Sorty.9 薄花桜との出会い

 その日は、幸せな日になるはずだった。


「ユキ、浴衣ゆかた、似合うわよ」


「わー! かわいい!」


 白地に青い桜の花が散らされた生地の浴衣ゆかたを母親に着せてもらい、ユキは姿見の前で飛びねた。

 それは覚えている。

 だが、どんな色の帯を締めていたのかはいくら思い返してもはっきりしなかった。

 青だったのか赤だったのか。

 どちらにせよ、ボロ切れ同然になってしまい、児童養護施設に入ってすぐの頃に処分されたことは記憶している。


「ママ、このお花の色、なんていうの?」


薄花桜うすはなざくらよ」


「えー、桜ってピンクじゃない。変なの」


薄花桜うすはなざくらは春の空の色よ。薄ピンク色のことを薄花桜うすはなざくらと呼ぶこともあるわ。青の方の薄花桜うすはなざくらの「花」は露草つゆくさっていう青い花を咲かせる植物に由来しているの」


「ママ、物知りー」


「元々は薄花色うすはないろって呼ばれてたんだけど、花といえば昔の日本人にとっては桜だったから、桜がひっついたみたいよ」


「ふうん。ねーねー、早く花火大会、行こう?」


「時間にならないと花火、始まらないからもうちょっとのんびりしましょう、ユキ?」


「そうだぞ。いい子でもうちょっと待てたら、かき氷買ってあげるぞ。イチゴが中に入っていて、たっぷり練乳れんにゅうが掛かったの」


「待つよ! パパ!」


「いっちごのー、かき氷ー! いっちごのー、かき氷!」


 ユキは歌いながら居間をぐるぐる回る。

 両親はそんな彼女を微笑ほほえましく見守っていた。


「この子には、元気に生きていてほしいわね。せっかく、視力が回復したことだし」


「ああ。3つのとき、目が見えないのに突然走り出して、オーシマ湖に落ちた時はどうなることかと思った……生まれつき視力はないはずなのに、と医者は不思議がっていたがな」


 両親のむずかしそうなはなしに、首をかしげたのをユキは覚えている。


「ユキ、元気だよ?」


「これからも、元気でいてほしいってことだ」


 父親がユキの頭をでる。

 その時、唐突とうとつにドン、という音と激しい衝撃があった。


「あっ! 花火始まった!」


「まだよ、ユキ、待ちなさい!」


 ユキはサンダルをつっかけ、鍵を開けて玄関から飛び出した。

 その途端、言い表しようのない奇妙な匂いがする風が吹いた。

 花火の火薬の匂いかな。

 ユキがそう思った次の瞬間。

 家が、木とコンクリートの絶叫とともに、べしゃりと崩れた。

 まるで見えない巨人に踏み潰されたかのように、唐突にユキの家はぺしゃんこになった。

 次の瞬間、家の残骸ざんがいから紅蓮ぐれんの炎が天に向かって吹き上がった。


「ママーっ! パパーっ!」


 助けなきゃ。ユキが家の方に進もうとしたが、腕を掴まれた。


「ユキちゃん! 無事だったか! 逃げるぞ!」


「おうち、ぺしゃんこになって、なかにまだパパとママが……」


「あとでおじちゃんがパパとママを助ける! ユキちゃん、逃げるぞ!」


 隣に住む父親の同僚に手を引かれながら、ユキは逃げた。

 熱せられた空気と、蛋白質たんぱくしつやコンクリートが燃え上がる悪臭。耳鳴りにかき消されていく轟音、叫び、銃声、断末魔、爆発音。

 ひたすらにユキはこの世の地獄の中を走った。

 気付いた時には誰もユキの腕を握っていなかった。ユキを助けてくれた彼の生死は、いまだに不明である。

 テロリストに襲撃されたのだと後から教えられた。街全体が爆撃され、地上兵力さえも投入されたのだった。

 銃声と悲鳴の小さい方へ。その一心でユキは逃げた。

 だが、もう目の前に道がないことに気づいて、彼女は立ち止まった。

 前には断崖だんがい

 後ろには炎の海。

 敵が追いかけてきている。

 もう駄目だ。もう逃げられない。

 ユキは家族三人で過ごした幸せな日々を思い出す。

 無慈悲に敵兵が近づいてくる。ああ、自分は殺されるのだ、と圧倒的な存在感に理解してしまう。

 最期の願いを叶えられなかった。


「ごめんなさい……ユキ、パパとママの最期の願い、叶えられないや」


《その願いは?》


「元気に……生きること」


《了解した、ユキ。耳をふさいで伏せなさい》


 有無を言わさぬ声に地面にいつくばる。直後、ヒュンと風を切る鋭い音と、果物がテーブルから落ちた時のような、湿ったどさりという音が背後から湧き上がった。

 何があったのだろう。ユキが振り返ろうとすると、また声がした。

《見ない方がいい。耳を押さえたままこっちにおいで》

 キィィンと甲高い音が近づいてくる。目の前に浮かぶのは機械の巨鳥。

 空の欠片のような澄み切った青色の機体が、キャノピーを持ち上げ、ラダーをユキに向けて垂らしている。


《乗って。ここにいては生きられないのだろう?》


「うん」


 ラダーを登り、やっとの思いで椅子に座る。ラダーが自動で収納され、キャノピーが閉まる。

 燃え上がる街を後に、飛行機は音もなく飛び、海を越える。


《ここなら、差し迫った命の危険はないな?》


「うん」


 ユキはニューポート郊外のいそで飛行機から降ろされた。


「あなたの名前は」


《私/個体には名前/個体識別用呼称は無い》


「なら名前をあげる。あなたの名前はーー薄花桜」


 春の澄み渡った空の深く軽やかな青色。

ユキの浴衣の色。

ママが最後に教えてくれた色。

そしてーーこの飛行機の色。


《ウスハナザクラ……了解した》


 そう言って、飛行機ーー薄花桜は加速する。


「待って! まだーー」


 轟音。雷鳴を引いて赤い目のような二つのエンジンが遠ざかる。空色の飛行機はあっという間に小さくなり、雲の隙間すきまに溶けていった。


「ありがとうって……言えてない」


 ざざん、ざざん、と波が朱色と紫にたわむれている。水平線に、故郷の燃える黒煙が見えた。

 ユキがぼんやりとしていると、偶然通りかかった釣り人によって交番に連れて行かれた。

 そこで両親の死亡が確認され、頼れる親戚もいなかったため、ユキはニューポート市営の児童養護施設に入ることとなったのだった。


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