精神の再構築
それは彼女の嘗ての記憶を呼び覚ますものらしく、施設でローズという名を与えられる前の平穏に暮らしていた頃の記憶。彼女には婚約者がおり、間も無く式を迎えようとしていた時、彼女の留守を狙い家に空き巣が入った。
金品が盗まれている痕跡は無かったが、代わりに彼女と婚約者の身元を証明する書類などが無くなっていた。慌てた彼女はすぐに警備隊へ連絡を入れようとしたが、家の中に忍んでいた何者かに気絶させられてしまう。
暫くして目を覚ますと、彼女は拘束されており目の前では暴行され床に蹲る婚約者と、誰とも知らぬ何者かが立っていた。必死にもがきながら婚約者の名を叫ぶ彼女。
だが婚約者は酷い重傷を負っており、喉を潰されて声も出せなくなっていた。虫の息の婚約者は、辛うじて顔を上げると彼女の方を向いた。
しかし彼女は、その婚約者の顔を見て絶句した。彼は目を抉られており、潰れた声で必死に彼女の名を呼ぼうとしているのか、まるで獣の唸り声のように口を開き彼女の姿を探している。
これまでの平穏で幸せだった日々が現実のものとは思えぬ惨劇に変わる。凄惨な婚約者の姿に理解の追いつかない彼女の目からは、止め処なく涙が溢れていた。
助けを求めようとしてか、悲惨な出来事を振り払うように悲鳴を上げようとしたところで、彼女らの前に立ち尽くす男が突如として沈黙を破るように言葉を吐いた。
彼女は初め、目の前の男が何を言っているのか理解出来なかったが、その言葉を聞いているうちに、彼女の中の恐怖は怒りえと変わっていった。彼女自身、何故その時そのような感情に駆り立てられたのかは分からない。
そして記憶を取り戻そうとも、男が何を言っていたのかまでは思い出せない。代わりに彼女の中にあったのは、自分では抑え切れぬほどの怒りや憎しみだった。
野獣のように歯を剥き出しにし、鋭い目付きで男を睨んだ彼女は、拘束具で自分の身体が傷ついているのにも気が付かぬまま暴れていた。
あまりにショックな出来事とそれを煽るような男の言葉に、精神を壊してしまった彼女はその可憐で美しい容姿からは想像もつかぬ悍ましい声で、呪文のように男に対し“殺す“と繰り返していた。
彼女の中に蘇った記憶はそこで途絶えている。
そしてダマスクの目の前にいる彼女は、当時の記憶を思い出し失われた記憶の続きを、別人のように変貌した声と表情で演じ始める。
初めはブツブツと小さく呟いていた彼女の声が、徐々に言葉としてダマスクの耳へと届く。しかしそれは、彼女の口からは聞きたくなかった鋭利で悍ましい言葉だった。
彼女は肩を掴むダマスクを振り払い、彼の顔を殴りつけた。何がどうなっているのか理解出来なかったダマスクは、彼女の拳を数回くらった後に、血が滲む彼女の手を見て我に帰り、その手を止めさせる。
何度も名前を呼び目を覚まさせようとするダマスクだったが、彼女は聞き耳を持たず、永遠に殺すとだけ叫びながら彼に殴り掛かろうとするばかり。
そこへ、白衣を着た人物が彼女の身に起きている事について説明し始める。
彼女の記憶を戻した際に、白衣を着た人物は彼女の記憶にある細工をしたと語る。それは彼女と婚約者を襲った犯人を、ダマスクの人物像へとすり替えたのだと言う。
つまり今の彼女には、ダマスクは婚約者を殺した憎き仇に見えているのだという。ダマスクはそんな馬鹿な話があるかと、ローズを取り戻す為必死になるが彼女に乱暴な真似ができる訳もなく、両方の拳を押さえ込むだけで精一杯だった。
優しかったローズの声や表情が彼の中で蘇る。そして目の前の変わり果てた姿になってしまった彼女に、どうしてこうなってしまったのかと溢れ出る感情を抑える事ができなかった。
そこへ、白衣の者達の内の一人が刃物を取り出し、ローズと呼ばれた女性にこれを使えば恨みを晴らせると唆し、視界の中へチラつかせる。それを目にした彼女は、ダマスクの手を振り払い男の刃物を奪い取ると、床に倒れる彼に向けて突き刺すように振り下ろす。
死ぬ訳にはいかないのは勿論だが、彼女の綺麗な手を汚させる訳にはいかないと受け止めるダマスクだったが、彼女の持つその刃物にもとある細工がされていた。
それは物を介して彼女の感情が対象に流れ込むようになっていたのだ。原理や理屈は分からない。ただ、彼女の殺意を受け止めたダマスクの内に、彼女の愛する人を殺されたという悲しみと憎しみがこれでもかという程流れ込んできていたのだ。
脳裏にフラッシュバックするように映し出される光景。それはダマスクのものではなく、嘗ての彼女が婚約者と出会い幸せな日々を過ごし、告白を受けた時に喜びのあまり泣き出してしまう彼女の姿を見た。
それを見せられたダマスクの身体は力を失ってしまった。抑え込んでいた彼女の手は、ダマスクの両手ごと彼の胸に振り下ろされた。彼の身体に全ての怒りをぶつけんと突き立てられた刃物は、ダマスクの身体を何度も貫く。
初めの数回までは記憶が残っていたが、そこからの彼の記憶は途絶えている。
煙の人物の正体であるダマスクの記憶の絵画を目にして、思わず釘付けになってしまったシンは、その後に映し出された記憶の映像で、漸く記憶の映像と煙の人物がまるで別物になってしまった理由を知る事になる。
真っ暗な絵画に徐々に映像が映し出される。そこは嘗てダマスクがローズを見ていた大きな容器の内側だった。
ダマスクは死んでしまった訳ではなかった。彼の肉体は蘇生の魔法を受け、ローズと同じように記憶を消され状態で施設へ連れ戻され、実験体として帰って来ていたのだった。
容器の外には白衣を着た研究員が立っている。そして彼の入っている容器に手を触れながら、彼らの研究で分かったとある精神の在り方について語り始める。
精神とは一度構築され始めてしまうと、後から上書きするのは難しい。作られたものは一度壊してゼロに戻す必要がある。そこから再度作り上げることで元の精神とは別の精神を構築することが出来るのだと。
その時に生じる現象をシステム化し、何度も繰り返すことで他者の中に存在する精神の中に入り込み、独自の精神を構築し始める事が可能になる。それを実証する為の被検体となったのが、ダマスクという人物であり、自身の肉体という入れ物を持たずとも、他者の精神の中に住み着く寄生生命体として誕生した新たな生物の在り方なのだと。
「俺は・・・おれぁ・・・オレハ・・・おれ俺俺俺オレ俺俺俺おれオレ俺俺俺俺俺」
絵画の中のダマスクが壊れたオーディオ機器のように、同じ言葉を繰り返し不気味に歪んだ声へと変わっていく。
シンは映像が途切れる前に、絵画の中に映し出されるダマスクの記憶、精神の中に腕を突っ込み、彼の失われた精神体を引き摺り出す。視覚的には黒い煙のような気体をしており、シンの腕が絵画から引き抜かれると同時に煙がズルズルと溢れ出してきた。
それを掴んだまま、シンはアズールの中で浮上していく他の絵画の向かう先へと進んでいき、真っ暗な空間が徐々に光に包まれていく。
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