四章 変容の月 2—2


《古代 蛭子3》



 蛭子は鴉歌のむくろのかたわらで放心していた。

 まもなく、見まわりの兵士に見つかった。もとより逃げる気もなかった。

 怒り狂う兵たちに四方八方から串刺しにされた。


 これで死ねるならば、死にたい。

 けれど、やはり蛭子は死ねなかった。


 かけつけてきた須佐の王の兵と、ヤマトの兵が争った。ヤマトは逃げていった。残った死体のなかに、蛭子もよこたわっていた。


「蛭子。わが息よ。返り討ちにあいしか。痛ましき姿なり」


 血みどろで倒れる蛭子を見て、須佐の王は悲嘆にくれた。が、抱きあげる王の腕のなかで、蛭子は目をあけた。


「なんという奇跡か。死に嫌われし身とは、まことか」

「父者人。われはまた死にそこねたり」

「なんと申す。なんじが身、無事なるは喜びなり。わが王子としてつれ帰らん」


 須佐の王は、蛭子を館へつれていった。

 だが、それを快く思わない者は多かった。

 王が蛭子を溺愛したので、次の王にする気ではないかと、異母兄弟はかんぐった。

 また、兵士たちも、殺しても死なない蛭子を薄気味悪く思った。


「敵将の側女だったそうだ。恥知る者ならば、とうに自害しておろうに」

「自害しようにも死なぬのでは、徒労なり。恥の上塗りとはこのことか」

「おぞましき、けがれた王子よ」


 そのような陰口がいたるところでささやかれた。

 だが、ひとつだけ嬉しいこともあった。王の館で采女(下女)をしている乳母と再会したのだ。


「吾子(わが子)よ。よくぞ生きてまいらせた」

「母者人」

「なんと立派になられしか。されど、吾子よ。気をつけたまえ。立身には、そねみが付きものなれば」


 それは重々、承知しているつもりだった。

 王子とはいえ、一度は捨てられた身だ。蛭子は何も望んではいなかった。王座にも覇権にもなんの興味もない。

 ただ、父と乳母のかたわらにあれば、それで満足だった。

 けれど、兄たちはそう考えてはいなかった。蛭子が父に取り入り、いずれ須佐の王になろうとしていると考えた。


 そんな折りだ。

 王の館で秋の豊穣の祭がひらかれた。

 イノシシの肉が焼かれ、五穀と酒がふるまわれた。

 王や王子、女王子、王の妃がそろって宴に列した。


 蛭子は人目をさけ末席につらなった。が、王は自らさしまねき、蛭子をとなりにすわらせた。

 それが兄弟の嫉妬を買った。

 父が宴を離れたすきに、蛭子は兄弟たちにつれだされた。


「けがらわしき者よ。そのおもてで、いかに父者をとりこにせしか」

「とりこなどと……めっそうもない。わは何も……」

「ええい、かような、しおらしき態度にて、われらまで惑わせんとするとは。まこと忌むべき者よ。成敗せん」


 いつものように、蛭子はめった刺しにされた。手足は切りおとされた。肝の臓、心の臓とともに、鹿肉と称され、宴に供された。


「父なる王よ。かの肉は、われらより父者人に献上いたす」

「うむ。気づかい、喜び受けようぞ」


 須佐の王は、それが愛しきわが子の肉とも知らず、喜んで食べた。まもなく、王の身に奇跡が起こった。若返りだ。

 忍び笑いながら、父王の食欲をながめていた兄弟たちはうろたえた。


「一の王子よ。こは、なんの肉ぞ。驚嘆すべき神秘の肉なり。残りも持ってまいれ」


 一の王子らは平伏して、父の前に真実を明かした。


「そは王の寵愛せし者の肉なり。その者、すでに死して帰らざるなり」


 ところが、王や兄弟たちがかけつけたとき。蛭子は息をふきかえすところだった。新しい手足も生えていた。えぐられた胸はふさがり上下に動いていた。


「かの者の肉は、不老長寿の妙薬なり」


 須佐の王は、蛭子を奥殿につれ帰った。だが、それは蛭子をいつくしむためではなかった。王は新たに得た若き力に、われを失っていた。


「蛭子。なんじの力。ほかの誰にも譲りてはならん。われ一人のものなり」


 それからというもの、王は蛭子を奥殿につないだ。

 毎夜、その肉を食べた。

 手を足を。指を断ち。脇腹を。尻肉をそぎ。はらわたをえぐりだして食べた。

 蛭子の全身で、一度たりと王に食われてないところは、どこにもなかった。

 ありとあらゆる部位を食べられた。

 のたうちまわる蛭子の姿も、王の目には映らなくなっていた。不老長寿の妄執に取り憑かれて、ほかのものは何も見えてなかった。


 おかげで、須佐の王は千人力となった。次々に周囲の豪族を平定した。ならびなき出雲の王となった。

 そのかげで、蛭子は夜ごと父から血肉をむさぼり食われるという責め苦を受けた。


 蛭子の心は壊れていった。

 見かねた乳母が、蛭子を解き放ち、館から逃がした。

 蛭子の逃亡は、すぐに王の知るところとなった。蛭子と乳母は逃げまどった。


「吾子よ。あわれなる吾子。わは、なんじがためなら、命も惜しからず。逃げたまえ。われ、なんじが身代わりとならん」


 追っ手に追いつめられた乳母は、敵のただなかへとびだしていった。蛭子が止めるまもなく。

 蛭子は乳母の断末魔の声を、遠くから聞いた。


(乳母や。われを真に慈しんでくれたは、なんじ一人なり。なにゆえ、一人で逝きしか。われもともに参らんものを)


 泣きながら山野をさまよった。

 いつしか、山間深くわけいった。

 奥へ。奥へ。火の川の源流へ。


 あるとき、川辺を這う蛭子の頭上で、雲間から光がさした。

 そのとき、蛭子は川面に映る人影を見た。ほんの一瞬のこと。

 だが、それは一瞬で、蛭子の目に焼きついた。

 言葉に尽くせぬほど、美しい人。

 瞬間、見とれた。

 あわてて、ふりかえったときには、すでに、その人はいなくなっていた。


「なんという麗しき者。おのこ(男)のごときにも、めのこ(女)のごときにもありし。この世のものとは思われず。山野の精霊にあろう」


 あの姿をもう一度、見たい。

 蛭子はそこに腰かけて待った。

 すると、ふたたび光がさした。

 その姿が川面に現れる。

 その人をおどろかせぬよう、じっと動かず、ただ見つめた。美しい。心が洗われるようだ。

 見つめるうちに、ふいに涙がこぼれた。


(われも、これほど美しく生まれていれば。誰にも嫌われはしまいに。われは醜き蛭子なれば……)


 須佐の王の館でも、醜い顔を見ることが恐ろしく、一度も鏡をのぞいたことはなかった。

 だから、蛭子は知らなかった。

 そこに映る山野の精霊のごとき姿が、蛭子自身のものであることを。


 もしも、われが、この呪われし生を断ち、生まれ変われるものならば……。

 今度はわれも美しく生まれたい。

 彼のように。

 誰もが、ひとめで愛するほど、美しく……。


 それは蛭子の心からの願いだった。

 父の仕打ち。鴉歌の裏切り。

 毎日、殺され続けた虐待の日々。

 あらゆる過去の痛みを思いだし、蛭子は泣いた。


 そのあと、ずっと、蛭子は川辺にすわっていた。あの山野の精が現れるのを待った。何も食べず、何も飲まず。体が弱るのもかまわなかった。


 川面に映る山野の精は、蛭子が笑えば笑いかえしてくれた。

 これほどの至福のときを、蛭子は知らなかった。


 やがて、蛭子は倒れた。

 今度はもう息をふきかえすこともないかのように。深く、深く眠った。


 そんな蛭子を木こりたちが見つけた。

 高貴な衣服をまとい、精霊のように美しい蛭子を、男たちは村へつれかえった。

 男たちに介抱され、蛭子は目をさました。でも、誰とも口もきけぬほど、傷ついていた。

 木こりたちは、いっそう哀れがり、蛭子を大切に養った。


 何年も何年も経った。

 老いない蛭子は、木こりたちのあいだで山の神としてあがめられた。


 不死の神。

 この世に二人とない、不二命(ふじのみこと)として。

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