第30話

「メルシェイラ!」

 鋭い声は、父に似ている。しかしその髪はまだふさふさしているし、色も違う。

 メイラは立ち上がり、さてどっちだったかな、と小首を傾げた。

「襲われたと聞いたぞ、大事ないのか?」

「……ええ、ハインツ卿」

「義兄と呼べ、愛しい妹よ」

 一気に距離を詰められて、げんなりしながら無意識のうちに一歩足を引く。

 実のところ、この異母兄と直接会うのは初めてなのだ。

 父の家族はメイラのことを蛇蝎の如く嫌っている。奥方たちは皆それなりの身分の貴族女性なので、メイラの母親のような酒場女は娼婦と似たようなものだと思っているのだろう。

 認知されはしたものの公爵家の娘と名乗ることは許されておらず、父もその状況を黙認していた。いずれ政略の駒にする気でいたのだろうし、実際にそうしたわけであるが、お世辞にも良い扱いを受けたとは言えない。

 嫌がらせをされようが、揉め事に巻き込まれようが、誘拐されかけようが、ハーデス公爵家は基本スルー。食い扶持ですらろくに面倒を見てもらえず、他の孤児たち同様、修道院への寄付金が生きる糧だった。

 ポケットのどこをひっくり返してみても、彼らの中に『愛しい』などという感情は混じっていまい。それが急に掌を返されても、気持ち悪いとしか感じられない。

「そんなにやつれて……恐ろしい思いをしたのだろう? 可哀そうに」

 見ているだけで怖気を振るってしまいそうな表情で異母兄は言う。

 文官らしいひょろりとした手が伸びてきて、充分な距離があるにもかかわらずブルリと全身が震えた。

「ハインツ卿、ここは王宮です。勝手な事をされては困ります」

 ぴったりと異母兄とその息子の背後についてきていた近衛騎士が、穏やかで如才ないが毅然とした口調で言った。

 おそらく近衛騎士は、メイラの兄だと名乗られたので制止できなかったのだろう。

 しかし皇帝の妃であるその身に許可なく触れるなど、家族といえども許されることではない。

 メイラは伸ばされた手をきっぱりと遮ってくれたことに安堵の息を吐いた。

 そのあからさまな表情に察するものがあったのか、栗毛の近衛騎士が異母兄との間に身を割り込ませ、赤茶色の髪のほうがその息子を警戒するそぶりで踏み込んでくる。

「メルシェイラ、やはりお前に後宮務めは無理なのだ。父上には儂のほうから申し上げておくから、領内へもどるぞ」

「……いえ」

「お前の代わりに、娘のリリアを連れてきている。お前よりも美しく血筋も良い。陛下もそのほうがお悦びだろう」

 この場にいる誰の目にもわかっただろう。猫なで声を装った、その本音に。

 メイラはいつの間にか持たされていた扇子で口元を覆い、嘆息した。

 その肩に素早くショールが掛けられ、部屋着一枚という貴族女性としてははしたない服装がかろうじて隠される。

「……なにもお答えする必要はございません」

 素早くメイラの体面を整えてくれたのは、メイドたち。

 小さな声で囁いているのはアナベルだ。

 シンプルなドレスの裾をふわりと直され、地味ではあるがそれなりに体裁が整うのと、すでにもう全開にされている扉が高らかにノックされたのとはほぼ同時だった。

「度々失礼いたします、妾妃メルシェイラさま」

 聞こえてきたのは、穏やかな声。

 入り口で警戒する近衛騎士たちが左右に道を開ける中、濃い灰色の軍服に真っ白なマントを羽織った五人ばかりの集団が現れた。マントに刻まれた紋様は天秤。憲兵師団だ。

 近衛騎士よりも相対的には細身のように見えるが、皆背が高い。視線がそちらに集中してしまうのは意図的にだろうか、その中に中肉中背の男が居ることに気づくのは最後だ。

「……ネメシス憲兵師団長閣下」

 声で来訪に心当たりがあったので、メイラは比較的早くにその姿を認識していた。

 付け焼刃に近いが散々練習させられたカテーシーで、丁寧に頭を下げる。

「このような時刻にどうされましたか?」

 本来身分が上の者が先に言葉を掛けるものなのだが、あえてメイラは食い気味に質問した。

 ネメシス閣下とメイラとではどちらが上位かというと微妙なところだ。

 メイラの中では閣下の方が格上だと思っているが、先ほど部屋で尋問をうけたときに下座に座られたこともあり、申し訳ないとは思ったが先に声を掛けさせてもらう。

 質問の前に礼を取っておいたから、礼儀上は問題ないと思いたい。

「妾妃さまにお客が来られているとお伺いしましたので」

「まあ」

 傍からだと、心配しているようにも見えるだろう。しかしこの男を少しでも知る者からしてみれば、それは明確な警告であり大きな釘だった。

「ご心配をおかけしました。本当に申し訳ございません」

 あっさり白旗をあげたメイラは、従順に頭を下げる。

 理不尽を厭う気質は人並みにあるが、強い者に逆らっても良い事などないと知っている。従順というよりも保身、言うなれば比量だ。

「ハインツ卿もお控え成されよ。妹君とはいえ、陛下のお赦しなく面会することは許されておりません」

「い、いや。義妹が何か不作法をしてご不興を買ってしまったのでしょう、本当に申し訳ない事です」

「ハインツ卿」

「いやいや何もおっしゃるな。陛下へは父から謝罪にお伺いするかと思いますが、こうなったからには一刻も早く引き取らせていただく」

 ネメシス閣下が相も変わらぬにこやかな表情のまま小首を傾げた。

 何も知らぬ者が見れば、可愛らしい仕草に見えたかもしれない。

「義妹はわけあって市井で育ったので、貴族女性としての礼儀作法に疎いのです。こうなるのではと心配しておりました。やはり陛下のお側にあげるには難があったのでしょう。ここだけの話、我が娘リリアのほうが何倍も美しいし血統も申し分ない」

 そのガゼルが興味をひかれた方角を見ているような雰囲気がしばらく続き、口早につらつらと言葉を続ける異母兄の額に汗が滲み始める。

「これ以上メルシェイラをここに置いておくのは申し訳なく、今からでも連れ帰ろうと思うております。構わないでしょう?」

 きっと代わりにそのリリア嬢を連れてくるつもりなのだろう。相当に自信があるのか、拒否されるとは思ってもいないようだ。

 ハーデス公爵家の一族について詳しいことは知らない。しかし、年頃の娘がいるにもかかわらずメイラが後宮に送られたということは、それ相応の理由があると思うのだ。

 第二皇妃殿下がもしご無事に男児を挙げられれば、この帝国の後継者となる。

 つまり、公爵家の派閥の中から次の皇帝が生まれるという事だ。

 必要なのは後宮内での勢力を増やすことであり、他の妃たちの目を他所に逸らせることであり、可能であれば他派閥のライバルたちを蹴落とすことだった。

 間違っても、対抗馬になどなってはならない。

 にわか妾妃のメイラですらその程度の推察ができるのに、異母兄は大丈夫だろうか。

「……あの」

 淡い金色の髪が汗で額に張り付いている。まだふさふさだが将来的には怪しそうな生え際を眺めながら、メイラは控えめに口を開いた。

「このこと、お義父さまは?」

「も、もちろんご存知だ」

「……さようでございますか」

 ひくりと異母兄の頬がひきつった。ああ……無断で強行したのね。

「わかりました。お義父さまがそうおっしゃるのであれば、従います。ですが、今すぐは無理です。書類仕事ではありますが、手続きというものがございますので」

「その必要はない。あとはすべてこちらで手配しておく」

 いやに急ぐな。

「ですが……」

「聞き分けの悪いことを申すな」

「それはなりませんよ」

 少し苛立った風の異母兄が一歩前に足を踏み出し、それを注意深く騎士たちが見守る中、何が楽しいのかニコニコと笑顔を浮かべた憲兵師団長閣下が朗らかに言った。

「妾妃メルシェイラさまはここから去ることはできません」

「……なんですと?」

「一昨夜、陛下は妾妃さまをお召しになられました。いかな卿とて後宮の規則はご存知でしょう」

 お手付きになった妃は、最低一年間は後宮を出ることを許されない。もしも孕んでいた場合を考えてのことだ。

 メイラはそれを、すっかり失念していた

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