FileNo.3 ロスト-15

 不意に、眼前に見慣れない掌が挿しこまれた。びくりとして体が跳ねかけたのと同時に、突然の闖入者は尋常でない力で、瞬く間にあたしと『あたし』の体を引き剥がす。


「もう、お互いに他人の体使って! 何でまた、こんな変なことになってるのかしら」


「……坂田先生?」


 思わず目を向けた先には、呆れた表情の坂田先生が、喧嘩する猫の首根っこを摘まんで引き剥がす飼い主が如く、あたしたちを掴んでいた。どうしてここに、と尋ねると、坂田先生は「あなたは東さんね?」と確認した後、続ける。


「しょーちゃんから『ここに行く』って連絡を受けてたから、仕事を片付けて来てみたの。そうしたら、戦場跡みたいになってる中で、あなたたちがギャーギャー騒いでるんだもの。……で、しょーちゃんは?」


 しょーちゃん――ああ、と、あたしは一人得心した。雷瑚晶穗だからしょーちゃん――。


「あ、そこね。……もう、また無茶して」


 坂田先生はそう言うと、あたしの足元から何かを拾い上げた。真っ黒な紙……なのだが、何やら異様な雰囲気を醸している。理由は分からないが、気味が悪い……そんな印象を受ける紙だ。


「坂田先生、それは?」


「曰くつきの絵の欠片。触れた人を中に閉じ込めちゃう呪詛が込められてる。しょーちゃんの中に東さんが入ってるってことは、多分しょーちゃん、あなたに体を一旦渡して、代わりにこの絵に一時避難してるんだと思うわ。あの子、こういう呪具の扱いに長けてるから。


 ……で?」


 ひとしきり説明してから、坂田先生はにっこりと笑った。だが。


「お話は終わったかしら、お二人さん。終わったなら、さっさと出てってくれない? 幾らしょーちゃんでも、この状況、あんまり悠長にしていられないから。最悪、自分の体に戻れなくなるかもしれないし」


 眼が笑っていない。


「私はね、しょーちゃんほど寛大でも偉大でも寛容でも無いの。そりゃ殉職だって珍しくない業界に居るけど、クライアントの命としょーちゃんの命なら、あたしは迷うことなく後者を採る。そんなわけで、ええと……まずはこっちかしら。浮遊霊さん?」


 出てけ、と、あたしの体に居るオッサンに対し、坂田先生はドスの効いた声で告げた。……あたしの中で、いつも笑顔で柔らかく優しい坂田先生のイメージがガラガラと崩れていく。いやでも、よくよく思い出せば、雷瑚先生に「仕事とプライベートは分けろ」なんて言ってたし、元々そういうポリシーの人……なのかも? そんなことを、眼鏡の奥に光る冷たい坂田先生の眼差しを見つつ考えていた時だ。


「どこの誰だか知らない……」


 あたしの体の中の誰かは、不意にそう、呟くように言った。池尻……とか言ったか。頭に手を当て、何かを思い出そうとしているようだ。


「ちょ……あ、あんた、とりあえず出て行って欲しいんだけど。何か坂田先生、怖いし」


「どこの誰だか――ああ」


 あたしの言葉に返すこともなく、ふと、眼前の男は穏やかに笑った。そして続ける。ようやく思い出しました、と。


「思い出した? 何を?」


「私がキミに伝えたかったことです。東栄絵さん。本当にありがとう」


 突然の言葉に、あたしはただ、ぽかんとした。何の話だろう? 疑問だらけのあたしに、彼は更に続ける。


「私の落し物を拾い届けてくれて。恋人へのプレゼントだったんです。だから、警察に届けてもらったと聞いた時、本当に嬉しかった」


「落し物……?」


 いつだったか――曖昧な記憶が浮かんでくる。夕暮れ。塾への行きがけの道。道端の石垣の上にぽつんと置かれていた紙袋。


「だけど、巡回中の警察官にそのまま渡してくださったそうだから、拾ってくれた人の記録が残っていないと言われて。お礼を言う相手が誰なのか分からなくて。それが心残りだったんだ。そう……そうだとも。キミにとっては些細なことだったかも知れない。だけど、私にとっては、この上なく大事なことだった」


 ありがとう、と、再度彼は言った。あたしは真っ直ぐ、穏やかに告げる彼に、何と返せばいいか分からなかった。分からないなりに、言葉を紡いだ。


「……どうして、あたしが拾い主だって分かったの?」


「警察へ荷物を取りに行った時、キミの高校の生徒さんが拾ってくれたってことまでは聞けたんだ。後は……ぼんやりとしか覚えていないけど、いつもこの道を、これくらいの時刻に通ってる子が、キミ以外には居なかったから、だったと思う。うん……私は運が良かったんだよ。運が良かった」


 はあ、と、彼は大きな息を吐いた。如何にも満足げに。途端……だった。


 彼の体から、ふわりと、蛍のそれに似た輝きが漏れた。それは次第に数を増していき、やがて彼の体は、金と白の間に位置する、煌びやかで――だけど、とても優しい光に包まれる。


「出来ればもう、私のように事故に遭わないよう、気を付けて」


 きっとそれが、彼の最期の言葉だったのだろう。……次に私が口を開こうとした瞬間、彼の体を包んでいた光は、フッと消え失せた。


 『あたし』の体が、脱力したように膝から崩れ落ちそうになる。


「おっと、危ない」


 前から抱え込むように、坂田先生が『あたし』の体を受け止める。それから、こちらを振り向いて、言った。


「あんまり事情は分かってないけど……つまり、あの人は東さんにずっと、お礼を伝えたかったのね」


「そう……みたいです」


「東さんは、とてもいいことをしたんだと思う」


「そう……なんでしょうか」


「うん、きっとそう。きっとそうだから、とりあえず体、元に戻すわね?」


「え、あ、はい」


 現実に引き戻されるような事務的な口調で告げられ、返事をした途端、あたしは宙に放り出されたような錯覚に陥った。いや、錯覚では無かったのだ。何故なら、それは一瞬の出来事で……次に目を開いた瞬間。


 視界には、坂田先生と、彼女に支えられている雷瑚先生の姿があったのだから。

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