水魚は特別な奉仕をしてくれる。
蘭が望むからするのか、それが水魚の本心なのか。それとも、ただ単に御子に仕える者のしきたりなのか。
風呂場以外での水魚は、決して、そんな素振りを見せなかったし、後者なのかもしれない。
今となっては、どれが正解なのか、わからない。が、水魚の手にゆだねて放出するのは心地よかった。
猛も知らない。
水魚と蘭、二人だけの秘密。
もう、あの秘密を共有する者はいない。
蘭が、さめざめと泣いていると、ドアの外で声がした。猛だ。
「蘭、入ってもいいか?」
「……今は、一人にしてください」
言ったのに、ドアはあいた。カギをかけとくべきだった。こんなときの猛が強引なことを忘れていた。
猛は勝手に蘭の部屋に入ってきて、円卓の上に、一升ビンを置く。
不二村特産の地酒だ。とくに特級清酒は、蘭のためだけに作られている。
猛は片手ににぎっていた二つのコップに、酒をそそいだ。ぐいっと一杯、まず自分が、あおる。めそめそ泣いてる蘭をさそった。
「おまえも飲め」
「知らない」
「そんなこと言ってると、おれ、ここで出来あがるぞ。おれが泥酔したら、おまえ今夜、どこで寝るんだよ」
たしかに、猛のでかい図体で、そのへんにノビられては困る。しかたなく、蘭は円卓の前にすわった。
目の前のコップに、なみなみ、そそがれた酒を一瞬、見つめる。それから、猛のマネをして、いっきに、あおった。
ふだんは、たしなむていどにしか飲まない。カッと胃の腑の焼けるような感覚は、こんなときには悪くない。
「もう一杯」
猛は、だまって、ついでくれる。
まるで、どっちが先に酔いつぶれるか、競争してるみたいだ。二人、無言で、立て続けに飲んだ。五、六杯も飲むと、蘭は涙が止まらなくなった。
あとのことは、よくおぼえてない。さんざん、猛に迷惑かけたような気はする。
いっしょに寝てくれと、だだをこねた記憶は、かすかにある。
「猛さんも、いつか僕にだまって、逝っちゃうんだ」
「わかった。わかった。おれは、ちゃんと言うよ」
「やだ。どこにも行ったら、やだ」
「どっちなんだ。言う? 言わない?」
「どっちもヤダぁ。ずっと、そばにいてよ」
「ガキだな。もう」
「ガキでいいよーーちょっと、どこ行く気?」
「トイレ。ションベンしてくる」
「やだ。ずっと、いっしょにいてよ」
「やめろ。おまえ、この年で、おれに、おもらしさせる気か?」
「じゃあ、約束してよ? どこにも行かないって」
「わかった。わかった。約束な」
「いっしょに寝てくれる?」
「うん。うん。トイレから帰ったらな」
それで、猛の胸で幼児みたいに泣きながら、眠ったような気がする。
朝、目ざめると、となりに猛がいたから、一瞬、なにごとかと思った。
まさか、気弱になってるのにつけこまれて、猛さんに押し倒されたのか……と、あらぬ疑いまでかけてしまって、本当、猛には申しわけない。
しかし、そのわりに自分たちは昨日の服のまま。おまけに自分の体が強烈に酒くさい。頭もガンガンする。
けれど、気持ちはスッキリしていた。
「あ……起きたか。蘭」
アクビしながら、猛も起きてくる。
「おまえ酔わせるには覚悟がいるよなあ。あんなんなると、わかってたらさ」
「……よく覚えてないんですけど」
「まあ、知ってたよ。おまえが甘えん坊だってことは」
「なんだか、大人として、さらしてはいけない醜態をさらした気がする」
「なに言ってんだ。いつものことだって」
猛は笑って、蘭の頭にポンポンと手をのせた。頭痛にひびく。だが、気持ちいい。
「水魚だって、あと八十年、どうにかして生きたがってた。一番、悔しいのは、あいつさ」
八十年の根拠は、なんだろう。
「どうして?」
「月のやつらが帰ってくるからさ」
「月の……?」
「そう。エスパーたちがさ。とくに一人、すごい力の子がいて。その子が記憶を移植してくれる。オリジナルからクローンへ」
「そうか。それなら、水魚も……」
でも、もう水魚の記憶は失われた。
蘭との秘密を、ひっそりと胸に抱いたまま。
「水魚は……幸せだったのかな」
「もちろんさ。いつも笑ってたろ。おまえといるとき」
蘭は水魚の、ほのかな笑みを思いだす。
澄んで透明な水みたいな、水魚の笑みを。
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