7

 部屋に入ろうとしたメイラの目に映ったのは、微動だにせず最敬礼の姿勢を保つメイドたちの姿だった。

 迎えに来てくれたユリたち以外の、夜番を含めすべてのメイドが入り口から等間隔に並び、部屋中央のテーブルへ道を作っている。

 唖然として立ち尽くしていると、付き従っていた二人の女官がさっと脇を通り過ぎ、メイドたちの間を通ってテーブルへと近づいた。

 その肩越しに、見慣れない黒い盆のようなものが置かれているのが見えた。彼女たちはそれに向かって居住まいを正し、次いで右手を胸の上に置いて深く膝を折る。

 恭しく両手を差し出したのは一等女官のルシエラだ。

 彼女はそれを目線より上に来るように掲げ持ち、くるり、とこちらに向き直った。

 メイラは、メイドたちがなお一層深く頭を垂れるのを、妙に現実感から遠いもののように見ていた。

「……メルシェイラさま。陛下よりのお手紙と、下賜品です」

 耳元でささやくユリの『陛下』、という言葉にびくりと震える。

 まさか、煽りの小道具なのだろうと思っていた陛下からの手紙が、現実のものだとは思っていなかったのだ。

 ネメシス閣下の指示通りに、白薔薇宮のメイドに揺さぶりをかけた。

 閣下の意図は聞いていないが、ピンポイントで、「ミッシェル皇妃の元へ案内に立つメイド」という指示だったので、特に彼女に問題があるのだろう。

 頑なに受け入れようとしなかった憲兵の調査を認めさせ、なおかつ敵意を煽る。指示の後半の部分がよくわからないのだが、なかなかうまくできたのではないかと思う。

 もともと好かれてもいなかったが、これであのメイドのヘイトは完全にメイラに向いただろう。

 筆頭傍付きということは、ミッシェル皇妃の信頼が厚いということ。妊娠中である皇妃の傍付きに問題があるというなら、それは大問題だ。ネメシス閣下の意図する通りに、問題が解決すればいいのだが。

「メルシェイラさま?」

 現実逃避気味に栗毛のメイドのことを考えていたメイラは、ユリに促されてはっと我に返った。

 いつの間にか、黒い漆塗りの広蓋を掲げ持つルシエラが、メイラの目前で床に両膝をついている。

 胸元の高さに差し出された真っ黒な漆器には、例の夜着の箱同様に月光螺鈿の牡丹が咲いていた。

「……陛下から?」

「はい、妾妃メルシェイラさま」

 二等女官マロニアの声は若干震えていた。

「先ほどエルネスト侍従長がおいでになり……メルシェイラさまはご不在でしたので、代理として受け取らせていただきました」

 侍従とはいえ男性なので、後宮に滞在できる時間に制約がある。いつ戻るか分からないメイラを待つことはできなかったのだろう。

 できれば先ぶれが欲しかった。時間がわかっていれば、直接受け取ることができたのに。

 逆を言えば、先ぶれがなかったからこそ、煽りの小道具だと思ったわけだが。

 広蓋の上に乗っているのは、封蝋された一通の手紙と、揃いの細長い漆箱だった。こちらにも月光螺鈿の細工があって、牡丹の花びらが控えめに散っているような意匠である。

 誰もがかたずを飲んで沈黙を保つ中、メイラはそれらに手を伸ばすこともできず、どう振るまえばいいのかもわからず立ちすくんだ。

 きょとりと視線が揺れる。

 跪いて微動だにしないルシエラを、そのままの恰好でいさせるわけにはいかない、というのはわかる。立つように言えばいいのか? それとも先に受け取るべきか? 広蓋ごと?

「……まずは手紙を」

 こっそり教えてくれるユリはきっと神様の使いだ。

 メイラはほっと安堵の表情を浮かべながら、封蝋された手紙に触れた。

 周囲の皆の視線はすべて床の方を向いているので、挙動不審を知られずに済んでいる。根っからの平民育ちには、こういう作法は馴染みがなくわからないことだらけだ。

 手紙を受け取ると、ルシエラの頭がゆっくりと動き、視線が合う。いつもの冷たいものとは程遠い、莞爾とした笑みがそこにあった。

 とろりとした視線で見上げられ、カッと頬が熱くなる。

 どうして彼女の眼差しはいつも妙な色を含んでいるのだろう。意図してやっているなら困ったものだし、そうでなければ方々で事案が発生しているに違いない。

「……と、とりあえず読むわ」

「先に下賜品をご覧になられれては?」

 ユリのアドバイスを聞くに、受け取った手紙をこの場で読むのは違うらしい。

 控えていたマロニアがひどく緊張した面持ちで前に出てきて、一礼してから細長い箱の蓋を開けた。

 中に収められていたのは白い布。

 彼女は黒漆塗りの蓋を丁寧に横に置き、光沢のある絹をそっと摘まんでめくった。

 現れたのは、美しく磨き上げられた髪玉飾りがひとつ。

「……まあ」

 控えめに光るその色は深い紫。そういったものとは縁遠いのでよくわからないが、紫水晶だろうか。アメジストであれば市井でも出回っているそれほど高価ではない石だが、こんなに濃い色合いのものは初めて見た。

 もしかしなくとも、アメジストではない? だとすればものすごく高価な品ではあるまいか。

 あまりにも分相応なものに手を伸ばすのもためらっていると、マロニアが何かに気づいたように大きく息を飲む音が聞こえた。

 彼女の指が震え、熱いものに触れでもしたかのように、さっと手が引かれた。

 まるで怯えたようなその表情に、メイラもまた怖くなってきた。

「お茶を入れましょう。シェリーメイ」

 触れるどころか手を伸ばすこともできずに立ち尽くし、どうしようどうしようと混乱していると、頼りになる筆頭メイドが通常通りの声で言った。

 今はその淡々とした声が頼もしい。

「フランはメルシェイラさまの御髪を整える用意を」

「はい」

「すぐに」

 メイラのメイドたちは何事もなかったかのように動き始めた。

 ルシエラも立ち上がり、マロニアに厳しい視線を向けている。はっきりわかる、それはまるで使えない部下を見る上官の目だった。

 自分がそんな目で見られたら泣いてしまうかもしれない。メイラは震えるマロニアを気の毒に思い、それが玉飾りへの惧れを幾分か和らげてくれた。

 促されテーブルの方へと進むと、ものすごく優雅に見える動きで、ルシエラが脇に避ける。彼女の動きは隅々まで洗練されていて、しかも大げさではない。

 見習わなければと思うのだが、なかなか思うようにはいかない。

 ドレスを身にまとっての美しい所作は、思いのほか難しいのだ。

 引かれた椅子に腰を下ろすのにも一苦労。裾のことまで考えて座らなければならない。夜会用のドレスではないのでパニエはつけていないが、それでも襞が多く裾が長いスカートの扱いは大変だ。

 それを手慣れた様子で、どこから見ても美しいように整えるのはメイドの仕事だ。

 もし急にその役目をせよと言われても、彼女たちがするように上手くはきないだろう。

 メイラは背筋を伸ばした。

 いくら裾が美しく整えられても、姿勢が悪くては見栄えが良くないからだ。

 すっと音もなく、黒い広蓋がテーブルの上に置かれた。

 再び意識が玉飾りの方に向き、本当にこれを髪に差すのかと緊張した。

 見れば見るほどに深い紫で、陛下に食べさせていただいたブドウの粒ほどに大きく、丸い。

 色の濃さのせいか、柔らかな照り感があり、キラキラしいというよりも重厚で落ち着いた雰囲気だった。

 宝石についてなど知識の欠片もないが、これはきっと紫水晶。それ以外の何だというのだ? こんな大きさのものが、もっと高額な石だというなら……

 不相応過ぎて、とても身に着けられる気がしない。

 テーブルの上にはいつの間にかお茶の用意がされ、背後でフランがメイラの結い上げた髪をいったん解こうとしている。

 ひどく長く感じられる時間、漆箱を前にして逡巡していた。

 触れて美しさを愛でればいいのか、感謝の言葉を口にするべきなのか、この手の装飾品を男性から贈られた経験など皆無なので、どんな表情をすればいいのかすらわからない。

「……!」

 やがて結いあがったのだろう、ユリが一礼してから玉飾りを手に取ろうとしたのだが、何故か彼女までもが何かに気づいたように息を飲み、身を引いた。

 ものすごく不安だ。なに? やっぱりアメジストではないのか?

「……皇室の紋章が」

「え」

 メイラだけではなく、おくれ毛の始末をしていたフランの手もピタリと動かなくなった。

 部屋中の物音どころか、皆の呼吸までもが止まったのではあるまいか。

 見てはいけないと心が警報を鳴らしているのに、無意識のうちに視線が漆箱の中へと向かう。

 紫色の玉飾りの台は艶消しの黒みがかった銀製。髪に刺す部分は細長く二股に分かれた櫛状で、玉を固定している部分は多角形。

 その台座の部分に、たしかに何か紋章のようなものが刻まれている。よく見なければわからないさり気なさだが、一度気づくとそこから目を逸らせることができなかった。

 この距離だとはっきりと見て取れるその造形を目に刻んで。

 ふう……っと意識が遠ざかりそうになった。

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