真夜中のハルマゲドン。

 電話の主は悠介の母親だった。ホットケーキを作るので良ければおやつを食べに来ないかというお誘いだった。

 悠介の家に行くのは気が引けたけど電話越しに断れることもなく、私は悠介の家に行くことになった。

「もうちょっとでできるから待っててね」

 カウンターキッチン越しに悠介の母が笑顔で話しかけてくる。

 私はダイニングの椅子に座らされていた。

 悠介はケータイをカチカチカチカチ押している。いったいなにをそんなにカチカチすることがあるんだろう。メールを打ってるんだろうか。私がいるのにケータイの画面から目を離さない悠介。

「さあ、できた。どうぞ」

 悠介の母がホットケーキの入ったお皿を置いてくれた。

 お皿の両サイドにナイフとフォークが置かれる。

「シロップ使っていいからね」

「あ、はい」

 私はシロップを取ってケーキにかけた。

「ほら、あなたも食べなさい」

「うん」

 悠介はケータイを見たまま片手でフォークを持って乱雑にホットケーキを食べる。

 悠介の母はその様子を見て少し笑いながら浅いため息を吐いた。

 悠介の母は普段病院で働いている。基本的に忙しく家にいることはあまりない。だが、当直の次の日などたまにお昼から家にいるときがある。そういう時はこうして悠介の友達を呼んで手作りのお菓子を振る舞う。昔から悠介の母はこの手の料理が上手だった。

 悠介は早々にホットケーキを食べ終わった。ケータイをカチカチしている。もうここまでいくと悠介がケータイを操作しているのか悠介がケータイに操作されているのかわからない。

「暇なら庭の草むしりでもしてちょうだい」

「あー、めんどい」

 悠介は立ち上がると縁側に向かった。文句を言いつつも草むしりはするのか。

 悠介から離れられた私はほっとしてため息をついた。ケーキにシロップを多めにかけた。

「うちは私も旦那が海外でしょ。だから庭の手入れをする暇がなくって」

 悠介の母はそう言って笑った。

 悠介のお父さんはアメリカで働いている。たしかニューヨークのマンハッタンにあるビルに勤めている。1993年の爆破テロの時は大変だったと聞いたことがある。

 私は庭の方へ視線を移した。

 ガラス越しに、悠介が草をむしっている姿が見える。たしかに草の背が高い。長い間放置されていたのだろう。庭の物干し竿には大量の洗濯物が干されていた。たぶん悠介の母が休みの日にまとめて洗濯をしているのだ。

 悠介はむしった草を庭の端っこにまとめている。

「ねぇ、この前うちの悠介が迷惑をかけたんでしょ?」

 唐突な質問に私は心臓が止まりそうになった。緊張で両手の指先までしびれて胸と脇に汗をかいた。

「ごめんなさいね。悠介の配慮が足りなかったみたいね」

 私はゆっくり顔を動かした。

 悠介の母がしっかりと私を見つめていた。

「たしかにあの子、まだ大人になれていないところがあるのよ。小学生の頃からあなたと仲が良かったでしょ。だから、心に油断ができたんだと思うの。これくらいならいいだろうっていう油断」

 口紅を塗っている唇がなんども動いて、悠介の母の言葉が次々私に向かって発射される。

 言葉が私にぶつかって、徐々に私の体はのけぞっていく。

「ごめんなさい」

 ぺこりと悠介の母が頭を下げた。

「私の管理不足ね。愛情が足りなかったんだと思うの。私は仕事で忙しくて、あの子を見れてなかった。だから、あの子、女の子への優しさが足りないのね」

 私は窓の外の悠介を見た。悠介はこちらに気づかないふりをしているが、あきらかにこちらを意識していた。

「あ、あのぅ……」

 やっと私は声を出すことができた。

「過ぎた、ことですし。そのぅ、私、あまり、気にして、ません、から。あの、お母さ、ん、が、そん、なに、謝ら、なく、ても」

 ああ、そんなことはない。気にしてないわけない。悠介に体を触られたのを今でも気にしている。悠介に胸を触れた時の感触が残っている。セックスがどことどこをどうするものなのか知ってる。だから怖かった。無理やりヴァギナにペニスを入れられるなんて、無理やりおへそに手を入れられて内蔵をこねくり回されるようなものだ。

 毎日あの時のことが忘れられないわけじゃない。美味しいものを食べたり、テレビを見たり、竹田と秘密基地にいるときはあのことを忘れている。

 だけど、ふとした時に思い出す。お風呂に入る時に服を脱いで、鏡に私の乳房が映った時に思い出す。あのときスカートに手を入れられたから未だにスカートを履けない。

 口に出さないだけだ。誰にも言わないだけだ。思い出してないふりを自分にしているだけだ。

 言ってしまった、悠介の母に。心にもないことを。

 気にしてます、私は。気にしているんです。

 なんであなたが謝るんですか。謝るべきは、悠介自身じゃないんですか。

「でもね、あなたも気をつけるべきよ」

「え?」

 なに? なんのこと?

「私もね、あなたの親じゃないからこういうこと言う資格ないけど、あなたもやっぱり大人になるべきだと思う」

 悠介の母の口調が変わった。声のトーンは優しいのに、あきらかに私に非があると説得してくるような言葉遣い。

「嫉妬するのはわかる。でも、あなたも小学6年生。これから中学生になるのに、そんなことじゃダメよ。たしかに悠介のやったことは誤解を生んだ。でも事実じゃなかったわけだから。あなたも感情的になるんじゃなくて、まずは話し合いをしないと」

 なんのことを言ってるんだ。

「人間って対話が大事なのよ。対話よ、わかる? 会話と対話は違うの。あなたたちが普段友達としているお話は会話。ただ楽しいだけのお話しの時間。でも、対話は相手を理解するために行うの。決めつけとか、感情とかは一旦置いて、冷静に話し合って相手のことを理解するのよ。たぶんあなたと悠介は今まで会話はできてたのね。それはいいことなのよ。好きな人同士会話をして過ごす。それはとてもいいことなの。だけど、なにかすれ違いが起きた時は会話が必要なの。あなたと悠介もそろそろ会話していく時期じゃないかしら」

 なに? なに? なにを言ってるの、この人? 会話? 対話? なに道徳の授業みたいなことを言ってるの?

 私がきょとんとしているのを読み取ったのか、いや、心を勝手に読まれたのか悠介の母は口を開いた。

「悠介が他の女の子と仲良く話してたからあなたが嫉妬したんでしょ? それであなたは感情的になって悠介を叩いたんでしょ?」

 私は頭の先から足の先まで棒を突き刺されたみたいに体が硬直してしまった。

 体が動かなかった。頭も動かなかった。思考が停止して、頭の中が真っ白になってしまった。フィルムが感光していくように視界が真っ白に飛んでいく。

 私はゆっくりと窓の外に視線を移動させた。

 悠介は草むしりをしながらまっすぐ私に睨みをきかせていた。

 これを狙っていたのだ。

 悠介は自分の母親に嘘をついてまで、母親を味方につけて私を追い込む気なんだ。

 逃げられないんだ。

 逃げられないんだ。

 逃げられないんだ。

 逃げられないんだ。

 逃げられないんだ。

 私は下唇を噛んで涙が出そうになるのを我慢した。今泣いたらダメだ。今涙を流したら絶対に後悔すると思いながら、私は下唇を噛み続けた。

 

 悠介と悠介の母に見送られて私を玄関を出た。

 庭に目をやると、悠介がむしった草の山ができていた。庭がすっかりきれいになっていた。

 夕方の空をコウモリが飛んでいた。

 今日はコウモリの話をする相手がいなかった。


 ■■■


 翌日、私は小学校に向かった。

 正門の前に立った。遠目で校舎の屋上を見た。

 あのフェンスの奥に竹田の秘密基地がある。

 きっと今日も竹田はあそこで世界を滅亡から救う準備をしているはずだ。

 あそこに行こうかなと思ったが、足が動かなかった。

 自分の嫌なことを忘れるためにあそこに行くのはなんだか違う気がした。

 竹田は本気であそこを世界滅亡と戦う前線基地としている。

 竹田の本気に私の浮気を突き合わせてはいけない。


 ■■■


 別の日、美香の家で紗世と一緒にゲームをして遊んだ。

 ゲームをしながらたくさんおしゃべりをした。

 帰宅するとき両腕を空に伸ばした。脇の下の筋肉が伸びる感覚が気持ちよかった。


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 テレビで超常現象の話をやっていた。

 ニューネッシーの話とか。アメリカ空軍のパイロットが目撃したUFOの話とか。アポロ月面着陸の時に実は人類は宇宙人と接触していたとか。心霊現象とか妖怪の伝説とか超能力とか。

 竹田もこの番組を見ているんだろうか。

「ノストラダムスの予言は外れてないんですよ」

 よくわからない肩書きのおじさんがそう熱弁していた。

 超常現象否定派の人や司会をしているタレントが苦笑いをする。

「現にここ最近飛行機事故が増えてるんです」

「じゃあ、ノストラダムスの予言は飛行機事故だったと?」

「そうです」

「こういう言い方しちゃなんだと思いますが、飛行機事故と世界滅亡じゃ釣り合いませんよ」

「おい! 今のは人命軽視だろ」

「そうだ。そうだ。そうやって科学でなんでもわかると思ってるやつらは人の心がないんだ」

 スタジオに爆笑が起きる。

「私はここ数年以内に飛行機による何か恐ろしいことが起きると思います」

「起きませんよ。バカバカしい」


「この人たちなんの仕事してるんだろうな」

 お父さんがテレビに出ている未確認生物研究家を指差して呟いていた。

 私は心の中できっと竹田みたいな人がなるんだろうなと思った。でも、自分の旦那があんな肩書だったら絶対イヤだ。

 私は笑った。


 ■■■


 8月6日。私はおばあちゃん家に行った。

 おじいちゃんの仏壇に手を合わせた。

 いとこも皆集まっている。叔母さんが私を見て「きれいになったね〜。えらいべっぴんさんじゃ」と言ってくれた。


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 お母さんからスーパーでトマトを買ってきてと頼まれた。買い忘れたようだ。

 私は手提げバッグを持ってスーパーに行った。

 行く前、私は橋の上で屋代川の支流を眺めた。こんなドブ川だが、時々鯉の大群がやってくる。庭園の池を泳ぐようなきれいな鯉じゃない。真っ黒な鯉の大群。そういえばここは昨年、豪雨で氾濫したんだった。同級生の町田君と平野君の家が浸水して、避難所で生活したんだ。小さな川なのに、確実に大自然とつながっている。

 おつかいを終えると私は無性に散歩をしたくなった。

「ちょっと出てくるー。トマトとお財布ここに置いていくね」

 私はキッチンの母に向かった叫んだ。

「どこ行くの?」

「ちょっと散歩」

「散歩ー?」

 お母さんがキッチンから顔を覗かせた頃、私はもう外に出ていた。

 広島工業大学の前を通り、住宅街の中を通る。

 向かう先は小学校。

 理由?

 そんなものはない。

 行きたいところがないから。私が思いつく「私が行ける所リスト」を「特に行きたいわけでもない」順に消去していくと一番最後に残ったのが小学校。

 私は学校の柵越しに校舎のグラウンドを眺めた。今日もグラウンドで遊んでいる生徒がいる。

 私は自然と校舎を見上げた。あの屋上。あの屋上で今日も竹田は地球滅亡と戦っているのだろうか。竹田はこの前の超常現象のテレビを見たんだろうか。あの番組の話を竹田としたい。あのUFOの写真は本物なのか。あの水生生物の正体はなんだと思うか。話したいことがいっぱいある。

 でも、あそこには行けない。

 竹田は地球滅亡と戦っているんだもの。あそこは地球滅亡と戦う前線基地なんだもの。私が慰められたいからいくところじゃないんだ、あそこは。

 私は見上げていた顔を降ろして歩き始めた。スニーカーの底がアスファルトの地面に当たる音がする。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 私は立ち止まった。

 顔をそっと上げた。

 視線の先に、竹田がいた。

「おぅ、久しぶり」

 竹田は片手を上げて挨拶をしてきた。

 私は嬉しくって顔がほころんだ。久しぶりにほころんで筋肉が驚いたのか頬が痛かった。

 私は竹田の元に駆け寄った。

「久しぶり!!!」

 私があまりにもはしゃいでるからか、竹田が困ったように笑った。

「今日は帰るの速いね?」

「え? ああ」

 竹田は腕時計を見た。

「今日は早く帰らないといけないんだよ。親がうるさくてさ」

「そうなんだ」

「うん」

「あれから何か新しいことした?」

「したぞ。ラジコン戦車にビデオカメラを乗せることに成功したんだ。これで敵にばれずに偵察することができる」

「戦車にカメラ!? すごい!!」

「あれはいい発明だよ。敵の攻撃でビルが崩れても瓦礫の中をビデオカメラ搭載のラジコン戦車が走れば生存者がいないか探すことができる」

「うん! うん! いいね! それ!!」

「さらに」

 竹田は秘密基地のことを色々話してくれた。ああ、楽しい。久しぶりに外に出た気分だ。

 私は竹田に言いたいことがあった。


 ねぇ、明日秘密基地に行ってもいい?


 そう言いたい。私もまたあそこに行きたい。ただ私の体が行くだけじゃダメだ。私の心もあそこに行きたい。

 私は唇に力を入れた。

「ねぇ…」

 そう言いかけたとき、私の目の前に見慣れたあいつが現れた。

 

 悠介だった。


 悠介は私の目を見ながら竹田の背後から近づいた。悠介が手に持っていたビニール袋をひっくり返すと、中からこげ茶色の土とミミズがドサッと竹田の頭上に降り注いだ。

「ヒィッ………ィィィィイイイイ」

 私は叫びながら後ずさった。

「ああ…ああああ……ああああああああああ!!!!!!!!」

 服の中にもミミズが入った竹田は狂って道路を走り回った。

 竹田はTシャツを脱いで体中を手で払った。

 そこに車がやってきた。車は道路の真ん中でじたばたしている竹田に向かってクラクションを鳴らした。

 竹田は避けなかった。彼は今それどころじゃない。もうパニックを起こして大声で叫びながらシャツを脱ぎ始めた。

 思い出した。小学4年生の時の田植え体験。あのとき田んぼの中に大きなミミズがいるのを見て竹田は大泣きしてしまったのだ。その様子を見てクラスの男子は大声で笑った。

 ミミズを見ただけで発狂して泣いたんだ。きっと竹田はミミズが大の苦手なんだ。

「おい、遊んでないでどけろ」

 車からおじさんが出てきて竹田の腕を掴む。

 竹田の頭の上からおじさんの手の甲にミミズが落ちた。

「うわっなんだこれ。お前ふざけんな」

 おじさんは竹田を道路の端っこに引っ張っていった。

「お前、ここの生徒だな。先生に言っとくからな、お前」

 おじさんは運転席に戻って車を発進させた。車のタイヤが地面に落ちているミミズを踏み潰した。プチッ、ブシュッという小さな音を立ててミミズの内蔵がアスファルトの上に飛び散った。

 踏み潰されなかったミミズはアスファルトの上でぴょんぴょん寝返りを打っていた。きっと土に戻るために慌てて移動してるんだ。アスファルトの上を飛び跳ねるミミズの姿は、両手両足を縛られた人が必死に逃げているみたいだった。

 竹田が慌てているのを大声で笑っている者がいた。

 冷静さを取り戻した私は笑い声の主に視線を移した。

 悠介だった。

 悠介はお腹を抱えて笑っていた。

「ばか、お前かわいそうだろ」

「ひどいことするのー」

 悠介の周りにいる中学生も大笑いしている。口から出る言葉は竹田を心配する言葉だが、内心は悠介を讃えているようだった。

「もー、やめてあげてって」

 悠介たちと同じ制服を着た女子がそう言っていた。悠介の同級生だろうか。その女子は竹田を心配するというよりは、はやく行きたいのでこの騒動を終わらせてくれという感じだった。

「わりぃわりぃ、悪かったな。な、すまんな。俺の友達がひどいことしたな」

 悠介の同級生の一人が竹田に近づいて、脱ぎ捨てたTシャツを拾ってあげた。

「な、もうシャツにもミミズついてないから。ほら、頭にもついてないから。な? 俺の友達にはキツく言っとくから。な、もう泣くなって。ほら、シャツ着て彼女のところ戻れって」

 彼女?

 この人たちは私が竹田の彼女だと思ってるのか?

「悠介…」

 私は睨み返した。

「ん? なに? あれ? ユースケあの女の子の知り合い?」

 私は悠介だけを睨みつけた。

「もしかしてユースケの彼女なんかー?」

「え、きもっ。ロリコンじゃん」

「ばーか、そんなわけないだろ」

 悠介は竹田の足元を見た。

「おい、こいつ。ナイキ履いてるぞ」

「お、マジじゃん」

「生意気に」

 悠介はニタニタ笑いながら竹田に近づいて、肩を小突いた。

「お前みたいなダサいやつが履いていいものじゃねえんだよ」

 悠介はもう一度小突いて、さらに足で蹴飛ばした。

 竹田は地面に倒れ込んだ。

「よこせ、ぼけ!」

 悠介は竹田の足を引っ張った。まるで人形の脚をもいでいるみたいだった。

 竹田は泣いていた。パニックになって泣いていた。パニックになり過ぎて泣き方が変になっていた。猿が吠えているような泣き声。

 それを聞いて悠介の同級生たちがケラケラ笑う。

 悠介は竹田の両足からスニーカーをもぎ取った。

「うわっ、靴紐にミミズがついとる」

「きもっ!」

「ばか、捨てろって」

「ほーい」

 悠介はスニーカーを近くを流れる川に捨てた。

 着水する音が聞こえた。

「お前の靴、ミミズで汚れとったけ、川で洗ってやったで。ありがとうは?」

 竹田はアスファルトの上で泣きじゃくっていた。

 悠介は竹田の顎を掴んで起こした。

「ありがとうは?」

 竹田は恐怖で顔が引きつり、そして...。


「ありがとう」


 と、小さな声で言った。

「ねぇ、はやく行こうよ」

 悠介の側にいた女子が面倒臭そうに呟いて、歩き始めた。

 悠介たちも歩き始めた。

 

 私は竹田に歩み寄った。竹田は泣き過ぎて過呼吸になっていた。地球滅亡と戦えそうな男の姿じゃなかった。自尊心もなにもかも破壊された男の姿だった。

 私はなんて声をかけていいかわからなかった。

 何分か何十分か二人とも立ち尽くしていた。

 呼吸が落ち着いてきた竹田は自分でシャツを着た。

 竹田は黙って歩き始めた。靴下のまま。

 私は後ろから黙ってついて行った。

 どんな風に声をかけても竹田の心を傷つけてしまう。そんなことはわかっていた。だから、ついていくことしかできなかった。でもどこまでついていくつもりなんだ、自分。竹田の家まで行く気か? 

 ほんとうは竹田に謝るべきなのかもしれない。悠介が竹田にあんなことをしたのは、私が竹田と仲良くしているからだ。きっかけは悠介のささやかな嫉妬。それでも度の過ぎた仕打ち。

 仕打ち?

 悠介は何に対して仕打ちをしているんだ。

 一体私たちが悠介に何をした。

 私が一度悠介のセックスを断っただけだろう。

 女は彼氏がしたいときにセックスされなきゃいけないのか? そんなのはただの性のはけ口だ。嫌がっている恋人に無理やり性行為をするのは強姦と一緒だ。

 私は自分の唇を拭いた。

 今まで悠介とキスをしてきた自分の唇が汚く感じた。

「ミミズってさ」

「?」

 竹田が口を開いた。

「先住民族なんだ。人類が生まれるはるか前から地球に存在して地球の土を耕してきた先住民族。もしかしたら人類が生まれるより以前ミミズは高度な文明を持ってたかもしれない。それが、人類が生まれてしまったから、ミミズは土の中に身を潜めるようになったのかも」

 お得意の竹田ワールド。

 私は気づいてしまった。

 きっと竹田は自分の気持ちを落ち着けるために竹田ワールドを話すんだ。自分の恥ずかしさを隠すとき、自分の怒りと折り合いをつけるとき、自分の後悔を薄めるとき。たぶん、自分の嬉しさを表現する時もそうなんだ。

 私は竹田の足元を見た。

 竹田は、靴下のままアスファルトの上を歩いている。

「ごめんね。靴は私のお小遣いで買うから」

「えっ? いいよ。前島さんが弁償するようなことじゃないから」

 そうだね。私と悠介の関係を知らない竹田はそう思うよね。

「父さんにまた買ってもらうよ。ドジして川に靴を落としちゃったって言えばいいから」

 私はあなたを勘違いしてた。いつも変な話ばかりするから肝の座った変態なのかと思ってた。

 でも違ったね。あなたは、なんでも自分で背負い込む人なんだね。

 学校の屋上で人類の危機に一人備えてるのも、きっと私たちにはわからない何かをあなたが一人で背負い込んでいるのかも。

 竹田の頭上をコウモリが飛んだ。夏も下旬の夕空は、徐々に秋色に向かっていた。


 ■■■


 私は自宅に帰った。

「おかえり」

「ただいま」

 母の声を聞き流し、駆け足で自室に向かう。

 もう許せなかった。私の拠り所を壊すあいつを生かしておけない。

 きっとあいつの暴力はこれからますますエスカレートする。

 私は机の引き出しを開けた。陳列された文房具。

 私はカッターナイフを手にとった。

 カチカチカチっと音を立てて刃を出す。少し錆びついた直線の刃。

 私はビニールテープでカッターナイフを左腕に固定した。

 そして薄手のカーディガンを羽織ってナイフを隠した。

 私はもう一つのカッターナイフも手にとった。工作用の鋸歯のカッターナイフ。こちらの刃は錆びついてない。人を殺すならこれくらい強力な方がいいだろう。

 私は鋸歯のカッターナイフをポケットに入れた。

 他にも武器になりそうな文房具がないか、探した。


 ■■■


 私は道路を歩いた。

 頭の中でなんども悠介を殺す手順をイメージした。悠介の自宅の間取りは把握している。悠介が逃げそうなところも予想できる。できれば最初の一撃で殺したいが、殺し損じたら逃げるあいつを追いかけることもあるだろう。やっかいなのは家の外に逃げられたときだ。それは避けたい。確実に屋内で殺したい。


 悠介の自宅についた。

 庭を覗いた。

 庭の隅っこには先日悠介が抜いた雑草の山がまだ残っていた。雑草は枯れて、茶色く変色している。

 私はインターホンを鳴らした。

 無言。

 この家のインターホンにはビデオカメラがついているから、中から私が来ていることはわかっているはず。

 もう一度インターホンを鳴らした。

 無言。でも、誰かが歩く音は聞こえる。

 しばらくして玄関のドアが開いた。

「なんだよ」

 悠介だった。悠介はドアの隙間から顔を覗かせていた。

「今日のことで話し合おうと思って」

「はぁ?」

「話し合いたい」

「俺は話すことなんてねぇよ」

「私はあるの。ねぇ、中に入れて」

 悠介はしぶしぶ、でもまんざらでもない顔をして私を家の中に招き入れた。

「あがれよ」

 悠介は階段を登り始めた。

 私は階段を登りながらリビングをチェックした。

 どうやら悠介の母はいないようだ。

「入れよ」

 悠介が自室のドアを開けた。

 中から溢れる異臭に私はとっさに鼻を押さえた。

 タバコの臭い。こいつ、タバコを吸い始めたのか。たかだか中学生になった程度でいい気なもんだ。

「で、話ってなんだよ」

「怒ってるんでしょ?」

「あ?」

「私がセックスしなかったから。だから私に酷いことするんでしょ」

「まあ、座れって」

 悠介はベッドに座るよう促した。

 私は座らなかった。

 悠介は私を睨みつけた。

「あーあ。なんか俺お前のことがわかんねえわ。そうやって俺の言うこと聞かねぇし。ヤラせてくんねぇし」

 ヤル? ああ、私はセックスのことを「ヤル」と表現することが嫌いなのだ。「ヤル」だなんてまるでレイプみたいじゃないか。

「俺たち子どもじゃないんだし。もうそういうことヤッてもいいだろ」

「でも私まだ小学生だし」

「いやいや、周りのやつもう皆ヤッてるから」

 私はカチンときた。カチンときすぎて思わずニヤッと笑ってしまった。

 そういうことか。この男は周りの人間がもうセックスを経験してしまっていることに焦っているだけなんだ。別に私のことなんて考えてもない。ジコチューなのだ。

「タバコ吸ってるんだね」

 私は部屋の隅に置いてあるタバコを指差した。

「まあな、先輩に勧められた。結構旨いぜ。お前も吸ってみるか?」

「いや、私は」

「ビビリだな。やってみるとたいしたことないって」

 悠介は私に背を向けてタバコに手を伸ばした。

 その隙に私はポケットのカッターナイフに手を伸ばす。刃を伸ばす時の音でばれないよう、あらかじめ刃は出しておいた。ポケットの生地に引っかからないよう丁寧にナイフを取り出して構えた。

「ほら、お前も吸ってみ...」

 悠介が振り向いた瞬間、私は右手に持っているカッターナイフをまっすぐ前に伸ばした。

 カッターナイフが悠介の左瞼に突き刺さった。私はそのまま手を下に引いた。鋸歯の凹凸に瞼の肉を絡めながら、ぶちっと音を立てて瞼を切り裂いた。

「ぐあっ! バカヤロウ!!」

 悠介が叫ぶ。床に血が滴る。

 左目を押さえる悠介を見て、私は「しまった」と思った。

 つい自分の利き手が切りつけやすい方を切ってしまった。悠介の利き目は右だから、ほんとは右目を襲いたかったのに。

 失敗失敗。

 気を取り直して私は再度右手に持っているナイフで悠介の右目に襲いかかった。

 悠介は私の右手首を掴んだ。

「てめぇ、ふざけ腐りやがって」

 バスケ部で鍛えた悠介の手はゴツかった。

 握力に負けて、私は右手からカッターナイフを落とした。

「お前、死ぬか? あぁっ!!??」

 悠介は左目を押さえていた手を離した。左目の瞼は雀の嘴ほどの切り傷ができていたが、深手ほどではなかった。私が想定していたより浅い傷しか与えられなかったみたいだ。

 悠介は両手で私の喉を掴んだ。

「死ね」

 と言いつつ、悠介の握力は私を窒息死させるほど強くはない。口では死ねというが、所詮は殺す準備はできてない。

 私はカーディガンの袖に手を入れた。左腕に隠していたカッターナイフを掴み、カチカチカチっと刃を出しながら私の喉を掴んでいる悠介の両腕を切った。

「ぬあぁぁっっっいてぇっっっ!!!!!!」

 カッターナイフの刃に血の雫がついてる。

 参った。こっちの方が切れ味が良かった。はじめからこっちを使って殺すべきだったかもしれない。

「お前頭おかしいんじゃねぇか!!!!!??????」

 悠介は私のお腹を蹴った。

 鳩尾には入らなかったが苦しい。そこには私の子宮が入っているんだぞ。セックスをしたいなら、そのくらいのことは配慮して欲しい。

「死ね! バカ女!!」

 悠介の拳が私の右頬に直撃する。私の右目から涙が溢れた。泣いてるんじゃない。反射的に涙がこぼれた。

 悠介は私の顎を掴んで、握力で私の口を無理やり開けた。

「ふざけやがってバカ女。お前みたいなガキは俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ」

 悠介はぶつくさ言いながらズボンとパンツを脱いだ。

 そして股間からぶら下がっているイチモツを顕にした。精液で先端がテカテカ濡れているそれは、まるで巨大なミミズのようだった。

「ほら、咥えろ」

 悠介は無理やりこじ開けた私の口の中にペニスをねじ込んできた。

 私の舌に巨大なミミズが当たる。ぬるぬるして変な味がして気持ち悪い。

「おらっおらっおらっおらっ」

 悠介は掛け声とともに腰を動かした。

 私の喉の奥まで陰茎が押し込まれ、何度も吐きそうになった。

 私の鼻に悠介の陰毛が当たって臭かった。汗の臭いとか精液の臭いが陰毛から漂ってきた。さらにそれらが部屋の中のタバコの臭いと混ざって最悪だった。口と鼻を両方責められて息ができなかった。頭がくらくらする。

「お前が悪いんだからな。お前が素直に従ってれば、こうやって無理矢理フェラさせることもなかったんだからな」

 悠介は私の奥歯が折れそうなくらい握力を強めた。

「触らせろ」

 悠介はもう片方の手で服越しに私の胸を触った。

 痛い。乱暴な触り方。ただでさえ最近は成長痛で乳首が痛いのに。このバカ男はお構いなしに揉んでくる。

「どんなブラしてるんだ? タンクトップみたいなブラか?」

 悠介はちんぽを咥えている私の顔を覗き込んだ。

「どうだ、殺そうとした男に犯される気分は?」

 悠介は私のシャツをめくりあげた。綿のブラ越しに私の胸の膨らみが握り締められた。

 悠介は腰の動きを速める。

 私の口から唾液が溢れる。それを潤滑剤にして悠介の肉棒が何度も出し入れされる。

「もっとアンッアンッアンッンッンッンッンッって喘げよ!」

 悠介は上機嫌になって腰の動きを加速させた。

 私の口の中で悠介のちんちんがビクビクっと脈打った。

 私を押さえつけていた悠介の力が緩む。

 私は自分の靴下に手を伸ばした。

 こんなことも想定してもう一つ武器を持ってきていた。

 私は靴下の中のコンパスを掴み、そして思い切り悠介の金玉にコンパスの針を突き刺した。

「ブッ………ぇぇぇぇえええええええええええええええええええええっっっ!!!!」

 悠介は私の口から下半身を離し、転がりながら部屋の隅まで逃げた。

 私は床に突っ伏して咳き込んだ。苦しい。よくも私の口に汚いものを押し込んでくれたな。

 私は部屋の隅でうずくまっている悠介に視線を移した。

 悠介は震えながら私を見ていた。

 その目はもう怯えていた。

 睾丸を刺されたのがよほどショックだったのだろう。ざまあみろだ。

 だが作戦は中止だ。

 これ以上武器はない。さすがにコンパスの針で人は殺せない。

 私は起き上がって走って部屋から脱出した。

 靴を履き替え、走って帰宅した。

 帰り着くなり洗面所に駆け込み、10回以上歯を磨いた。

 うがいをすると口の中から陰毛が出てきた。

 クソめ、あの野郎。絶対に許さん。


 ■■■


 その日の夜電話がかかってきた。

 電話の発信元は悠介の家。

 私は電話がかかってくるだろうと思っていたから、すぐに受話器をとった。

「もしもし」

「もしもし? 私悠介の母ですけども」

「お久しぶりです」

「…あら、あなた本人ね?」

「はい」

「私もね、若い子同士のことに口を挟む気は全く無いのよ。若いときって色々あるものだから。それを見守るのが親、というか大人の務めじゃない? でもね、今日は私も言わせてもらうわ。あなた、うちの悠介にストーカーをしているんですってね? 今日、悠介が帰宅途中にあなたに暴力を振るわれたって聞いたわ。あなた、怖いお兄さん連れてたみたいね? その人にうちの悠介を殴らせたんでしょ? ねぇ、あのね。悠介はもう中学校の女の子とお付き合いをしてるのよ。誰とは言わないけど、悠介には恋人がいるの。あなたが、悔しいのはわかる。でもね、悠介は中学生で、あなたは小学生なの。あなたは…。ごめんなさいね、こんなこと言うのは失礼だと思うんだけど、あなたはやっぱりまだ子どもなのよ。大人のお付き合いをするにははやいと思うの。だから、あなたにはやっぱり手を引いて、それでもし、あなたが大人になったときに悠介のことが好きなら悠介にアタックしてちょうだい。その時は私も応援するから。でね? お願いなんだけど、明日うちに来てくれないかしら? あなたが連れてたその怖いお兄さんについて聞きたいの。私もほら、あなたはずっと悠介と仲良くしてくれたじゃない? だから、あなたのことを責める気はないの。あなたはまだ大人になれてないだけなんだから。でも悠介への暴力は許せない。そこでどうかしら、悠介に直接暴力を振るったその人を私は警察に連れて行こうと思うの。その代り、あなたのことを警察には言わない。どう? もしよければ、明日うちに来て。美味しいクッキーを作って待ってるから。そうね、10時はどうかしら? 待ってるわね」

 私は受話器を置いた。

 まるで留守電を聞いているようだった。こちらと話す気など全く無い。ある意味すごい。

 ところで悠介は真実は言ってないのか。まあ、あの正確だと女子小学生に切りつけられたとは言えなかったのだろう。

 悠介の母親が私のことを警察に言っていないのもありがたい。

 そう簡単に警察には言えないのだろう。警察に言えば、悠介に暴力を振るったのが私だと露呈してしまう。悠介的にはそれはマズイ。

 しかし明日悠介の家に行ってしまえば、やつらの思う壺。もう逃げられない。


 つまり、今夜中にあいつらを殺すしかない。


 ■■■


 私と悠介が出会ったきっかけは友達の紹介だった。友達の姉の同級生が悠介だったのだ。

 デートとか付き合うとかそういうことに疎い私は、初めてできた彼氏と何を話していいかわからなかった。

 お菓子を一緒に買って食べたらいいのか? ううん。それじゃあただの買い食いだ。

 一緒に部屋でゲームをすればいいのか? ううん。それじゃあ兄妹だ。

 悩む私を悠介は色々リードしてくれた。

 小学生の時の悠介は、しきりに将来の夢はバスケの選手になることだと言っていた。

 事実悠介はバスケが上手かったし、放課後もしょっちゅう校庭でバスケの練習をしていた。

 でも小学校高学年にもなるとほとんどの人たちはプロのスポーツ選手になることが難しいことくらいわかってくるようになる。

 悠介とバスケを一緒にしている人たちでさえ、「ああいうのは一握りの人がなれるだけじゃけぇ」と言っていた。

 私はそうやって大人ぶる奴らが苦手だった。たかだか一、二年歳をとっただけで大人ぶるなんて。お前らだってついこの前までタイムマシンで恐竜の世界に行きたいとかお花畑のある大きな家に住みたいとか言ってただろ。

 自分の恥ずかしい過去をなかったことにして、良い所だけを継ぎ接ぎしていくなんて内面が不細工だ。

 だから小学6年生でも「プロの選手になる」と強い夢を持っている悠介が輝いて見えた。悠介と一緒にいると思い切り羽を伸ばせる気がした。


 深夜2時。目が覚める。

 静か。静かすぎて耳鳴りがする。

 私はカーテンをそっと開けた。

 雲が空を流れていた。少々風が強いようだ。

 私は裁縫セットから白い糸と糸切りバサミ、それと予め用意しておいたマッチ箱を持ち出した。

 小銭入れと鍵を持って部屋のドアをそっと開けた。

 階下から聞こえてくる父のいびき。

 階段の上からそっと下を覗いた。

 真っ暗だった。

 父も母も寝ている。彼らは一度寝たらなかなか起きないから大丈夫だろう。

 私は足音を立てないようそっと階段を降りた。

 玄関で裸足のままスニーカーを履いた。

 ほんとは足が臭くなるから裸足のまま履きたくなかったが、今は仕方ない。

 玄関のドアをそっと開け、音が鳴らないよう鍵を閉めた。

 閉めた後、しばらくドアに耳を当てた。

 万が一にも今の音で親が起きてくるかもしれない。

 音はしなかった。

 親は起きてない。

 私はいっきに駆け出した。

 向かうは1丁目にある酒屋の自動販売機。

 最近はタバコを販売している自動販売機は撤去されつつあるが、その酒屋にはまだタバコの自動販売機がある。

 闇夜に浮かぶ自動販売機の明かりが見えてきた。

 私は誰にも見られていないことを確認して自動販売機でタバコを買った。

 自動販売機と電柱の灯りを頼りに私はあるものを作った。

 作り終えるのに時間はそんなにかからなかった。

 再び私は走り出した。

 向かう先は悠介の家。

 いくら昼間より涼しいとはいえ走ると全身に汗をかいた。耳元で蚊の音がする。

 風で髪がなびいて汗で濡れた頬にへばりついた。

 それにしても夜の道路は美しい。誰もいない。こんなにも静かなのか。

 もしも竹田が言うように人類が減少したらこんな静かな世界がやってくるのかも。

 悠介の家の近くまで来た。

 辺りに誰もいないことを確認する。

 悠介の家は案の定真っ暗だった。

 中学生だから夜更かしでもしているかと思ったが、悠介の部屋の明かりも消えている。

 私は門をそっと開けて庭に侵入した。洗濯物の合間をぬって奥まで行く。

 庭の隅っこには悠介が抜いた雑草の山がまだあった。

 私はそこにさっき作ったある物を仕掛けた。

 タバコとマッチで作った着火装置。

 タバコの根本にマッチを数本糸で括り付けた簡単な代物。

 私はタバコの先端にマッチで火をつけた。

 タバコにじわっと炎の線が広がり、白い煙が真っ直ぐくゆる。

 私は着火装置の上から軽く草を被せた。

 私は回れ右をして門からそっと道路に出て、門を閉めた。

 足音を立てないよう駆け足でその場を離れる。

 さきほどの殺害未遂で私は学んだ。

 人を殺す時は運に任せたほうがいいということを。

 殺そうと思って殺すのは手間がかかりすぎる。

 第一殺した後、処理も大変だ。

 そういう意味では悠介を殺し損ねて正解だった。仮にカッターナイフで殺したとして、その後どうするつもりだったんだ、私。

 殺す時はあくまで運。人為的な要素1割。運要素9割。

 仕掛けは施した。後は神様に任せる。


 ■■■


 雑草の山の中で、タバコの火はゆっくりと燃えていた。タバコの火からすでに雑草に少しずつ火が移っている。でも、まだ小さな火。この程度では何も起きない。

 タバコの火がじわじわと根元まで到達すると、マッチの先端の混合物に引火した。

 ポッという可愛い音とともに雑草の山の中が一瞬明るくなる。

 放置していたせいだろう。いい具合に乾燥した草に次々火が移っていき、たちまち雑草の山の中に白い煙が充満した。

 今日は風が強いのが災いしたのかもしれない。

 夜風が吹くと雑草の山の隙間という隙間から酸素が供給された。

 支燃性の気体が一気に可燃を促進し、雑草の山はあっという間に燃え盛った。

 炎は物干し竿の洗濯物に燃え移り、木製の縁側に飛び火した。床板や壁材に使われている物質から有毒ガスが発生した。大きくなった炎は重力に対して負の走性を持った生き物のように外壁を登り始めた。


 ■■■


 自宅にたどり着いた私はそっと鍵を開けて中に入った。

 特別走ったわけではないが、息が切れていた。さすがに緊張状態を維持したまま移動するのは疲労する。

 外からサイレンが聞こえてきた。

 消防車のサイレン。

 パトカーのサイレン。

 私はドアを開けて外に出た。

 東の空、悠介の家がある方向の空が赤く染まっていた。

 赤く染まった夜空に向かって黒い煙が登っていく。

「なにごとだ!?」

 ドアを開けてお父さんとお母さんが飛び出してきた。

「火事みたい」

「火事?」

 お父さんとお母さんは空を見上げた。

 近所の人達も家の外に飛び出して、空を見上げていた。

 夜空から黒い紙切れのようなものが降ってきた。

 ひらひらひらひらと。まるでコウモリのようだった。

 私がそれを掴むと、手の中で潰れて黒い粉になった。

 灰だった。

 悠介の家の灰だ。

 私は夜空を見上げた。

 灰はいたるところに降り注いでいた。風に煽られて火の粉が宙を舞っていた。

 私の瞳孔が興奮で開いた。

 まるで世界が滅亡しているみたいだった。 

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