五章 月と花、品種改良 3—1

3


《近未来 春蘭2》



危険な任務だとは、わかっていた。


胡蝶を見送るとき、心のどこかで、これが胡蝶を見る最後になるかもしれないと思った。


出かけるときの胡蝶には、なんとなく、秘めた決意みたいなものが感じられたから。


(やっぱり、逝ったのか。胡蝶……)


悲しみよりも、うらやましい気持ちが先に来た。


胡蝶は本物になるために出ていった。そして本物になった。


それは、あの日、自分たちが廃棄されるべきものだと知ったときから、三人が、それぞれに切望していたことだ。


わかっていた。


胡蝶の反抗も、カトレアの甘えも、方法が異なるだけ。けっきょくは春蘭と同じものを追い求めているだけだと。


(君は命をかけることで、それを得た。たとえ一瞬ではあっても、その一瞬は永遠より貴いもの)


だけど、僕には来ない。その一瞬は。


憂うつな思いで、胡蝶を見送りに行った。


そこに猛がいた。猛は御子と違って、春蘭たちにも優しい。


しょっぱなにオリジナルに存在を否定されたあの日も、猛は三人の頭に順番に手をのせて謝罪した。


「ごめんな。あいつ、あれで、けっこう嫉妬深いとこあるからさ。きっと、妬いたんだ」


そのときは意味がわからなかった。いや、今もわからない。でも、あのときの大きな手のあたたかさは忘れない。


今度もまた、猛に手をのせられると、演技ではない涙が自然にあふれた。


御子はズルイ。


自身が本物であるだけでなく、掛け値なしの慈愛を、この人から与えられて。


こんな人は、春蘭のまわりにはいない。


欲望でも打算でもなく、純粋に愛をそそいでくれる人。


こんな人が、たった一人でも、春蘭のそばにいてくれたなら……。


そのとき、ふと春蘭は思った。


(そうだ。僕にもある。僕が僕のやりかたで、本物になれる方法)


誰よりも深く御子を理解し、誰よりも深く御子を愛してるこの人が、一瞬でもいい。僕を愛してくれるなら、その瞬間は本物だ。


僕は、その一瞬を糧に生きていける。このさき、ずっとーー


それで、カトレアが夜をすごす相手を探しに行ったあと、残った春蘭は、猛を誘惑した。自分から誰かを誘うのは初めてだった。


「あいつ、避妊はバッチリなんて言ってたけど、ほんとなんだろうな。遺伝子は蘭なんだから。ぼろぼろ子どもできると、ややこしいんだが……」


と、つぶやく猛に、


「僕も今夜は一人では、さみしい。猛さん。おねがい。今夜だけでいいから、僕といっしょに寝てください」


真剣に見つめて、見あげる。


猛が答える前に、春蘭は猛の口をふさいだ。


猛は戸惑いながら、春蘭の肩を優しく、つかむ。けれど、きっぱりした態度で、引き離した。


「よすんだ。春蘭。こんなこと」


春蘭は必死で、しがみつく。


「おねがい。ワガママだってことは、わかってる。一度だけ……今夜だけでいいから。あなたに愛されたら、僕は本物になれる」


「春蘭。おまえ……」


春蘭の真意に気づいて、猛はゆれた。


「胡蝶は本物になった。僕も……なりたい。おねがい」


「春蘭。言っとくが、おれと蘭は、そういうんじゃないんだ。家族なんだよ。兄と弟みたいなもんで……」


「でも、これが僕の方法なんだ。こんなワガママ、二度と言わないから。おねがい。今夜だけ、僕に夢を見させて」


猛は吐息をついた。


そして、覚悟を決めたように、春蘭をカベに押しつけた。


猛のくちづけを、たっぷり五分は味わった。が——


「……ごめん。やっぱ、ムリ。春蘭、おまえのことも、カトレアも、胡蝶も、みんな好きだよ。みんな、蘭だから。でも、だからこそ、これ以上はできない」


そう言って、猛は剖検室のなかへ入っていった。


春蘭は、みじめな気持ちで、とり残された。


ぼんやりしてるところに、森田がやってきた。春蘭は森田に、すがりついた。森田もまた、御子に特別な思いをよせていることを、春蘭は知っていた。


「春蘭……」


「一人じゃ寝られない。さみしいんだ」


「……わかった。君の部屋へ行こう」


さみしさを体で、うずめているうちに、夜は更けた。


けれど、なぜだろう。今夜は、どんなに体をつなげても、空白が埋まらない。


(ダメなんだ。猛さん。僕は、あなたじゃないと、本物になれない)


むなしい行為をくりかえしていると、外からドアがひらいた。とつぜん、カトレアが入ってきた。


その行為にカトレアが嫌悪をいだいたことは、その顔をひとめ見ればわかった。


「待ってくれ。カトレア」


きびすを返して、カトレアは出ていく。カトレアを追って、森田も出ていく。


(……バカみたい。何やってるんだろう。こんなことしても、僕は一生、本物にはなれない)


春蘭は起きあがり、窓辺から外を見た。


月が美しかった。もしかして、今日は中秋の名月だったろうか?


春蘭は窓をあけた。


そこから、とびおりた。


どうせ生きてる価値のない人生なら、いらない。


風を切る数瞬ののち、春蘭の意識は、とだえた。だが……。


気がつくと、春蘭は研究所の一室にいた。宿舎の自分の寝室ではない。研究棟にある病室のようだ。


菊子が枕元に立っていた。


「よかった。気づいたのね。御子さまの骨髄を移植してなかったら、あなた、死んでたわよ。春蘭」


(そうか……こんなことなら、骨髄移植なんて受けなきゃよかった。僕も胡蝶みたいに)


激突の衝撃で、体中の骨がバラバラになるのを、たしかに感じた。なのに、ケガは、もう治っていた。


「春蘭。そんなに悲しかったのね。胡蝶のこと」


菊子が、あわれみの視線をなげてくる。とんちんかんなことを言いながら。


「あなたを一人にした、わたしたちが悪かったわ」


「わたし……たち……」


もしやと思い、春蘭は室内を見まわした。


菊子と森田。ナースが数人。


猛はいない。


(僕が自殺しても……どうでもいいのか)


すっと心が冷えて、もう何も感じられない。

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