29 千の花が咲いたら

 その鉄壁の防御を崩すには、魔法の言葉が必要だと思った。壁を突き抜けて彼に届き、その心の扉を開く合言葉が。


 私の家、リーネ家は大昔はルーネと書いた。その名の通り“銀月と狩猟の女神ルーネ”の血を引く一族だ。同様に、セシル家も古くはセシェルと書いたのだろう。


 “金月と森の神セシェル”の血を引き、神話の森を守るセシル家は、一族に迎え入れる人間を慎重に選ばなければならない。それが排他的にならざるを得ない理由。

 満月の夜に狼にならなかったのは、アルファルドが月神セシェルの御印の持ち主だから。


 私の推測が正しければ、ルーネの末裔である私の言葉に応えてくれる筈だ。気が遠くなりそうな神話の時代から、セシェルはその言葉を待ち続けていたのだから。


『千の花を咲かせて、セシェル』


 君はなんて応える? 今度は私が答えを待つ番だ。




 ディアナがもぞもぞと居心地悪そうに身動いで、私の腕の中から逃げ出した。私は隣に座る彼の顔を見上げるのが怖くて、ピクニックシートに横になったまま、じっと彼の左手を見つめていた。


 撫でるものが居なくなったその手は、温もりを探して今度は私の髪を撫でる。見た目よりもゴツゴツと硬く無骨な戦士の手に、どこか懐かしさを感じる。

 それは、私の中のルーネの記憶なのだろうか。きっとセシェルとルーネも、こんな風に穏やかな時を過ごしたんだろう。そうだったらいいな。


 寝不足とぽかぽか陽気と満腹で瞼が落ちた時、不意に、薫る風が微かな花の香りを運んできた。

 薄く開いた目に風に揺れる白い花が映る。

 ハッと起き上がって周りを見渡せば、青い空の下、辺りは一面のシロツメクサの花畑になっていた。


 恐る恐る、隣のアルの顔を見やれば、待ち構えていたかのように唇が重なる。触れただけの唇が離れても瞠目したまま呆然とする私に、アルは楽しそうに首を傾げる。

 今度は先程よりも長く激しい口づけが降って来たところで、ようやく我に返った私は、アルの胸から身体を引き剥がした。アルは身体を乗り出して名残惜しそうに唇を甘噛みしてから離れた。


「ななななに、なにをしなにした?」


 動揺させるつもりで放った言葉は、とんでもない威力になって返ってきた。混乱して上手く言葉を紡げない私を見て、アルは勝ち誇ったように嗜虐的な笑みを浮かべる。

 陽の光に金色を帯びた瞳は光り、ネクタイを緩めて舌舐めずりする様は獲物を嬲る狼そのものだ。


「あと九百九十八回……」


「ふぁ!?」


「これでも譲歩しているんだ。だって本当は君からしないといけないんだよ? 千の花を咲かせたご褒美に、千の口づけを。そういう約束なんだから」


 いつに間にやら腰に回された腕は、いくら押してもびくともしない。

 そもそも狼男と狼女では筋力に差があって、本気を出されたら敵わないわけで……などと余計な事を考えて混乱する頭を冷やそうとしたけれど、考える側から隙をついてキスされるから、もう何がなんだかわからなくなってきた。


「そっんっ……!? わ、私が読んだ本にはそんなこと書いてなかった!」


「それ子供向けの絵本じゃないの? 神話なんて本当はエログロばかりだよ。僕が読んだのなんて、めくるめく官能の……」


「わあああああわかったもういい!」


 夫婦神だから、確かにそういう解釈もあるけど! あるけども! 言葉に出されると生々しいからやめて欲しい。だいたい、学生の身分でそういう本はまずいと思うぞ!

 ドッと疲れてため息をつく私を抱きしめて、アルは幸せそうに髪に額に頬に唇を落とす。


「セラ……僕は嬉しいよ。バレちゃったなら、もう手加減しなくていいし、我慢しなくていいってことだよね?」


 私の頬を撫でて熱っぽく囁く。

 隠してたこと、嘘をついていたことに対する謝罪とか罪悪感を多少は期待していたけれど、そういう気は微塵も無いようだ。

 アルからすれば、これだけ沢山のヒントを出していたのに今更かと思っているのかもしれない。――私の気も知らないで。


「……私は狼男が嫌いだ」


 私のそんな精一杯の虚勢さえ、一笑に付す。


「なら逃げるかい?」


 耳元で囁いた声は危険な色を孕んで、首肯したら首筋に噛み付くと警告するようだった。

 鮮やかな空の下、シロツメクサが揺れる。物言わぬ観衆は私の答えを固唾を呑んで見守っている。

 可憐なその花の花言葉は、いかにも君らしいと乾いた笑いが溢れた。


「逃げたって無駄じゃないか」


 降参を伝えると、アルは安心したように小さく息を吐いた。こんなに何度も密に接触して、においを完全に覚えられてしまったら、どこに逃げたって見つかってしまう。


 そして、私が一度でも逃げたら君は本気になって追い回すでしょう? 狼男の執着は凄まじい。一度そうなったら、私がいくら拒んでも聞かない。

 だから、君はあれ程『逃げないで』と懇願していたんじゃないか。不用意に君の身の内の狼を刺激しないようにと。


 君は身内に獣人がいると言った。まさに言葉通り、君自身の身の内に狼が棲んでいる。


 言葉も態度も余裕そうなのに、きつく私を抱きしめる腕は何かを請うように縋り付き震えていた。

 狼男に怯えているのは、私じゃなくて君なのかもしれない。そんな風に思えて、もう怖いと思えなくなってしまった。


「……君がセシェルということは、君は狼男だってことになる。だから、認めたくなかった。でも、見つかる手がかりの全てが、君こそがセシェルだと示すから、もう目を逸らせなくなってしまった。――今はね、君がセシェルで良かったと、少しほっとしてる」


 私の中の狼の血が、もう無視できない程にアルを番の候補として意識してる。

 だって、目を閉じればまだ胸の中を流星が駆けているから。孤独な星に寄り添いたいと願ってしまったから。


「……まだ納得できないことはあるけどね。例えば、君がそうまで私を求める切っ掛けになったこととか」


 私が救ったと言っていたけど、私は覚えていない。

 何年か前に学院で暴れたという話も、本当にあったことなら真実が知りたい。何か暴れる理由があったんじゃないか? ルシオンの話を読んで、もしかして冤罪だったんじゃないかって思い始めている。


 とにかく、私は君のことを知らな過ぎる。それが、とても悔しい。


「だから、全部受け入れるにはもう少し時間が欲しい」


 そうしたら、やっと同じ場所に立って、同じ景色を見れる気がするから。

 長い手足の間に閉じ込められて、アルの胸に寄りかかるように顔を見上げると額にキスされた。


「僕は君が勘違いしていると知っていながら訂正しなかった……今までの僕を許してくれる?」


「いいよ。私が忘れたのがいけないんだから」


 寂しげに言うから、やっぱりは少しは反省してるのかと思ってそう答えると、アルはにやりと嫌な笑みを浮かべた。


「良かった! 絶対怒ると思っていたんだ!」


 ぐりぐりと私の頭に頬擦りしながら、上着の内側のポケットから封筒の束を取り出して私に手渡した。見慣れた字に差出人を確認すれば、案の定、癖の強い字でエリオット・リーネとある。道理で届かない筈だよ!


「なんで君が持ってるんだ!」


「あははは! ごめーん。許して?」


 いや、そんな明るい声で言う奴があるか! しっかり封が開いてるんだけど? プライバシーの侵害だ!

 学内の郵便配達について早急に見直すべきだと、学院長に手紙を書こうと思う。この分だと、ちゃんと届くかはわからないけど。


 安心したら急に眠気が戻ってきたので、アルの腕から抜け出して先程と同じ様に寝転がった。


「三十分経ったら起こして」


「……生殺しかぁ〜」


 ため息混じりの嘆きを零すアルを放っておいて、私は午睡に沈んだ。



――*――*――*――*――*――



clover「私を思って」「約束」「復讐」

four-leaf clover「私のものになって」「幸運」

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