08:知らないほうがいいこともある

 期末テストの全日程が終了し、解答用紙を持って先生が去るなり、それまで静かだった1年E組の教室は一転して賑やかになった。

「お疲れー!」

「あー最後の一問解けなかった!」

「もー知らん! なるようになれ!」

「問3のbってさあ――」


 生徒たちがわいわい騒ぐ中、

「どうだった?」

 私は祈るような心地で、隣の席に目を向けた。


 この一週間近く、私たちは寝食と風呂以外のほぼ全ての時間を私の家で共に過ごした。


 年頃の男女が家で二人っきりとなれば、よからぬ想像をされてしまうかもしれないけれど、甘い空気になったことなんて一度もない。


 リビングで向かい合わせに座り、各教科の教科書と参考書を熟読させ、問題集を解かせては答え合わせをし、間違ったところを徹底的に復習させる。


 英単語帳も作ったし、要点をまとめたノートも渡した。

 できる限りのことをしたはずだ。


 ここまで付きっ切りで指導しても赤点だったら、もう私の手には負えない。

 頼むから赤点回避できていますように!


「前回よりは解けた」

 夏生くんは青ざめた顔で答えた。

 顔色が悪いのは努力の結果だ。目の下にはうっすらとクマができている。


「赤点は回避できたと思う?」

「多分……」

 自信がなさそうだ。声が小さい。


「書いた答えは覚えてる? 答え合わせしてみよう」

 テストの結果が出るまで数日かかる。

 でも、いますぐ「大丈夫」の保証が欲しくて、私は各教科の問題用紙を机から引っ張り出して広げた。





 夏生くんの正答率は平均して五割だった。

 六割の科目もあれば四割の科目もある。

 藤凪学園における赤点は各教科ごとの平均点によって決まるため、夏生くんの点数で赤点回避できたかと問われれば、難しい。


 特に化学が微妙なラインだ。

 42点……全体的に難しかったとはいえ、危ないかもしれない。


「今回も補習かなあ……」

 放課後。

 夏生くんたちの家のリビングで、夏生くんがぼやいた。


 何故私が夏生くんの隣に座っているかというと、同じ時間に学校が終わったらしい健吾くんと帰り道で偶然出会い、アイスがあるからおいでと誘われたのだ。


 学生の身分ではとても気軽に買える値段ではない高級アイスは、夏生くんの面倒を見たお礼らしい。


 彼方くんが帰ってきたら皆で一緒に食べようということで、いまは三人で雑談している。


「まだそうと決まったわけじゃないだろう。たとえもし赤点だったとしても、中間テストの悲惨な点数を思えば努力は伝わる。彼方だってその努力は認めるさ」

 健吾くんは慰めるようにそう言った。


「認めるかな……赤点取ったら許さないって言ってたじゃん」

 夏生くんはテーブルに腕を組み、背中を丸めて俯いた。交差した腕に顎を乗せる。

 拗ねた顔がちょっと可愛い、なんて思うのは不謹慎だろうか。


「彼方はおれのこと嫌いなんだろうな。なんでこんな出来の悪いのが弟なんだろうって思ってんだろうな……そんなんおれが言いたいわ。なんであいつは何でもできるんだ。あいつが兄っていう時点で人生ハードモードだわちくしょう」


「そう言うな。愛情表現が歪みまくってるせいで誤解されても仕方ないとは思うけど、彼方はお前のこと好きだぞ。赤点を怒ったのはお前を心配してるからだ。心底嫌いで関心がないならそもそも怒らないだろう。夏休みが補習で潰れようと、留年しようと知ったことか、で終わりだ。違うか?」

「……違わないけど」

 淡々と諭されても、夏生くんの顔から不満は消えない。

 健吾くんはふっと息を吐いて、言った。


「彼方が赤点を取るなと厳しく言ったのは、これ以上夏生の悪口を聞きたくなかったからだ。自分が馬鹿にするのはいいけど他人に馬鹿にされるのは許せないんだ。俺だって、弟が悪く言われるのはムカつく。ぶん殴ってやろうかと思う時もあるからな」

「……なんだそれ。彼方に馬鹿にされるのも嫌だっつーの……」

 口をへの字に曲げた夏生くんの肩を、健吾くんがぽんと叩く。


「彼方ほど優秀じゃなくていい。あいつレベルになれなんて誰も言わない。でも、他人に陰口を叩かれないレベルは最低限保てるように努力しろ」

「……うん」

 夏生くんが小さく顎を引き、健吾くんが微かに笑う。

 唖然としていると、健吾くんは目をぱちくりさせた。


「どうかしたのか?」

「……笑った。いま、健吾くん笑ったよね?」

「いや、普通に笑うぞ? 俺だって。何故か笑わないキャラだと思われがちだけど」

「笑わないよ! 笑ったとこ見たことなかったよ!?」

「健吾は図体でかい癖して人見知りで、外じゃいっつも仏頂面だからなー。家では爆笑したりしてんだけどな」

「爆笑するの!? 一体何があって!?」

 無表情がデフォルトの健吾くんが爆笑って、想像がつかない!


「テレビで面白いコントを見たときとか」

「そんなんで笑うの!?」

「そんなんって」

「見たい! 健吾くんが爆笑してるとこ見てみたい! 今度お笑いのDVD借りてくるから一緒に見ない!?」

「うちにDVDプレーヤーはないぞ」

「私の家を提供するから! そうだ、せっかくだし夏休みにホラー映画の上映会とかどう!?」

「えー、ホラー? おれ苦手なんだけど……」

「まあ間違いなく、彼方は怖がる夏生を見て楽しむだろうな」

「えっ……怖がる夏生くん、見たい。めちゃくちゃ怖いやつ借りてこよ」

「待て、止めろ! 借りてくるなよ、借りてきたとしてもおれは絶対見ないからな!」

 大騒ぎしていると、玄関の扉が開く音がした。


「あ、彼方くん帰ってきた」

 足音が近づいてきて、扉が開き、予想通りの人物がリビングに入ってくる。

 私たちは私服に着替えているので、彼だけが制服姿だ。


「お帰りなさい、お邪魔してます……」

 挨拶する声が萎んでいったのは、彼方くんの目が虚ろだったからだ。

 顔は蝋のように白く、生気がない。


「いらっしゃい……三谷さんが出入りするのは日常茶飯事なんだから、いちいちお邪魔してますとか言わなくていいよ。ここにいる理由だって、どっちかに誘われたからでしょう?」

 彼方くんは棚の前に鞄を置き、ネクタイを外してその上に乗せた。


「皆でアイス食べようって言ったじゃん」

 夏生くんが言う。

「ああ、そんなことも言ったっけ……アイス……うん……もうどうでもいいから寝るお休み」

 ばたんっ――という擬音が付きそうな勢いで、彼方くんは卒倒した。


「彼方くんっ!? 大変っ!」

 大慌てで立ち上がり、彼方くんに駆け寄って跪く。

 彼方くんは横向けに倒れたまま動かない。


「彼方くん!? ちょっと、しっかりして!!」

「待って、起こさないで。寝かせてやって」

 彼方くんの肩に触れようとした手は、空中で止められた。

 見上げれば、夏生くんが私の手を掴んでいる。

 目が合うと、彼は安心させるように頷いて、手を離した。


「大丈夫、寝てるだけだから。中間テストのときもそうだった。帰ってくるなり死んだように寝てた」

 夏生くんは私の隣に屈んで彼方くんを見下ろした。

 心配している様子は全くなく、魚でも鑑賞しているような余裕がある。


「今回は何日まともに寝てないんだろ?」

 夏生くんが振り返って問う。


「少なくとも三日は確実だな」

 健吾くんは平然と答え、部屋に備え付けのクローゼットを開け、布団の準備を始めた。


 夏生くんも加わって、二人がてきぱきと布団を敷く。

 遅れたけれど私も手伝った。


 健吾くんが彼方くんを抱き抱えて布団に横たえ、兄の身体に薄い掛け布団をかけることで一連の作業は終了。

 疲れただろう、と言って、健吾くんは皆に冷たいお茶を振る舞った。


「驚いた、人間ってあんなに急に眠れるものなんだね……」

 氷の浮かんだコップはひんやりしていて、取っ手を持っていても冷気が伝わってくる。

「見習うなよ。あれは不健康の極みだ」

 お茶を啜って、健吾くんが言った。


「三日寝てないって本当? 確かにここ最近、顔色が悪かったけど……」

 リビングの壁際で、彼方くんは泥のように眠っている。

 これはしばらく起きないだろう。

 下手をすれば朝まで寝ているかもしれない。


「ああ。カフェインで眠気を無理やり殺してた。リビングで明かりをつけたらおれらの睡眠妨害になるからって、わざわざキッチンに机を持っていって、鬼気迫る表情でひたすら問題を解いてたよ。特進科で一位を取るのってめちゃくちゃ大変なんだろうな……なんでそこまでするんだか。才能に胡坐をかいてくれればいいのに、努力も惜しまないから嫌なんだ。凡人が敵うわけねーじゃん。三日間不眠で勉強って、身体壊すっつーの、バカ兄……」

 夏生くんの愚痴を断ち切るように、健吾くんが静かに言った。


「なんで彼方がそこまでするのかって、理由はここに揃ってるぞ。弟に格好良いとこ見せたいんだと」

「え……」

 夏生くんが目を丸くして、沈黙した。

 あいつがそんなことを――という、強い戸惑いが見て取れる。

 いい話だなあ、と微笑んでいると、健吾くんが手招きしてきた。


「?」

 耳を寄せた私に、健吾くんは囁いた。


「本音は『手が届かないほどの高みから見下ろして、屈辱に震える夏生を思う存分弄り倒したい』らしいんだけど。感動してるみたいだし、言わないほうがいいよな?」

「未来永劫言わないであげてください」

 世の中には知らないほうがいいこともある。

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