07:勉強開始!

「万能型の天才、なんて話は聞いてたけど、彼方くんは本当になんでもできるんだね。お父さんの会社が倒産する前まで料理はお母さんかお手伝いさんがしてくれてて、全然やったことがないのに。それにしては手際が良かったし、具材も綺麗に切り揃えられてたし、味も文句なんてつけようがないほど美味しかった」


  豆腐ハンバーグに人参のグラッセ 、サラダ、卵とわかめのスープ、スナップえんどうと新じゃがのチーズ焼き。


 彼方くんお手製の料理を堪能した私は、引き続き東條家のリビングでテーブルを囲み、三兄弟に交じって食後のコーヒーを頂いていた。


 東條家では夕食後にコーヒーを飲むのが習慣らしく、キッチンには電動ミル付きのコーヒーメーカーがある。


 でも、コーヒーより何よりも嬉しかったのは、これまでのようなお客さん用のコップではなく、私専用のコップが用意されていたことだ。


 三兄弟は同じメーカーのコップを使っていて、彼方くんがミントグリーン、健吾くんが紺色、夏生くんがパステルカラーの水色のコップを使っているのだけれど、私のコップは夏生くんと同じパステルカラーのピンク色だった。


 日頃私が三兄弟のために料理をしているから、そのお礼にと彼方くんと健吾くんが買ってくれたらしい。


 ピンクが好きじゃなかったらごめんねと言われたけれど、とんでもない。

 ピンク大好きです。

 たとえもし嫌いだったとしても、コップを見た瞬間、一番好きな色はピンクに変わっていたことでしょう。


「褒めて貰えて光栄だけど、そんなに大したことじゃないよ」

 向かいに座る学年トップの頭脳の持ち主は、涼しい顔でミルク入りのコーヒーを啜った。

 考えてみれば、三兄弟の家で一つのテーブルを囲むというこの状況は物凄く贅沢だ。


 彼らのファンに知られれば刺されてもおかしくない。

 でも、慣れとは恐ろしいもので、私は彼方くんや健吾くんを取り巻く空気がいかに輝いていようと、彼ら自身がどれほど美しかろうと、見惚れて陶酔状態に陥ることはなくなった。


「料理のレシピや手順なんてネットで調べればいくらでも出てくるでしょう? 作業効率を考えながら動けば誰だって手際が良くなるよ。夏生みたいに一品を完成させてから次の料理を作ろうとするのは時間の無駄なんだよね。切る必要がある具材は全部いっぺんに切って、野菜を茹でてる間に使った道具を洗っていけば、間違っても夕食作りに二時間かかったりしないのに」

 彼方くんは肩を竦めた。


 この頃、彼方くんは素を出すようになってきている。

 私が夏生くんに兄弟事情を色々聞いているのもあってか、猫被るのは止めたらしい。


「味もようやく食べられるレベルに達するまで半月かかったよね。それも、僕がつきっきりでコーチしてさ。最初は具材じゃなくて自分の手を切るんだから、ほんと大変だったよ……」

 当時のことを回想しているのか、しみじみとした口調で彼方くんが言う。

 彼方くんの隣で健吾くんはノーコメント。無表情でブラックのコーヒーを飲んでいる。


「あのー……」

 おずおずと右手を上げると、彼方くんが「何?」と首を傾げた。


「だったら夏生くんがバイトして、彼方くんが家事担当をしたほうが良かったのでは?」

 質問した途端。

 彼方くんは何故か半笑いになり、夏生くんは俯いてしまった。


 あっ、なんか地雷踏んじゃったみたい!?

 助けを求めて、ただ一人動じなかった健吾くんに目を向けると、彼はコップをテーブルに置き、口を開いた。


「いまでこそ夏生が家事を担当しているけど、最初からそうだったわけじゃない。このアパートに三人で引っ越してきたばかりの頃は、親の負担を減らすためにも、みんなでバイトして、家事は分担しようっていう話だったんだ。夏生も俺らと同じカフェで働いていた。四月に入ってしばらくの間は」

「三日間を『しばらく』と表現するのはおかしくない?」

 すかさずのタイミングで、彼方くんが口を挟んだ。


「三日……って、もしかして」

「三日でクビになった」

 予想通りの言葉を健吾くんが言い、夏生くんはますます小さくなった。


「皿洗いしてて皿を割ったんだよね。僕らが働いているカフェの皿って、インスタ映えを意識してか、外国製の高級品なんだ」

「……ちなみに、割ったお皿の総額は……?」

「4万2千円」

 十万でも百万でもない。リアルな値段だ。


「僕らが働いて完済したけど。お金を稼ごうとして借金を作っちゃうあたり、ほんと夏生は夏生だよねー?」

 笑顔を浮かべる彼方くんに、夏生くんは何も言えずにいる。


「その辺にしとけ。夏生だって割ろうとして割ったわけじゃないんだから」

「当たり前でしょ。わざとだったら殴ってるよ」

 夏生くんの肩が震える。

 それに気づいたらしく、彼方くんは健吾くんから夏生くんに目を戻した。


「その後はコンビニで働こうとして、物覚えが悪すぎて一週間でクビになったよね。正確には6日。それで夏生は我が家の家事担当になったんだよね――ああ、誤解しないで」

 彼方くんは眉尻を下げ、首を振った。


「責めてるわけじゃないんだ。僕が愚かだった。気づいたんだよ。夏生に期待した時点で間違ってるって」

 どすっ!!

 ああっ、いつかの登校中の再現のように、夏生くんの脳天に矢がっ!


「箸にも棒にもかからないダメな奴だってことは知ってたのに、仮にも高校生になったんだから人様と同じくらいには働けるはず……なんて勘違いした僕がいけなかったんだ。本当にごめんね、夏生。すべては僕の過大評価が招いたことだよ。許してほしい……」

 彼方くんは夏生くんの斜め前に移動して座り、いかにも申し訳なさそうに項垂れ、夏生くんの両手を握った。


 ……これ絶対楽しんでるわ。明らかに演技だわ。

 彼方くん、あなたほんと、真正のドSですね!?


「止めてやれって。ほら、震えてるし。そろそろ泣くぞ」

 健吾くんが呆れ顔で嗜める。

 基本的に健吾くんは味方だからか、夏生くんはこの前、「彼方より健吾のほうが好き」と言っていた。

 本人に言ったら殺されるから絶対言うなとも言われている。

 もちろん私も告げ口なんてしません。好きな人の命は惜しいに決まってます。


「うん、あの、彼方くん。ほんと、お願い。もう止めてあげてください……」

 雨の中で震える子犬みたいになっている夏生くんが不憫で、私は彼の背中に手を添えつつ頭を下げた。


 すると、彼方くんは仕方ないなあ、と言わんばかりに一つ息を吐いて、手を離した。


「彼女の前でみっともなくボロ泣きさせるわけにもいかないか。お前のせいで破局したって恨まれるのもご免だし、今日はこの辺で許してあげるよ」

 彼方くんは振り返って自分のコップを取り上げた。


「とにかくそんなわけで、僕と健吾はバイトして、夏生は家事担当ってことになったわけ。我が家の経済状況を思えば夏生にも働いて欲しいけど、また借金作って来られても困るしね」

 彼方くんがコーヒーを一口飲む。


「中間テストでは赤点だったし。これでバイトなんかさせたら間違いなく留年でしょ?――ああ、全く」

 と、コーヒーの中に虫でも入っていたかのように、彼方くんは急にしかめっ面になった。


「僕が教えてあげるって言ってたのに、大丈夫だって突っぱねて。挙句赤点なんて。全然大丈夫じゃなかったじゃないか。馬鹿な弟を持つと苦労するよ。僕みたいに学年トップになれなんて無茶は言わないけどさ、せめて少しは健吾を見習ったらどう? あれだけバイトしてても全教科平均以上は取ってるんだよ? 次こそ赤点なんて止めてよね」

 トン、トン、トン、トン――

 苛立ちを示すように、彼方くんが台詞に合わせて指でテーブルを叩く。


「はい……」

 夏生くんは小さくなっている。

 さっきからずっとそうだ。

 優秀すぎる兄を前に、反論もできず、ただひたすら縮こまっている。


 ――何とかしてあげたい。

 そう思うのは、彼女として当然の心理だった。


「彼方くん、提案があるんだけど」

「何?」

 射るような目で夏生くんを見ていた彼方くんが、視線をそのままスライドさせて私を見る。


「彼方くんも健吾くんもバイトで時間がなかった分、これから頑張って勉強しなきゃいけないでしょう。だから、私が夏生くんに勉強を教えるよ。私が普通科で学年四位だったのは知ってるよね。教師役として不足はないはずなんだけど、どう?」

「うーん……」

 彼方くんは困惑し、テーブルに置いていた指を引っ込めた。


「ありがたい申し出だけど、迷惑にならない? 一から説明してやらないとわからないレベルだよ?」

 彼方くんは夏生くんを見てから、また私を見た。


「ううん、だからこそやり甲斐があると思うんだ。教師役は自分が理解してないと人に教えられない。私自身、習ったことの復習になるし、嫌でも勉強しなきゃいけないわけだから、ちょうどいいよ。私は夏生くんを馬鹿にする人たちを見返したい。夏生くんだってやればできるんだって証明したい」


 ――成績のほうはどうなの?

 ――赤点補習組。

 ――あー……。


 もう、あんなこと、言わせて堪るものか。


「…………」

 夏生くんが呆けた顔で私を見ている。

 そんな彼に、私は微笑みを返した。


「がんばろ、夏生くん。大丈夫、私がついてる以上、絶対赤点なんて取らせない! これからテストまで連日徹夜覚悟でビシバシ行くよ!」

 胸の前で拳を握ってみせると、夏生くんは目を白黒させてから、笑った。


「……ありがとう。よろしくお願いします」

「はい、こちらこそ」

 頭を下げた夏生くんに、頭を下げ返す。

 テーブルの向こうで、彼方くんたちは顔を見合わせていた。


「……どう思う?」

「いいんじゃないか。任せてみれば。お前も変なのに絡まれて大変なんだろ?」

 変なのとは、彼方くんと同じクラスの鈴木すずきくんのことだ。

 学年トップになってからというもの、彼方くんは鈴木くんに目の敵にされているらしい。

 今度こそ俺がお前を抜くと宣言されているとかなんとか。


「まあね……正直、夏生に構ってる余裕はないな。申し訳ないけどお願いしようか。本当にいいの?」

「うん!」

 私は大きく頷いた。

 そうと決まれば、善は急げ。

 テストまでのカウントダウンは始まっている!


「夏生くん、いまから私の家に行こう。全教科の問題を解いてもらうよ。どれだけ理解してるか確かめるから」

「わかった」


 残っていたミルクと砂糖たっぷりのコーヒーを急いで飲み干して、夏生くんが立ち上がる。

 そして私は夏生くんを家に連れ帰り、猛勉強を始めたのだった。

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