キロ・グリゴロフ回想録


大下幸平(著)


ミュンヒハウゼン文庫


 キロ・グリゴロフはマケドニア(現:北マケドニア)の初代大統領を務めた政治家です。

 彼はユーゴスラビア人民解放戦争で多大な役割を果したパルチザン戦士でもあり、2011年、死の前年に回想録を出版しました。


 本書はその回想録の日本語訳……と「信じられていた」書物でした。

どういう意味なのか?と首をかしげる読者諸兄は、上のクレジットに記された日本人と思われる名前の横が(訳)ではなく(著)になっている点にご注目下さい。



 本書は、大下幸平という日本人が、グリゴロフの回想録を翻訳したと称しながら、その実、原書は全く参照せずに書き上げた偽の翻訳書なのです!


なぜこのような本が生まれたのか。

 著者の大下幸平氏は、スラブ文学や中欧の近~現代史を専門とする翻訳家でした。しかし一口に中欧といっても両手で数え切れないほどの国家が立ち並ぶ地域です。数ヶ国語を自在に操れる優れた翻訳家であっても、対応しきれない言語は必ず存在します。大下氏の場合、出版社から回顧録の翻訳依頼を受けたものの、マケドニア語に対する知識は皆無に近い状況でした。にも関わらず、諸事情により金銭的に窮地にあったことから、翻訳を引き受けてしまったのです!


 このような暴挙が見過ごされた理由としては、出版当時の日本にマケドニア語に明るい人物が僅少であったこと、大下氏がズブの素人ではなく、クロアチアなど他の中欧諸国の言語には精通している翻訳者であったことが挙げられます。つまり大下氏は中欧の歴史書や、周辺諸国の新聞記事等を参考にしてグリゴロフの回想録を偽造したのです。嘘やでっちあげを記しているわけではなかったため、本書が「回想録」としては偽物であることが暫くの間、気付かれずに済んだのです。


 偽の回想録であると見抜いたのは、マケドニア語の習得を思い立った一人の大学生でした。この学生は本書を勉強の参考にしようと考え、原書を入手して読み比べたところ、歴史的事実を除いて内容が全く異なっていることに気付いたのです。最初は抄訳かもと考え読み進めていったそうですが、抄訳では説明がつかない違いが発覚、出版社に問い合わせた結果、大下氏の不正(?)が発覚したのでした。


 出版から、偽の翻訳が明るみに出るまで三年が経過していたそうです。日本国内で習得者の少ない言語とはいえ、このインターネット全盛時代に信じられないほど大胆な不正に手を染めたものだと呆れてしまいます。


 なお、本書は現在も、「回顧録の体裁をとったマケドニア現代史」という断りを入れた上で流通しています。その後、本物の回顧録も翻訳されましたが、読み比べると本書の方が読みやすく、事実関係もまとまっているからです。



(このレビューは妄想に基づくものです)

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