012 遠慮・気がきく・好きだから


 バイトを終え、マンションに帰ったのは夜の10時頃だった。

 連日の労働は非常に疲れる。

 肉体的にも精神的にも、遥はクタクタだった。


「ただいまぁ……」

「おかえりなさい」


 呪いのような声をあげながら部屋のドアを開けると、パジャマ姿の雪季が出迎えてくれた。

 鞄を受け取り、上着を脱がせてくれる。

 遥はそのままベッドに倒れ込み、大きなため息をついた。


「はぁぁぁあ……」

「ん、お疲れ様」


 雪季は上着をハンガーに掛けて、冷えたお茶を入れてくれた。

 上体を起こしてお茶を一気に飲み干すと、遥はまたベッドにうつ伏せになった。


「疲れたぁ……」

「ん。よしよし」


 雪季に頭を撫でられながら、遥はうぅっと唸った。

 毎度のこととは言え、やはり学校の後の立ち仕事は堪える。

 お腹は空いているが、料理をするのも面倒だった。


「シャワー? ご飯?」

「うーん……シャワーかなぁ」


 遥が言うと、雪季はとことこと動き回り、パンツ以外の着替えとバスタオル一式を揃えて遥の前に置いた。


「おぉ、ありがとう。なんか今日は気がきくなぁ」

「ん。えへん」

「なんかあったのか?」

「……ん。何もできないから、せめて」

「そうかぁ。いやぁ、一人だった頃とはえらい違いだなぁ」


 雪季が来る前は、バイトで疲れてそのまま眠ってしまうことも少なくなかった。

 そういう意味では、やはり雪季の気づかいはありがたい限りだ。


 遥は着替えを持って洗面所に移動し、サッとシャワーを浴びた。

 リビングに戻ると、また雪季が出迎えてくれる。


「ご飯は?」

「あぁ、今日は冷凍パスタにするよ」


 言いながら、キッチンの棚からカルボナーラのパスタを取り出す。

 皿を用意しようとしたところで雪季に止められ、遥はベッドまで戻された。


「やる」

「え? いいよ、それくらい」

「ダメ」


 雪季はすばしっこい動きでレンジ、戸棚、冷蔵庫を行ったり来たりし、パスタと飲み物をテーブルに用意してくれた。

 遥は感激に打ち震えていた。

 ちょっと罪悪感もあったが、こんな日くらいは雪季の厚意に甘えてもいいだろう。


「どうぞ」

「いただきます!」


 パスタを食べる遥を、雪季は向かいから無表情で眺めていた。

 雪季に見つめられるのも、なんだか慣れてきたなぁ。

 遥は特に緊張することもなく食事を進めた。


「いつも、ご飯ありがとう」

「おう。気にすんなよ。こっちこそありがとな、今日は」


 雪季はふるふると首を振った。

 互いに感謝し合って、協力できている気がする。

 まだほんの数日だが、同居生活はおおむね上手くいっているのではないだろうか。

 遥は改めて安堵していた。



   ◆ ◆ ◆



 鏡の前に並んで、二人で一緒に歯を磨く。

 リビングに戻り、二人で雪季の布団を敷いた。

 やっぱり、二人暮らしも悪くない。

 遥はなんだか幸せだった。


「さ、寝るか」

「ん」

「おやすみ、雪季」

「おやすみ」


 電気を消して、布団をかぶる。

 ベットの下の雪季も同じようにしていた。


「……なあ、雪季」

「ん」


 横になって天井を見上げながら言うと、雪季も返事をしてくれた。


「もう一週間くらいになるけど、何か嫌なこととか、我慢してることってないか? もしあるなら、遠慮なく言ってくれよ」

「……ん」


 雪季が何かを言いたそうにしているのが、遥にはわかった。

 言葉を催促せず、ゆっくり待つ。

 雪季相手には、それがなかなか大切なのだった。


「……お風呂、沸かしたい」

「あぁ、なるほど。いいよ。明日からお湯、溜めようか」

「いいの?」

「いいよそれくらい。もともと一人で、面倒だったから沸かしてなかっただけだしさ」

「……ありがとう」

「いいって。共同生活なんだから、お互いできるだけストレスの無いようにしなきゃな」


 遥は物事を長期的に考える性分だ。

 今良くたって、今誤魔化せたって、きっと最後には綻びになる。

 それなら最初から話し合って、解決しておいた方がいい。

 きっと、それができなかったから父親は、両親は、ああなってしまったんだろうから。


「他には?」

「……ん、今はない」

「そっか。じゃあ、俺からもひとつ、いいか?」

「……ん」


 なんとなく、雪季が緊張しているような気配が伝わってきた。

 なんとも珍しい。

 遥は少しおかしくなって、クスッと笑ってしまった。


(たぶん、雪季が想像してるようなことじゃないんだけどなぁ)


「くっつくの禁止」

「……やだ」

「なんでだよ!」

「やだ」

「おかしいだろ、くっつくなんて!」

「おかしくない」

「だからなんでだ!」

「……好きだから」


 心臓が跳ねるのが分かった。

 しまった、と思った時にはもう遅かった。

 返答に窮して、遥は顔から布団をかぶった。

 はあ。そりゃあそうなるに決まってる。

 思慮の浅い自分のことが、遥は憎らしくなった。


「遥」


 雪季の声が、さっきよりも近くから聞こえてきた。

 布団に隠れたまま黙っていると、身体の上に何かが覆いかぶさる感覚があった。


 遥は布団の上から抱きしめられていた。


「ななな、なんだよ雪季!」


 身体が金縛りにあったように動かない。

 布団越しに伝わってくる雪季の体温が、やけに熱かった。


「……なんでもない」

「な、なんでもないなら離れなさい!」

「……ん、もう少し」


 しばらく、そのままだった。

 雪季の呼吸や鼓動が感じられ、遥は身動きが取れない。

 視界が塞がれていることだけが唯一の救いだった。


 ふっと重みが消え、雪季がベッドから降りるのが気配で分かった。

 おそるおそる布団から顔を出すと、雪季はすでに自分の布団の上で横になっていた。

 こちらに背を向けていて、顔が見えない。


 まだ心臓が暴れていた。

 もしかしたら自分は、今の状況を楽観視し過ぎていたのかもしれない。

 そう思えてしまうほど、雪季の愛情表現はストレートだった。

 全く耐性の無い遥には、その一撃が深く突き刺さる。

 しかも相手は、あの美少女雪季なのだ。


「……雪季」

「……ん」

「……おやすみ」


 今の遥には、それを言うのが精一杯だった。

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