五章 月と花、品種改良
五章 月と花、品種改良 1—1
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《月 薫1》
薫が一度めのテロメア修復薬を使ったのは、七十をすぎてからだ。
テロメア薬そのものに不信感があったせいもある。だが、それ以上に、なるべく使用期間を遅らせて、長生きしたかったからだ。
二十代のころは、自分がこんな年になるまで生きてられるとは思ってなかった。
東堂家の人間は、男子一人を残して、かならず早死にする。それは、もはや鉄則のような呪いだった。
二十代で、すでに東堂家に残る男子は、親類縁者をふくめ、猛と薫の二人だった。どちらか一方が近いうちに……と思っていた。死ぬのなら、自分だろうと。
長生きした祖父は、若いころ、猛にそっくりだったというし。なんというか、兄は、とても、たくましかった。あっけなく逝くのは自分だろうなと覚悟していた。
なのに、それが今では、七十をとうにすぎても健康そのもの。数年前にテロメア修復薬を飲んだばかりなので、外見も二十代に戻った。
違うのは、今では息子がいて、息子にも嫁がいる。まずまずの家庭だ。
月へ来たばかりのころは、苦しい開拓の日々だった。でも、今では、月の環境も、そうとう整った。
重力装置と気候調節機と、その他、薫にも、よくわからない、もろもろの科学力のおかげだ。
月には人工降雨によって水が生まれ、大気が生まれた。初期、地下にしかなかった都市も、今では青空をあおいでいる。
それにしても、空を見あげるたびに、切なくなる。青く輝く地球を見て。
あの星に、今も大切な人たちがいる。
月から見ると、手が届きそうな気がするのに。地球は、はるか三十万キロも遠い。
「薫さん。また地球を見ていたの?」
京都五条の祖父が残してくれた町家と同じ——とは言えないが、庭付きの小さな家を配給されたのは、この声の持ちぬしがいるからだ。
今は薫の妻ということになっている。
予言の巫子。
百合花である。
百合花の予言は、今でも日本政府が聞きにくる。百合花の力は地球を離れても、おとろえることはなかった。
百合花が今でも夢で、さまざまな未来を見ることは、薫も知っていた。そして、その夢の多くに、猛の姿があることを。
百合花は猛の恋人だった。それも、運命の恋人。
おさないころに予知能力を見込まれ、百合花は政府関係者に、さらわれた。ずっと外界から遮断されて育った。
猛の念写と、百合花の予知夢でだけ、二人はつながっていた。
本当に手をとりあったことは、数えるほどしかない。だが、生涯、この人だけと思いあえる仲だった。
兄は、どんな気持ちで百合花をたくしたんだろう。薫を月行きロケットに残して去るとき。
兄は昔から、そういう人だった。
愛する人のためなら、どれほど苦しくても、自身を犠牲にする。
きっと兄は、一人になって、泣いたろう。
人前では弱い自分を見せまいとする人だったから。
今でも思いだす。
月行き最終便のロケットのなかで、去っていったときの兄を。
「蘭もつれてくるよ。おまえは、ここで待っててくれ」
「うん。急いでよ。もう時間、ないんだから」
「わかってるって」
そう言って、薫を見つめた。
猛の何かをこらえるような笑みを、今も思いだす。
いったん、行きかけてから、かけもどってきた猛。力いっぱい薫を抱きしめた腕が、少しふるえていた、
「じゃあな。かーくん」
ニヤッと白い歯を見せた。
それが兄弟の今生の別れになるとは、夢にも思わなかった。
わずかな私物のなかに、いつのまにか、まざりこんでいた猛の手紙を見つけたときには、もう遅かった。宇宙船は飛びたったあとだった。
『ごめんな。かーくん。おれは蘭のそばにいてやらなきゃ。蘭を一人にはできないよ。だけど、どんなに離れてても、おれたちは兄弟だ。つらくても、がんばるんだぞ。兄ちゃんも、がんばるからな』
当時は泣いたし、恨みもした。
(猛のバカ! 蘭さんはダメで、僕なら一人にしてもいいのかよ)
でも、今ならわかる。
なぜ、猛が薫ではなく、蘭をえらんだのか。
蘭は薫たち兄弟より、はるかに深い業を背負ってしまった。それは永遠に続くカルマだ。見すてることなど、兄にはできなかったろう。
あれから五十年以上たった。
兄は今も蘭と二人で元気にしてるという。
それだけでいい。
兄弟二人で百まで生きるんだと決心した、二十代のころの誓いは、どうやら実現しそうだ。
兄弟が月と地球にわかれたせいだろうか?
もう、あの呪いは消えてしまったのではないかと思う。
「ねえ、薫さん。もう中へ入ったら? 夜風は冷たいわ。風邪ひくといけないから」
「そうですね」
再三、百合花に言われて、薫は屋内に入った。家は半円形。なんだか南極の観測所のよう。そういうのが森林のなかに、ぽこぽこ、ならんでる。
「また向こうの人たちのこと、考えてたんでしょ? 目が、うるんでる」
「これは、その、昔のこと思いだして……まいったなあ」
「薫さんは、いくつになっても泣き虫ね」
照れ笑いしながら、薫は百合花の手渡してくれた、どてらをはおった。たしかに気候調節機が働いてても、夜は寒い。
「ありがとう。やっぱり手作りは、あったかいね」
百合花は、ほほえむ。でも、今でも猛を愛してるんだと思う。
だから、薫とのあいだの息子も、自然に授かったのではない。
あのころから奨励され始めた、遺伝子操作による人工子宮ベビーだ。薫の遺伝子と百合花の遺伝子を、半々ずつ受け継いでいる。
百合花は兄の念写を通して、薫も、ずっと、あこがれてた人だ。
百合花を妻と呼び、たがいの遺伝子をわけあった子どもを持つのは、とても、ふしぎな気分だ。猛に悪いと思う反面、やはり嬉しい。
幸福だった。
たとえ、二人のあいだに本当の夫婦の関係がなくても。
幸福に影が落ちたのは、そのあとだ。
一人息子の武が、開拓中の事故で三十で死んだ。
最初は信じられなかった。開拓に事故は、つきものだ。若くして亡くなったのは、武だけではない。
だが、不安がよぎる。
(まさか……まだ呪いが、続いてるーー?)
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