一章 パンデミック襲来 3—2

《古代 蛭子1》



 彼には名前がない。両親がつけなかったからだ。未熟児として生まれた彼を、両親は気味悪がった。


「あな、恐ろしや。骨のない子。これは蛭子(ひるこ)なり」

「水に流そうぞ。子は、ふたたび持てよう」


 彼はアシの葉に乗せられ、川に流された。ふつうの子どもなら、そこで死んだのだろうが、彼は死ななかった。


 彼には特殊な力があったからだ。


 力というより体質だ。生まれつき、常人とは異なる体質を持っていた。


 彼は母の胎内で育つべき期間を、川の水底で、ヤゴやオタマジャクシとともに育った。栄養は水中に溶けるリンやミネラルから吸収した。


 数ヶ月経過すると、彼は外見上、ふつうの赤子と見わけがつかなくなった。川辺で泣いているところを、せんたくに来た女が見つけた。


 女は夫とのあいだに四人めの子を生んだばかりだった。育児にも、なれている。


 自分の子のついでに、親にすてられた哀れな子を一人、余分に育てることは、たいした手間ではなかった。蛭子をつれかえり、自分の乳で育てた。


 すくすくと蛭子は育った。いや、あきらかに育ちすぎだ。


 ふしぎなことに、同じ時期に生まれた乳兄弟が、はい始めるころには、蛭子は外をかけまわっていた。


 蛭子には、ほかにも常人と違うところがあった。


 ケガをしても、すぐに治る。


 一度、こんなことがあった。


 乳母が目を離したすきに、蛭子はウサギを追いかけ、山に入った。崖から落ちて、全身の骨がバラバラになるほどの大ケガをおった。


 てっきり蛭子が死んだと思い、乳母は泣いた。ふしぎな子ではあったが、育てるうちに、わが子同様に愛しくなっていたからだ。


 とはいえ、祈祷をあげてもらえるほどの身分ではなかった。


 乳母は泣く泣く、夫に頼んで、蛭子をうずめる穴をほってもらった。死者は悪霊がとりつく前に、手足をしばって、うずめるのが、ならわしだ。


「あわれなり。吾子よ。せめてのたむけに、冥土に木馬を持たせん」


 木の枝をけずって、馬を作ってやった。


 だが、おどろいたことに、次の太陽が昇るころには、蛭子は元気になり、また外をかけまわるようになった。馬の玩具を、たいそう喜んだ。


 これを見て、乳母の夫は、蛭子を薄気味悪く思うようになった。


「黄泉の王に嫌われし子よ。不吉なり。悪しきことを招かねばよいが」


 その後も、蛭子は、ほかの子とは、くらべようもない速さで成長した。


 五回、春をむかえると、もう一人前の大人になった。


 年をかさねた養い親にかわり、田畑の仕事をした。無口で、おとなしい青年だが、兄弟のなかで一番、働き者だ。


 蛭子は乳母が本当の親でないことを知っていた。だから、育ててもらった恩返しをしたかったのだ。


 蛭子は、おぼえていた。


 自分が、まだ骨もないグニャグニャの嬰児(えいじ)だったころ、本当の親に、すてられたことを。


 ほんの少し早く生まれてきてしまったばっかりに、実の親に嫌われてしまったことを、理解していた。


 だから、なおのこと、わが子とわけへだてない愛情をそそいでくれる乳母に、深く感謝していた。


 その乳母も年々、年老いていく。


 ある冬、風の病にかかり、長く寝ついた。


 四十という年は、このころの人間にとっては老境だ。それも、かなりの長命。


 この須佐の地では偉大な王のおかげで、平穏に暮らせる。が、ひとたび戦になれば、もっと若い者でも、あっけなく死んでいく。


 いつまたヤマトが攻めてくるかもわからないし、明日の保証のある人間など、一人もいない。


 ましてや、乳母は、この年だ。今年の冬は越せまいと、だれもが思った。


「母者人。しっかりしてください。欲したもう物はないか?」

「キジの肉が食いたし」

「キジか。しばし待たれよ。押しても持ち帰らん」


 兄弟は母のために冬山へ入った。しかし、キジはどこにもいない。無情に日が暮れる。


「日をあらためるべし。雲行き、あやしからん。夜には吹雪こうぞ」


 兄弟たちは山をおりていった。が、蛭子だけは山に残った。


 兄弟たちは内心、血のつながらぬ蛭子をうとんじていた。一人でもキジを探すという蛭子を、だれも止めなかった。


 蛭子は夜になってもキジを探しまわった。だが、兄弟の言ったとおり、ふぶきになった。これではもうキジは見つかるまい。


 なによりも心配なのは、乳母の容体だ。この吹雪では、夜明けまで、もたないかもしれない。


 なんとしても、最後にキジを食べさせたい。


 そのとき、蛭子は考えた。


 じつは、乳母にも兄弟にも言っていないが、蛭子の体には、まだ秘密があった。蛭子だけが、自身のその神秘を知っていた。


 以前、田をたがやしているときだ。うっかり、クワで自分の足指を切断してしまった。


 しばらくは苦痛に、もだえた。が、日没前には、傷口から新しい指が生えてきた。


 蛭子は切断した指と、生えてきた指を見くらべたものだ。


 もちろん、こんなことを他人には言えない。ますます気味悪がられることは目に見えている。


 だから、誰にも打ち明けなかった。


(われの手足は、断ちしのちも生えるものなり)


 私の手足は切断しても生えてくる。これをキジと、いつわってはどうかと、蛭子は考えた。


 真実を知らぬ乳母は、きっと満足して死ぬだろうと。


 蛭子は決心した。麻縄で自分のヒザをしばり、左足を切り落とした。雪が鮮血にそまり、激痛に、のたうちまわった。


 どのくらいのあいだか、蛭子は気を失っていた。


 気がついたときには、痛みは消えていた。左足には小さな半透明の足がついていた。


 蛭子は、それが刻一刻と大きくなるのをながめた。


 新しい足が、もとの足と同じ大きさになると、古い足を小さく切った。人の足だとわからぬよう細工した。


 急いで村へ帰ると、乳母の命は風前の灯だった。が、まだ息はあった。持ち帰った自分の足を土器に入れ、塩水で、ゆでた。


「母者人。さあ、キジなり。召されるがよい」


 乳母は涙をながして、その肉を食べた。ところがだ。その肉を食べた直後、乳母の身に、きせきが起こった。


 急に、うなり声をあげたと思うと、みるみるうちに全身の肌が、うるおった。顔からシワが消え、白髪は黒くなった。まがっていた腰も、まっすぐになった。


 死にかけていた老婆が、まるで息子たちと同い年の少女のように若返った。


「いかなる天の恵みか。力があふれるなり」


 この奇跡は、たちまち村中に知れ渡った。親を思う子の願いが天に届いたのではないかと、もてはやされた。


 しかし、これを快く思わない者がいた。養父だ。妻が若返り、自分だけ老いているのは不公平に感じたのだ。


「なんじ(おまえ)を養いしは、われも、吾が妹(妻)も同じなり。吾が妹に奇跡あれば、われにもあるのが道理なり。


 なんじ、われのために天に祈りて、キジをとるべし」


 そう言われれば、むげに断れなかった。養父は嫉妬深いから、ことわれば、いよいよ嫌われる。


 また、あの苦しみに耐えるのかと思うと、気がめいった。が、蛭子は承知した。


「山に入り、キジをとるなり」


 蛭子は山に行き、また足を切り落とした。それを食べた養父は若返った。評判は高まった。


 われも、われもと、人々は蛭子のもとをおとずれる。


 もちろん、蛭子は、ことわった。


 だが、年寄りを青年に戻し、死病を打ち払うというウワサは、野をかけ、山をこえた。広く人々の知るところとなった。


 そのうち、人々は、みつぎものをさしだすようになった。


 蛭子たちの小さな田で収穫できるのと同等の米をさしだして、神秘の肉と交換してほしいと願った。


 山のような宝に有頂天になった養父は、次々に、その願いを聞き入れた。


 そのたびに蛭子は山に入り、自分の手や足を切り落とさねばならなかった。


 蛭子の家は、急速に栄えた。米をたくわえる倉を、いくつも建てた。


 が、養父は知らない。その富は、蛭子の苦痛を代償にしていることを。


「おねがいです。もう、よしてください。われは、これ以上、耐えかねるものなり」

「ならぬ。なんじを養いし恩を忘れたか。だまって仕えるべし」


 蛭子があまり嫌がるので、兄たちが不審に思った。


 父に追われるようにキジをとりにいく蛭子のあとを、兄たちはこっそり、つけた。

 そこで、兄たちが見たのは、この世のものとも思えぬ光景だ。


「大事なり。大事なり。父者人。母者人。かの者は八又の手足をもつ、もののけなり。オロチの変化にやあらん」


 日ごろ、蛭子をよく思わぬ兄たちは、かれらの見たことを吹聴した。


 人々は恐れた。蛭子のおかげで病を治し、若返っておきながら、おぞましき不浄の肉を食わせたと憤った。


 そうとは知らぬ蛭子は、山から帰ったところを、暴徒に待ち受けられた。火や石をもって追われた。


 乳母だけが、蛭子をかばって逃がしてくれた。


「行くがよし。ここは落ちのびるべし」


 蛭子は生まれ故郷をうしなった。もどれば、もののけとして殺される。


(われは悪しきことをせしか? なんの咎あって追われようぞ)


 ながす涙が、見あげる月をにじませた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る