FileNo.3 ロスト-10




 入院着から簡単なワンピースに着替えて、私と雷瑚氏はそっと病院から抜け出した。この体の持ち主――東栄絵さんの両親には悪いが、事情が事情だけに説明が難しい。「ちょっと外の空気を吸ってくる」と書置きだけ残してきたが、いずれにせよ、長時間の外出は出来ないだろう。


 病院と、私が死んだ警察署は、実はかなり近い場所に位置していた。徒歩五分ほど――そう聞いてテクテクと雷瑚氏と共に歩いて行ったのだが、事故現場である警察署の前の道路を見ても、私は何も思い出せなかった。


「しゃーねーさ。何せ肉体が無え時に考えたことだ。普通の人間じゃ、そんな状況での記憶なんてそうそう思い出せねえよ。イタコや霊媒師なら別だが」


 雷瑚氏はそう言って私を慰め、また大きな欠伸をした。ずっと眠いのだろうか。尋ねると、「昨日もイベント周回が大変でな」と彼女は言った。何の話だろう――考え込もうとする私に、彼女は続ける。


「恋人の名前は憶えてるか?」


「……はい。大蔵こよみさん――同じ職場の後輩です」


「それだけハッキリ覚えてて、お前自身に何の反応も無い、ってことは、恋人へのメッセージ、ってわけでも無さそうだな。ま、それならそもそも、栄絵に憑く理由にはならねえか」


 何気なく告げられた言葉だったが、私は内心ショックだった。何か遺したいと願う相手なら、家族や恋人、というのが普通では無かろうか。逆に言うと、私は彼らに『何も遺そうと思わなかった』ということに他ならない。それは……人としてあまりに寂しい最期では無いか。


「じゃあ、次の現場――栄絵が事故に遭った交差点に向かうか」


 考えていると、雷瑚氏はそう言って私を促した。素直に従い、歩き出す私は、しかし少なからず自身に失望していた。心残りがどうこう以前に、さっさとこの体から退出する術を探した方が良いのでは――。


「小泉八雲っていう明治時代の作家、知ってるか?」


 二車線道路の傍、幅のあるゆったりとしたピンク色の歩道を歩く最中、ふと雷瑚氏が言った。意図を図りかねて隣を見ると、彼女は眠そうに眼をごしごしとこすりつつ、続ける。


「そいつが書いた短編に、こんな話がある。罪を犯した使用人が、処刑される前にこう言ったそうだ。『俺を殺せば化けて出て、お前たちを呪い殺してやる』。主人の武士はこう返した。『化けて出れるくらいの恨みがあるんなら、首を斬り落とされた後、目の前の石に噛り付いて、執念を証明してみせろ』」


「あの、何の話をしておられるんですか?」


「で、首を落とされた後、使用人は庭石に噛り付いた。だが、決して化けて出ることは無かった。使用人は選択を誤ったのさ。死ぬ前に考えられることなんてそう多くねえってのに、挑発されて、目の前の石に噛り付くことだけに執念の全てを傾けた。結果、化けて出られなくなった」


 そういうもんさ、と、頭を掻いて雷瑚氏は言った。


「お前が死ぬ時も、何か他の事を強く考えてたんだろうよ」


 私は無言で歩いた。正確に言えば、言葉に詰まっていた。私よりも随分若いと言うのに、雷瑚氏の洞察力には敬服せざるを得ない。……そして、その優しさにも。


「さて、栄絵が事故った横断歩道はもうすぐだ」


 ちらほらと歩道の脇に無断駐輪された自転車が増えてきて、私はあの日のことを思い出していた。忘れ物をした日のこと。アーケード商店街を二分するように走る二車線道路と、そこに備え付けられた横断歩道。白線は所々欠けていて、平日の夕方でも、車も人通りも随分と多かったように思う。植え込みの石垣に張り付くように置かれた無数の自転車も相まって、実に雑然とした場所だ。


「そう言えば」


 ふと思いついて、私は雷瑚氏に尋ねた。


「この体の持ち主――東栄絵さんでしたか。轢き逃げをした犯人は、どうなりました?」

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