修道女、これはちょっと駄目な奴じゃないかと思う

第29話

 チクチクと針を刺す。リズムよく同じ動きを繰り返し、真っ白な布地に白銀の模様を形作っていく。

 すっかり日が暮れ、外は真っ暗だった。

 刺繍を始めて数時間、メイラは休みなく手を動かす。

 そうしていないと、お尻がそわそわして落ち着かない。



 日が西に傾く頃、離宮に憲兵の師団長がやってきた。名乗られなければ、そんな責任ある地位にいる方だとわからなかったかもしれない。

 穏やかで優し気な雰囲気で、柔らかな喋り方と笑顔が感じのいい男性だった。

 もし修道女として神に仕える道に進まなければ、こういう男性を結婚相手に選んでいただろう。

 そう思ったのだ。……あくまでも第一印象だが。

 話しているうちに、あれ? と感じた。

 いつの間にか部屋付きメイドの失敗談を語り、その前は後宮に来る途中の馬車移動が苦痛だった事を愚痴っていた。

 そして気づいたときには、ここ数日にあったことをほとんど全てペラペラと話してしまった。

 なるほど。一国の憲兵を率いる人物が、人のいいただの草食系男子なわけがないのだ。

 気づいてからは、注意して言葉を選んだ。

 もともと秘すべきことはほとんどないのだが、このまま喋り続けているとメイラの何もかもが露呈してしまいそうだ。初対面の男性に、治したい癖まで話すのはさすがに恥ずかしい。

 座ったときに、ドレスの下で足が床につかないことが悩みだなどと口にしかけて自制して、目を逸らそうとしたその先にいらしたのだ……陛下が。



オレンジ色に染まりつつある夕日を背に、美しい庭園の向こうから大股に歩いてくる一人の男性。この場所に居るのに不釣り合いにラフな軽装で、一瞬見間違いかと思った。

 しかし、幻覚だろうが錯覚だろうが目にしたものが脳へ理解をもたらすよりも先に、みっともなくも手から扇子が滑り落ちてしまった。

 気づいたときには、淑女にあるまじき無手状態で立ち上がり、ふらりと数歩ガラスの方へ寄っていた。

 陛下の視線がこちらを射て初めて我に返り、あまりの無様さに立ち尽くす。その強い視線から逃れるように下を向いて、これではまずいと焦った。

 ぎりぎりのタイミングでカテーシーできた自分を褒めてやりたい。

 いや、礼儀的には少しタイミングが遅かったかもしれない。貴族の令嬢らしく優雅に礼をとったと思ってもらえるとありがたいのだが。

 現れた陛下は、従えた近衛騎士よりもシンプルで飾り気の少ない服装をしていた。一見ただの地味な無地生地だが、きっとあれはトルタ綿だ。ほんの少し青みを帯びた縦糸の独特な風合いが希少で、目玉が飛び出るほどの高級品。それをさらりと着こなしてしまうなど……さすがは皇帝陛下。

 できるならもっと近くであのシャツを見てみたい。

 鼻息が荒くなりそうなのを必死で堪え、近づいてくる偉丈夫を見上げる。

 三百六十度どこから見ても威圧感たっぷりな陛下に、気負わずポンポンと言いたいことを言える憲兵師団長どのはすごいと思う。

 なんだか言い争っている風の二人にお茶でも入れようとしたら、至近距離にトルタ綿の袖があって息が止まった。

 抱きかかえられたのだと気づいたのは、軽々とソファーに置かれてからだった。

 ギシリ、と重量のある陛下を受け止め隣が沈む。

 唖然として、不躾にも陛下のご尊顔をまじまじと見上げてしまった。

 閨の時とは違い、ずっと顔色は良く見える。相変わらず男性的な整った容貌をしていて、赤味かかった金髪がサンルームから斜めに刺す陽光にきらめいている。

 肌が触れるほど近くにその熱を感じ、己とは見るからに造りの違う巨躯に圧倒されて、メイラは急に今のこの状況に震えあがった。

 どうして陛下はそこに座ったのだろう。座るなら一番の上座にあたるあそこだろう。メイラの隣に座るにせよ、何人分でも距離を開けることができるのに。

 陛下はそのまま腕組みをして、若干不機嫌な様子で尋問の様子を見守っている。

 腕にトルタ綿の触感が伝わってきた。

―――……近すぎない?!

 もっとよく見てみたかったし、可能であれば触れてみたいと思いもしたが、それはこういう意味ではない。

 もしかしなくともこれは、状況説明というよりも尋問なのかもしれない。

 緊張で喉が渇いてきた。

 侍従が拾ってくれた扇子を守り刀のようにぎゅっと握って、陛下のことは気になるけれども、まずはネメシス憲兵師団長閣下の問いに真摯に答える。

 途中、女官長に言われたことを思い出して聞いてみると、閣下は否定しなかった。

 改めて腹立たしくなってきたが、ここでうっ憤を吐き出すわけにはいかない。何しろ、胸の鼓動すら聞こえそうな至近距離に陛下が座っておられるのだ。

 落ち着こうと息を吐き、深呼吸していると、するり、と腰に手が回ってきた。



「……っ」

 メイラはあの時のことを思い出し、針を刺す手を止める。

「メルシェイラさま?」

「……大丈夫よ」

 気づかわし気なユリに小さく首を振って見せて、再び蔦模様を刺していく。



 彼女は昔から腰や背中に触れられるのが苦手だった。子供に不意に服を掴まれただけでも笑い出してしまう。しかし、さすがにここで爆笑するほど空気が読めないわけではない。

 やましいことがあるわけではないので、身をよじるのも我慢した。逃げようとしていると思われても困る。

 だがくすぐったいのはどうしようもなく、目で陛下に手を離してくれるよう懇願してみたが、相変らず難しいことを考えていそうな顔がますます険しくなっただけで、むしろ軽く顎を掴まれ真偽を確かめるように顔を覗き込まれた。

 あの夜と同じ距離で見る瞳は、青味かかった碧色だった。クジャク石のような美しいその色に魅了されかけ、慌てて顔を逸らせる。

―――ち、近い近い近い!!

 思わず悲鳴を上げそうになって、必死で唇を閉ざし呼吸も止めた。

 不意に背中を撫でられ、実際に声を上げずに我慢できたのは奇跡に近い。

―――や、やめてえぇ……

 涙目になって陛下を見上げると、口づけされそうに近距離に、男性的に整った美貌があった。

 メイラはもはや半泣きだった。

 他の美しい後宮の美女たちに比べると、女性的な魅力に欠ける事は自覚している。

 肌は荒れているし、若干頬骨が浮ているほどに痩せているし、ほとんどスッピンに近い薄化粧でもあった。とてもではないが、至近距離で見るに堪える顔ではあるまい。

 陛下はじっくりとそんなメイラの顔を観察して、何を思ったか、ふっと……お笑いになった。

 きっと不細工な子だと思われたに違いない。

 陛下はお優しいから、実際に口にはされなかったが。



「……はぁ」

 再び手が止まっていることに気づき、メイラはため息をついた。

「そろそろご休憩なさっては?」

 ユリが手元のランプの位置を変え、光の強さを少し上げた。

 ここは後宮外なので、部屋付きメイドのリコリスたちはいない。ハーデス公爵領からともに来た三人と、ここ青の宮専属の四人のメイドたちが甲斐甲斐しくメイラの世話を焼いてくれる。

 いかにもベテランのメイド長にすすめられ、まだ日が暮れ落ちないうちに風呂に入った。

 当然だが、一人で入るという選択はさせてもらえず、きっちり隅々まで洗われてしまった。

 彼女たちは、メイラが羞恥心を感じる間もなくテキパキと用を済ませていく。長年チームで働いていましたね?! と確信できるほど手際がいい。

 いつの間にか全身ピカピカに磨かれて、気づいたらマッサージまで受けていて、ほかほかのツルツルになったところでぽい、とユリたちの手に戻された。

 待ってましたとばかりに、見覚えのない部屋着に着替えさせられる。

 あの時部屋にあったドレスや下着などはすべてダメにされたのでどうしようかと思っていたが、有能なメイドたちがどこからか調達してくれたのだろう。

 着替えると同時に、どこからともなく湯冷ましの冷水が出てきた。

 柑橘の浮いた水は、非常に美味だった。

 あの水差しに残っているオレンジを食べたら駄目かな? 駄目なんだろうな。



 今日はものすごくいろいろとあったので、疲れてしまった。

 メイラには貧乏な修道院を背負ってそれなりにやってきたという自負がある。しかし後宮という見知らぬ場所での悪意の洗礼は、基本朴訥な田舎娘にすぎない彼女にとって強烈過ぎた。

 理不尽など世の中には溢れている。人の好悪はどうにもならないのだと知ってもいる。

 あの程度の嫌がらせなど、どこでも起きうるものだと安易に考えていた。

 しかし、憲兵師団長だけではなく陛下まで出てきた今回の騒ぎが、簡単に済むわけがない。

 いろいろとメイラにとって不利な状況があるようだが、そのあたりはあまり心配していなかった。調査が後宮内でのみなされるのであれば不安もあったが、あの憲兵師団長閣下が直接指揮されるのであれば大丈夫だろう。

 少し話しただけだが、余計な情報に惑わされることなく、正しく物事を判断できる方だと思う。……というより、知らなくてもいい余計なことまで見通してしまいそうだ。

 問題は、陛下だ。今回の一件をどう思われているのか。

 妃たちの穏やかならざる揉め事は、おそらくこれが初めでではあるまい。

 あの深い眉間の皺を見るに、相当にご苦労されているのだろう。

 昼間は国家の運営、夜は三十人もの妻たちの相手。……過労死されないか心配だ。

 不意に、鮮やかに青い双眸が記憶の中から切り込んできて鼓動が跳ねた。



「……う」

 チクリ、と針で指先を刺した。

 ぷっくりと盛り上がった血が白い夜着につかないように、慌てて手を離す。

「大丈夫ですか?!」

 すかさず血の玉が浮いた手を攫われた。冷めてしまった紅茶を新しいものに替えていたシェリーメイが、素早くハンカチを取り出して押さえる。

 いや、どこから出した。

 早すぎて良く見えなかったが、胸元から出しはしなかったか。メイド服は高襟なので、服の下から取り出すことはできないはずなのだが。

 深く考えてはいけない気がして、シェリーメイのほっそりとした美しい指を見下ろす。水仕事で荒れぎみのメイラの手と違い、節から節までが長く、細い。彼女が握る白いハンカチは絹製で、つるりとした光沢があった。

「針を回収させてくださいませ。あぶのうございます」

 栗毛に白いものが混じっているメイドのアナベルが、メイラの膝の上から恭しく白い夜着を取り、刺していた場所から針を抜いた。

「大丈夫、汚れてはおりませんよ」

「よかった」

 一通りさっと生地を確認し、優し気に微笑む。

「妾妃さまは本当に刺繍がお上手ですわね」

 アナベルは青の宮のメイド長だと自己紹介したが、おそらくは高位貴族の寡婦か何かなのだろうと思う。メイラよりははるかに身分が上なのは間違いない。しゃべり方も所作も高い教養をうかがわせ、際立って美しいのだ。

「ですがそろそろ今日はお終いになさっては? お目を悪くしてしまわれますよ」

 そんな彼女にやんわりと注意されてしまうと、どうしても否とは言えない。

 メイラは小さくため息をつき、同意した。

「血は止まりましたか?」

「ええ」

「お薬をお持ちしますわね」

「小さい傷に大げさだわ」

 こんなの舐めておけば治る、と言いそうになって口ごもった。お上品なアナベルの前で憚られたのだ。

 有無を言わせぬ「にっこり」笑顔で押し切られ、結局止血効果のあるクリームとやらを塗られることになった。

 ユリがクスクスと笑いながら一礼して薬を取りに行く。これまでメイラの第一メイドとして気を張ってきたのだろう、頼れる先輩の出現に安堵の色が見てとれる。

 そんな彼女が戻ってきたのは、数分後。

 何やら廊下が騒がしいな、と思った次の瞬間、ノックも誰何もなく勢いよくドアが開かれた。

 その後ろから、ユリが険しい顔をして駆け寄ってくる。

 彼女の制止も聞かず乱暴に扉を開けたのは、四十代後半の男性とその息子らしき青年。

 初対面ではあったが、一目でそれが誰かはわかった。

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