第3話 東京

 自分が削られている感覚に陥れば陥るほど、せめて好きなものを傍に置いておきたくなる。髪を切りにいく時間がなくても、(制限はあるものの)せめて服ぐらいは好きなものを着ていたい。金木犀とバンマツリの咲く季節は少しだけ外を歩くのが楽しくなる。親の真似をして、中学生のときに覚えた深夜ラジオはradikoができてから、通勤のお供。それから、時々無性に会いたくなるのは東京タワー。


 実家にいる頃、東京のこともよくわからないうちからロマンチストな母親に同級生だと教えられた東京タワー。ほとんどが平屋で、2階建てだった実家は地元でもかなり珍しい方だったくらいだから、東京タワーなんて当たり前だけど見たこともない高さだった。上京してしばらくは、観に行くということがはしゃいでいる田舎者のようで嫌だったけれど、スカイツリーが建って、東京タワーが徐々に仕事を終えていくニュースを目にしてからようやく足を運べるようになった。


「もしもし?今、キミの同級生のところにいるよ」


 私が母親をお母さんと呼ばない話はさて置き、初めて展望台まで上ったときは、思わず彼女に電話した。それはある年の7月のことで、展望台の天井は一面、青い電飾で昼間なのに天の川ができていた。展望台から見た東京の景色は海まで見えるほど空を遮るものがない。その景色は、言葉にするのが難しく、その時はまだピンときていなかったけれど、今思うとある意味で、実家の窓から見た地元の景色に似ている気がした。東京タワーの展望台に上ったのはその時だけだ。


 転職して窓から毎日東京タワーが見えるようになった。


「ここ、東京タワー見えるんですね!」


 会社に足を運ぶお客さんは窓の外を見て喜んでくれるけれど、この窓から見える東京タワーは押し並べて想像通りの「東京」を描いたものであって、それ以上でもそれ以下でもない当たり前の景色だった。石ころみたいな景色にときめきはなく、私は肯定以外に意味のない返事をした。


 行かないといけない。


 そう思ったのは、終電を逃した夜だった。タクシーを拾っても深夜割り増し料金で、家まで約1万円。少しでも近くで拾おうと思ったことは、六本木の街を歩きながら思い付いた言い訳だった。首都高速3号渋谷線沿いを行く。アルコールとタバコと香水、ケバブの混ざった匂い。クラクションがサラウンドのように私を囲む。交通量は多め。自分とは種類の違う女の人たちの笑い声。自分とは交わらない人生を過ごしてきた人たちと再接近するドン・キホーテ前。すれ違う度に品定めされるような視線。関わりたくなければ誰とも目を合わせてはいけないし、足を止めてはいけない。田舎者にとっては、多少命を懸けている気持ちにさせられる東京の夜。東京タワーまで徒歩15分。近づくにつれて人通りが減り、東京タワーは大きくなる。ロシア連邦大使館の前に立つ警備員さんたちとすれ違う頃には、その背の高さは一目瞭然だ。窓の外で「東京」の景色の一部になっていた赤色を挿す建築物ではなかった。ラジオ日本の看板を過ぎて、榎坂を上り、大使館だらけの交差点で信号を待つ。信号を渡って、永井坂を上り始めると、一瞬東京タワーは見えなくなる。商業界会館を越えると背の高い街路樹が続いて、高い枝に垣間見る赤色の光が、そこにあることはわかっているにも関わらず、胸を高鳴らせた。坂道は続き、視線は釘付けにりなりながら、足はもっと早くなる。並木道が途切れ、遂に現れるラスボスのような佇まい。近い。大きい。すごい。あらゆる語彙力を奪われていくのを感じた。人生で初めてパワースポットの存在を信じた瞬間だった。

 首がもげそうになるほど、ただただ見上げた。もやもやしてばかりの頭をからっぽにできたような気がした。少し楽になって、涙が出た。


 その日から早く帰りたい気持ちを押さえて、終電の40分前に退社できる日は六本木から4駅を徒歩に変えて、東京タワーに会いに行くようになった。東京タワーの照明が季節で変わることを知ったのはその頃から。窓から見ているときはそんなこと思いもしなかった。東京タワーの麓は深夜、いつ行っても人がいる。1人でいる人、カップルでいる人、友達同士でいる人それぞれだったけれど、道を挟んで見上げるその時間はそこにいる殆どの人が同じことを考えているように思えた。


 営業時間外で中に入ることができるわけでもない。何があるわけでもない。何かを求めているわけでもないけれど、その時間ばかりは私もイヤホンを外す。ただただ見上げる東京タワーは、今夜も綺麗でやさしい。聞こえるのは風に揺れる木の葉の音。理由は何度来てもわからないけれど、何となく思うことは、泣きたいような叫びたいような、言葉にしがたい自分の気持ちを分かってくれるような眼差しが、自分を満たしてくれること。きっとその時間に私は励まされていた。


「あれ、あの人…」


 近くに腰かけていたカップルのうち1人が声をあげた。つられて視線の先を見ると、人だかりとまではいかないまでも、場所によっては放っておくと人だかりになりそうな人の流れが見えた。東京タワーの灯りはあるものの、周囲は公園。その中心にいる人はよく見えなかったけれど、著名な人であることは違いなさそうだった。近くにいたカップルが立ち上がり、「彼」らしき人に駆け寄る。

 ただ東京タワーを見上げる時間がほしいだけだった私のささやかな願いは、早く帰ることができた40分の価値がわからない人たちに掻き消されてしまった。今日はついていない。ひどく残念な気持ちになって、もう1度今夜の東京タワーをもう1度目に焼きつけて、私はすぐにその場をあとにした。とは言えこれもある意味"東京"っぽさなのかもしれない。人気のあるはずがない増上寺の脇を歩いている頃になって、やっと少し前向きになれたような気がした。


 また境目のない今日が始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る