FileNo.3 ロスト-11

「警察のお兄さんたちが目下調査中だとよ。ついでに言うと、お前を轢いた奴もまだ見つかってねえ」


「そうですか……」


 私はその時、微かな違和感を覚えた。それは単純に、告げられた事実が、かつて免許を取る際に何度も足を運んだ教習所で学んだ「轢き逃げ犯の検挙率は九十パーセント以上」という記憶に沿わないことに依るものだったのかも知れない。だが、本当にそうなのか? 私は考えていた。何故私は今、「捕まったか」ではなく「どうなったか」と尋ねたのだろう?


「さて、到着だ。そろそろ夕方だし、混み始める時間帯だが……どうだ? 何か思い出さねえか?」


 雷瑚氏が足を止める。我々の正面には、十数メートルの横断歩道と、数年前に導入された鮮やかな色の信号機、そしてデカデカと名前の書かれたアーケード商店街の看板が広がっていて、信号待ちの人々が、眼前を行き交う車両を漫然と眺めたり、手持ちの携帯電話をタップしたりしている。見慣れた光景だ。だが、私はもう、ここに戻ることは出来ない人間なのだ。


「ええっと……」


 私は周囲をさっと見回し、やがてあの日、プレゼントを置き忘れた石垣に駆け寄った。道端で電話越しの相手に頭を下げる――傍から見れば随分と格好悪い姿だったかもしれない。そんな、在りし日の自分に想いを馳せていた時だった。


 戸惑うような人々の声が聞こえて、私は横断歩道を振り返った。そして、眉をひそめた。


「何だ、これ」


 似たようなことを呟いている人が他にも居たから、私の感想は至極平々凡々たるものだったのだろう。だが、それも致し方ないことだ。


 歩道、そして二車線道路。それぞれに備え付けられた信号機が、ちかちかと瞬いている。青、赤、黄――何度も何度も、狂ったようにLEDが順繰りに瞬いているのだ。夕陽が差し込む横断歩道で、何の音も無く。


 異様な光景だった。エンジンを噴かしていた車も、信号待ちの人々も、皆が足を止めている。困惑が空気に滲み出ている――とでも言えばいいのだろうか。


「故障……ですかね」


 でも、こんなに一斉に壊れるものだろうか? 浮かんだ疑問は喉から出ることは無かった。順繰りに変わる信号――その三色の光の切り替えは徐々に速度を増し、やがて瞬きよりも速くなり――ついには、バツン、と音と火花を伴って消え失せたからだ。


 夕暮れの商店街にあるまじき静寂が、場を支配する。


 その中で。


「あーあー」


 雷瑚氏は一人、嘆息混じりに呟いた。


「公共物ぶっ壊しやがって。……ま、見つかったからいいか」


 誰に、何を言っているのだろう。この疑問も、私が口に出すことは無かった。口に出す前に。


 ふわり、と、違法駐輪されていた傍の自転車が、浮き上がった。


 何が起きているのか、理解するには少々の時間を要した。呆気に取られている間に、どんどんと、風船が如く、赤い自転車は浮き上がっていく。


 視界の端でも、同様の事象が起きていた。あちこちに放置されていた自転車達が、次々に宙へ浮き上がっていく。十、二十――モノも言わず、見る見るうちに、首を上に向けねば視界に収まらない程の高度に達していく無数の鉄塊たち。やがて、それらは。


 一斉に、私を『見た』。


 背筋を、冷たいものが駆け巡った。地上十数メートルの位置で、私へと真っ直ぐにハンドルを向ける自転車達。呆気に取られていた私を貫いたのは、憎悪にも似た冷たい怒り。そして、その権化たる無数の鉄塊たちは。


 雨のように砲弾のように、一斉に私に降り注い――。


「屈め!」


 ――鋭い声が空を裂いた。ぐい、と頭を押さえつけられ、大地に突っ伏した私の頭上を、無数の自転車が一斉に通り過ぎる。後方で地鳴りに似た轟音と鉄の軋む音が泣き喚き、弾け、衝撃で髪が舞い上がった。


「舌、噛むなよ!」


 次に、私は強い力で引っ張られた。視界がぐるりと回り、雷瑚氏に横抱きに抱えられる中で必死に地鳴りの先を見ると、ひしゃげた無数の鉄塊達が、再び宙に浮きあがっている。


 撃ち出されるように、私を目がけて飛んでくる。


 私は声にならない声を上げた。風が鳴く。雄叫びのように。


 しかし。


「遅ぇな」


 そんな声が、耳に届いた。同時に。


 雷瑚氏は、その場でくるりと回った。私を抱いたまま、緩やかに、軽やかに。


 すぐ傍を、矢のように鉄塊たちが過ぎ去っていく。くるくると雷瑚氏は回る。踊るように。いや、違う。


 避けている。


 数十の、猛スピードで撃ち出される鉄塊群を、悉く。全て躱し、いなしている。回りながら。


 だが。


「ら、雷瑚さん! 上から!」


 回る視界で、再度十数メートルの高さまで浮き上がっていく幾つかの鉄塊が見えた。それはまさしく、ぐるりと我々を取り囲み、狙いを定めているようで――果たしてその予感は的中した。


 四方八方から、轟音と共に鉄塊群が飛んでくる!


「やっべ。酔いそう」


「雷瑚さん!」


「わぁってるよ、心配すんな!」


 彼女はニッと笑った。そしてその直後、私を抱えたまま、直上に跳び上がった。真っ直ぐやって来た鉄塊たちが足の下で衝突し、雷瑚氏はそれを、超人的な脚力で蹴り飛ばす。


 高く跳び上がる。


 夕陽を浴びて、彼女の金色の髪が、きらきらと煌いた。


「ちょいと失礼!」


 道路へと跳び出した彼女は、停止していた乗用車の天井に着地し、更にそこから跳んだ。後を追う様に滑空してきた鉄塊が乗用車に突っ込み、衝撃音とガラスの破砕音が連続して商店街に強く轟く。尤も、既に周囲には悲鳴と轟音と風鳴きが満ちていて、ガラスの破砕音など今更ではあったが。


「おー、えらいことになってきてるな」


 他人事のように呟きながら、襲い来る鉄塊たちを、乗用車やトラックの天井を八艘飛びが如く跳び渡って回避し続けた雷瑚氏は、やがて横断歩道の中央に着地した。既に自転車たちの亡骸は鉄屑と化しており、そして尚も、我々を取り囲むように宙を彷徨っている。だが、横断歩道に着地して、相手の動きに変化が生じた。獲物を狙う狼のように、狩りの瞬間を窺う猛禽のように、宙からの猛襲を一時中断したのだ。雷瑚氏の常人離れした身体能力を警戒してか、何か策を練っているのか、それは分からないが……。


「さて、もう随分暴れたと思うが、どうだ? まだ気は済まねえか?」


 私を抱いたまま、ふと、雷瑚氏はアーケード商店街の看板を見上げて――いや、違う。そのあたりの宙に居るであろう『何か』に語りかけた。目を凝らしてみたが……私には何も見えない。

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