FileNo.8 プリディクション - 16

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 ――最短で、約三秒。




 左肩から流れる血を右手でおさえ込みながら、坂田雨月はけていた。バッグを盾にし、同時にスマホも手放してしまったため、現在地を詳細しょうさいに知る術はない。但し、古い一軒家の立ち並ぶ住宅街を、迷路のように入り組んだ道を逃走する最中、時折目にする古ぼけた掲示板とそこに貼られた地図で、大まかな位置は把握はあくしているつもりだ。


 涼と共に降り立った私鉄の駅から北北東。行き止まりがあろうと躊躇ちゅうちょなくへいを乗り越え、さくを乗り越え、古い民家の荒れた庭を突っ切り走り続けているが、もうしばらく駆ければまた別の駅が近づいてくるはずだ。自然、彼女の周囲の建造物の量も、その高さも増していく。そうなれば、今のこの、後方から延々えんえんと降り注いでくる無数の矢を道端のゴミ箱や塀を掩蔽えんぺいかわし、すり抜け続ける逃走劇の難易度は、少なからず下がる筈だ。


 懸念けねんがあるとすれば、三つ。


 一つ。人口密度が高い地域へ向かえば向かう程、無関係の人々を巻き込む確率が高くなり、かつ雨月への注目も集まりやすくなること。除霊師という職業柄、それは極力避けるべきだ。極力、だが。


 一つ。呪術による無数の矢――それらは相変わらず、カッターナイフや包丁、傘や木の枝、鉛筆やのこぎりなど、人の手で容易に投擲とうてきできるものばかりだ――により、進行方向を変更せざるを得ない可能性があること。それらは今、ウサギを追い立てる狩人のように執拗しつように後方から雨月を狙い撃ってきているが、彼女が遮蔽物しゃへいぶつの多い場所へ向かうことをさまたげてくるパターンも考慮こうりょしておかねばならない。逃げる場も無くグルグルと走らされていては、遠からず体力が尽きるのは自明の理だ。そしてその時、『首を斬られて死ぬ』という予言は間違いなく成就じょうじゅする。


 一つ。これが最大の懸念事項だ。


「逃げてる途中に失血死しないといいけど」


 呟き、一つ息を吐いて、思い切りジャンプする。木造民家の木製の塀を蹴り破り、汗と血をぬぐう余裕も無く走る雨月の体躯には、左肩に一つ、右脇腹と右腕にそれぞれ二つずつの切創せっそうが、そして両手両足には複数の擦過傷さっかしょうが出来上がっている。特に左肩の切り傷が深い。動脈が傷ついたらしい。だが、きちんとした止血をする余裕がない。


 最短で、約三秒に一回。無数の矢が彼女の首を狙ってくるからだ。


 ――またかすかに風の音が響いて、雨月は素早く横っ飛びに跳んだ。そして入り込んだ民家の庭、草が盛大に生い茂る手入れのされていない大地に片手で手をつき、腕の力だけで再度、思い切り跳び上がる。


 宙空で雨月の目が捉えたものは、三つ。彼女の走っていた個所へと降り注ぐ無数の刃物の矢、数百メートル先に敷設ふせつされた四車線道路とそれにけられた大きな陸橋りっきょう、そして――彼女が逃げてきた洋館の上空辺りに存在する暗雲のような『何か』。


「大きくなっていってる気がする」


 孤独を紛らわせるように呟きながら着地し、陸橋の方角へと再び駆け始める。先ほど通り過ぎた比較的新しめの地図からして、あの陸橋の下の道路を真っ直ぐに行けば、いずれは繁華街と私鉄の駅が見えてくる筈だ。だが果たして、辿り着くまで体はもってくれるだろうか? ああ、頭がくらくらしてきた。これは運動量のせいか、それとも流れ出た血のせいか。分からない。だがいま思えば、先程の腕の力だけでの跳躍ちょうやくは悪手だったかも知れない。確かに攻撃はかわせた。が、傷は広がり、出血量は避ければ避けるほど多くなっていく。痛みには慣れているけれど、人体の限界にはあらがいようが無い。


「反撃の手段は?」


 走りながら住宅街の塀を蹴り上がり、陸橋へと言葉通り真っすぐ進みながら呟いてみる。


「無くはないけど」


 駆けながら、血を流しながら、時折眼鏡の内側についた汗をさっと拭いながら、雨月は考えていた。懸念の二つ目――もしこの呪術が彼女の行き先を妨げる方向にシフトしたら、どう対処すべきか。いや、そもそも。


 本当に、シフトするだろうか?


 有り得なくはない。だが可能性は低い。雨月はそう結論付ける。


「だって中途半端ちゅうとはんぱだものね、この術」


 流血の最中、雨月は小さく笑った。三秒に一回、鋭利えいりな物体が飛んでくる――確かに危険な術だ。だが極端な話、この程度の術であれば、無理やりどこかの住宅に押し入り、窓ととびらふさけば済んでしまう。


 本当に殺したいのであれば、相手に防御の猶予ゆうよを与えるような術を用いるだろうか?


 雨月の答えはNoだ。この世界には髪の毛一本をわら人形に詰めるだけで相手を呪い殺す術すら存在する。『紙に書かれた文字を誰かに読ませる』という厄介な条件をクリアしてようやく『三秒おきに矢を放てる』術など、呪術としては余りにもお粗末に過ぎる。


 故に、雨月は考える。恐らくこの術は雨月を殺したいのではない。雨月を遠ざけたいのだ。あの館から。


「或いは弄びたい、かしら」


 陸橋が見えてきた。敵の狙いが何であるにせよ、攻撃が物理的なものである以上、この呪術は地理的制約と無関係ではあるまい。しかるべき土地に逃げ込み防御の態勢たいせいを整えたら、後は落ち着いて仲間と連絡を取り、反撃に出られる。


 可能だ。自分なら。


 鋭く息を吐き、改めて住宅街の塀を蹴り上がり、更に全力で跳躍する。ややあって雨月の体躯たいくは、地上から高さ五メートル弱程の陸橋の上へ勢いよく着地していた。丁度その場を歩いていた男子高校生と子供連れの主婦が驚愕きょうがくの様相で、突如出現した血塗ちまみれの雨月を見つめる。見られたのは商売柄よろしくない出来事だが、この状況では致し方あるまい。そんなことよりも。


 雨月は陸橋の上から身を乗り出し、橋の下の道路を行き来する乗用車たちに目を向けた。更に注目が集まることになるかもしれないが、この内のどれかの屋根に飛び移れば、放たれる矢との相対速度が落ち、防御と逃走は更に容易になる。欲を言えば乗用車よりも、荷台の空いたトラックがいい――そんなことを考えた次の瞬間だった。


 ゴン、というひどく乾いた音が陸橋に響いた。


 足元がかたむく。


 雨月は目を見開いた。


 陸橋の端に一台の乗用車が突っ込んでいる。それは一呼吸の間もなく爆炎を上げ、更に後続の乗用車が次々に炎のかたまりへ突入していく。傍に居た男子高校生と主婦と女児が悲鳴を上げて陸橋の上に倒れ、砲弾よりも数段強力な鉄の塊の衝撃により陸橋には亀裂きれつが走る。そして割れていく。足元が崩れていき、雨月たちの体は下の道路に投げ出される。


 最中、雨月は見た。陸橋の片足に突っ込んだ乗用車――それらが走っていた道路の上に突き刺さる、無数ののこぎりや出刃包丁たちを。


「なぁんだ」


 投げ出される最中、雨月はまた独り呟いていた。単純な理屈だ。敵は雨月ではなく、走っている車へ矢を放った。タイヤをパンクでもさせたのか、それとも陸橋へとハンドルを切らせるように矢を放ったのか――恐らく両方か。いずれにせよ。


「これを狙ってたのね」


 投げ出される雨月の体躯に向かって無数の矢が飛んでくる。相変わらず木の枝やら鉛筆やら包丁やら、日用品の類ばかりのお粗末な矢たち。だが宙空で身動きの取れない相手の首をっ切るくらいならば、それらでも十二分に役目は果たせるだろう。


 雨月は自身をわらった。


 三秒のインターバル?


 遠ざけたいだけ?


 殺す気が無い?


 寝惚ねぼけた――余りにも甘えた考えだった。つまりは全てこの時の為――こちらの油断を招いてから確実に殺す為の欺瞞ぎまんだったわけだ。


 自らをあざけり笑う彼女の首へ、一筋のカッターナイフがせまる。避ける暇は無い――雨月が冷静にそう判断するのと、再びの猛烈な爆音、爆風が、平和だった夕刻を染め上げるのは、ほぼ同時だった。








 爆風が、彼女の眼鏡を遠慮なく吹き飛ばした。

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