四章 変容の月 3—3
数分後、蘭の言ったとおり、使者たちは驚愕した。
「ヘルだらけでしょ? バクテリオファージ化されたヘルは、百種以上もの細菌に寄生する。酵母菌も大腸菌もヘルの住処。地球で生きるなら、キャリアになるか、われわれのワクチンを受けるか、どちらかしかない。ですので、あなたがたも、今ここでワクチンを接種してもらいます。ずっと気密服でいるっていうなら話は別だが。どうします?」
「いいでしょう。そのくらいの覚悟はしてきています」
使者たちは宇宙服をぬぎすてた。血清注射を受ける。
血清は蘭の血液から成分だけを抽出し、培養したのち、生理食塩水で四十倍に薄めたものだ。それを一CC注入するだけで、ヘルの耐性は充分につく。長寿や不老を得る効能はない。
まれに薫のようにアレルギー反応を起こす者もいるが、オーガスたちは問題なかった。
「これで、あなたたちも、僕らと同じですね。もはやヘルに怯えることはない」
蘭が笑うと、オーガスたちも機械的に笑みを返してきた。
「研究所へ案内してください」
「どうぞ。こちらへ。現場までジープで送ります」
蘭たちはジープ。青年団は後続のトラック。エンジニアはボートの点検のため、その場に残った。
周囲は村なので、蘭たちが近づくと、みんな農作業の手をとめて、「御子さま。御子さま」とさわぐ。
蘭は手をふりかえした。
女の子たちは金切り声をあげて、失神しそうだ。
「みごとな農場ですね。麦ですか?」
お愛想みたいに、オーガスが言った。
「稲です。そろそろ刈入れどきだ。僕は、この季節が一番好き。夕日のなかでは本当に輝いてるように見える」
「それは、ぜひ見てみたいですね」
「日没ごろにはデータをとりおえてるでしょう。帰りのボートのなかから見おろせばいい」
蘭たちは研究所に入っていった。
薬屋の敷地は長いあいだ放置されていた。周辺に村ができてからは、一般立ち入り禁止にし、蘭たちの直轄区域に指定してある。
内部は、猛たちが戦闘したときのままだ。血と肉の腐った匂いが、二十年たった今でも残っている。
「すごい匂いですね。猛さん、電源は生きてるんですか?」
「いや、もうダメだろう。安藤、木内、ライト」
小型のサーチライトと懐中電灯で照らしながら進む。蘭も、このなかを見るのは初めてだ。
「激戦だったんですね。すごい破壊のあとだ」
弾痕のめりこんだ壁。
コンクリートに大穴があき、ヒビ割れ、くずれている。
シャッターはひしゃげてやぶれ、あたりじゅうにガラス片が散乱していた。
血のりのあとや人骨がいたるところで見られた。くずれた天井や機材の下で、無念の声をのんでいる。
猛は冷静にそれらをいちべつする。
「そりゃ、向こうも爆弾使ったり、マシンガンぶっぱなしてきやがったからなあ。おれを疫神だと信じてたみたいだし」
オーガスが口をひらく。
「あなたは疫神ではないのですか?」
ニッと、猛は歯を見せて笑う。
「みんな間違うよな。まあ、ただのキャリアで、おれみたいな変形はめずらしいからな。ふつうはこうなる前に死ぬ」
猛はふりかえって、蘭を見た。蘭に聞かせるために、こう言った。
「おれは、たぶん、空を飛びたいと思ったからだ。ヘルに感染して、うなされてたとき」
空を……きっと、薫に会いたいと願ったからだ。強く、深く。月まで飛んでいきたいと。
御子の血が猛の願いに応えたから、猛だけがほかの人にはない進化をとげたのかもしれない。
「そんなこと……僕も聞いたことなかった」
「だって、言ったら、すねるし」
猛は蘭の頭をひきよせ、自分の肩にもたれさせる。使者たちの目も気にすることなく。
ああ、これが、この人の精いっぱいの恩返しなんだなと、蘭は思った。あるいは罪ほろぼし。
そのあと、研究施設のなかをくまなく調べた。青年団の手で
そこは疫神とヘルに関する研究がおこなわれていた場所だ。
使者たちはたじろいだ。ポーカーフェイスの宇宙人にも、実験の凄惨さは伝わったらしい。
「これが……人間……」
「人間のなれのはてさ」と、猛。
ホルマリンづけにされた疫神の死体が数体あった。
どれもこれも全身を鋼鉄のようなウロコでおおわれている。みにくいほど増強された筋肉。体はゆがみ、ツノや羽、牙、カギ爪などが生えていた。
正視にたえない。
奇形をおしすすめての強化なので、体の一部が欠損していたり、腕の数が多いなど、常人とは違う特徴がある。
蘭はつぶやいた。
「このうえに超能力を持ってたなんてね。僕たちとはまったく違う種にしか見えない」
オーガスが食いついた。
「超能力? それは本当ですか?」
「ええ。研究所にあった資料やデータは持ちだせるだけ、われわれが持ちだしました。コピーの用意があります。あなたがたに渡しましょう。ボートの設計図と交換にね」
「疫神のサンプルはどうするんですか?」
「このまま放置しておきますよ。われわれは疫神を造りたいとは思わないので。薬屋も本来の目的は、ヘルのワクチンを完成させることだったようだし。疫神はその過程でできた副産物にすぎない。人狩りして実験台にし、非道をきわめた連中だったが。意外に心底、人類が生存できる方法を模索してたわけだ。彼らなりにね」
「あなたがたが必要ないなら、あのサンプル、我々が持ち帰ってもかまいませんか?」
「あんなものでよければ、どうぞ」
蘭たちにとっては知りつくした事実だ。だが、使者たちは念入りに、あちこち調べた。ようやく、四人の調査がすんだのは何時間後か。
暗いラボから陽光のなかへ出ると、ちょうど西日が金色に輝いていた。風の色さえ、金色にそまって見える。
(ふしぎだね。この景色が好きなのは、僕も彼もいっしょだなんて。やっぱり、もとは同じ一つだからなのかな)
蘭は自分の好きな景色を、最後に目に焼きつけた。
少し物悲しい秋の景色。
ゆれる穂波。あぜ道を赤くいろどるヒガンバナ。空をおおうほどの赤トンボ。薄桃色のいわし雲。
さえぎられることなく、どこまでも、どこまでも続いていく空。
気の早いコオロギが、夜を待たずに鳴いている。
愛しい。
この世界のすべてが。
涙がこぼれるほど。
今日だけは、僕が蘭だ。
このまま、ぶじに会見が終わるにしろ、終わらないにしろ。今日だけは、ここは僕の王国。
ジープに乗って、ボートのある場所まで戻った。そこには、オーガスが呼びよせた新たなボートが、一せき、到着していた。
オーガスたちは、そのボートに疫神のサンプルを乗せた。無人オートメーションで、サンプルを乗せたボートは空へ帰っていく。
「では、我々は帰還します。キング」
このまま、使者たちは帰るのだろうか?
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