第20話 それは武器とも言うけれど

 有楽町線に揺られ、小竹向原駅で降りる。

 初めて来る駅だったので私はきょろきょろしてしまったが、奥村くん……緋人くんは、迷うそぶりなく歩を進めた。慣れた足取りは、まるで自分が住んでいる街のようだ。

 通い婚?


 駅前の整備された歩道から、閑静な住宅街に入り五分ほど歩くと、まもなく私たちは若林くんの家に辿り着いた。二階建てアパートの、一階の角部屋の前で緋人くんは足を止める。


 そのまま家にお邪魔するのかと思いきや。しかし彼は、まず私の腕をとって、おもむろに噛みついた。

 お願い、予告して。びっくりする。


「家に入ってからの方がいいのでは?」

「俺は行かないよ」


 牙を外してからそう答えると、緋人くんは次に、爪でいつものように皮膚を裂いた。真一文字につけられた傷から、つ、と血が滲む。


「ちょっと席を外してくる。三十分したら戻ってくるから」

「なんで?」

「俺がいたんじゃ、紅太はシロに本音で話さない」


 準備を終えて私の腕を離すと、緋人くんは玄関のチャイムを鳴らした。


「一昨日の件で。多分、あいつは少なからず思うところがあっただろうから。血をやった後、話を聞いてやってくれ。

 だけどもし紅太になにかしたら、ただじゃおかないからな」


 それって逆じゃない?

 普通は心配する対象、逆じゃないかな???

 まあ、大天使が滅多なことをするわけはないですけれども。まして病人だし。


 大丈夫だよ、弱ってる若林くんを襲ったり触ったり写真に撮ったりなんてことしないから。私は節度のある変態だから。部屋の空気をはすはすしたりとかも……それはするかも。

 匂いをかぐくらいは役得で許して欲しい。


「頸動脈、切り裂くよ?」


 だから!

 心を!!

 読まないでください!!!

 妄想に自由を!!!!!




 チャイムの音に反応してか、家の中から人の気配がした。それを確認すると、さっきの言葉どおり、緋人くんは若林くんの応答を待たずしてその場から立ち去る。


 ええ……若林くんが出てくるまで、いてくれてもいいのに……。

 一人で待ってるの、緊張するな!?


 そわそわしながら、ドアの前で待っていると。やがてチェーンをしたまま、細くドアが押し開けられた。ちらりと中から覗いたのは、赤い顔をした若林くんだ。


 本日は満月。

 そして彼の姿も、一月ぶりに見る、銀髪に赤い目だった。


 あの時と同じように、呼吸が荒い。とはいえ今は体調が体調である。それが満月の所為なのか、風邪の所為なのかまでは分からなかった。


 とろんとしていた彼の目が、私の姿を認めると、大きく見開かれる。


「望月さん、どうして」


 あれ。

 もしかして話、通ってない?


 ぎゃー! そういうのは勘弁して!

 まるでストーカーみたいじゃん!!

 私が押し掛けたみたいじゃん!!!


「あ、えっと、別にやましいことはなくてですね! ほら、今日は満月だから!

 緋人くんもさっきまでいたんだけど、ちょっと席外すって。三十分くらいしたら戻ってくるって言ってたけど」


 慌てて、しどろもどろに弁解すると。

 若林くんはスウェットのポケットに手を突っ込み、スマホを取り出した。その画面を見て、彼は苦い表情を浮かべる。


「ごめん、さっきまで寝てて。緋人からLINEが五十件くらい来てた」


 待って、件数がおかしい。

 ごじゅ……?

 ごじゅう……?


 私が首をひねっている間に、若林くんはスマホを操作して、緋人くんからの連絡を確認したようで。

 遅れて事情を把握した彼は、申し訳なさそうに両手を合わせた。


「わざわざごめん。こんなところまで来てもらっちゃって」

「ううん、大丈夫だよ。近かったし、気にしないで。

 あの、それよりですね」


 私はおずおずと腕を掲げる。

 さっき緋人くんのつけた傷口からは、当然我々の挨拶を待ってくれることはなく、容赦なく血が滴っていた。


 もったいない!

 そしてこのままでは服まで汚れる!!

 早く飲んでくれ!!!


 それを示した途端。それまで文字通り熱に浮かされていた若林くんの表情が、一変する。

 目には妖しい光が灯り、魅入られたような顔つきで喉を鳴らすと。

 無言で若林くんは、細く空いたドアの隙間から手を伸ばし、私の腕を掴んだ。


「待て待て待って気持ちは分かるけど部屋に入ろう!」

「ごめん、そうだね」


 慌てて制止した声に、若林くんは我に返って手を離した。一旦ドアを閉めると、チェーンを外し、改めて大きくドアを開け放つ。

 開かれたドアから、若林くんの全身が見えたと思うと。ぐい、とびっくりするほど強い力で手を引かれ、家の中に引き込まれた。

 背中で、ばたんとドアの閉まる音がする。けれどもその音を聞くより先に、私の体は既に若林くんの腕の中にあった。


「いただきます……」


 こんな時でも、律儀にそう言うと。

 若林くんは私を抱きかかえたまま、待ちきれないといったように、そのまま玄関先で滴る血を口に運んだ。


 背後から抱えられ、密着したままの体勢で始まってしまい、私は身を固くする。腕をがっちり掴まれて血を吸われているので、身動きが取れない。逃げられそうになかった。

 風邪のせいか、若林くんの身体は熱っぽい。半袖のTシャツにスウェットのズボンという薄い寝間着であることも相まって、彼の体温がかなりダイレクトに伝わってきて、無性に緊張してしまう。


 くっついているので、至近距離から若林くんの匂いが鼻に届いた。寝汗混じりだろうに、妙に色気を感じるその香りに、どうにも酔ってしまいそうだった。

 さっき、部屋の匂いを嗅ぐかもしれないとは思ったけれども、ここまで刺激的なテイスティングは嗅覚も望んでいない。こちらまで熱で沸騰してしまいそうなので、どうにかして欲しい……。


 普段のように、天井を見つめて気を紛らわせようとしたけれど。

 ここは、若林くんの家だ。目に入るもの全てが彼の痕跡まみれの場所で、それは逆効果だった。

 仕方なく、私はぎゅっと目を閉じた。






 いつもよりずっと長く感じた吸血の時間が終わると。私も何故かぜいぜいと息をついて、ようやく部屋の中にあがらせてもらう。

 玄関ホールを兼ねたキッチン設備のある部屋を過ぎ、テーブルとベッドのある奥の部屋に足を踏み入れたところで。


 ぐらりと、視界が揺れた。


「ひあっ」


 急に脱力してしまい、間抜けな声を上げて、私は膝を折る。


 ああ。これは、多分。

 少々、血を、抜きすぎたみたいだ。


 床に倒れ込むかと思ったけれど、その前に若林くんに抱きとめられた。が、そのまま二人とも、ずるりと崩れるように床の上へ座り込んでしまう。

 考えてみれば、彼は彼で、三十八度の熱があるのだ。私を支える力がなかったのだろう。


「ごめん。飲みすぎた。大丈夫?」

「へーきへーき。ちょっと休めば、治るから」


 とはいえ、目の前が白くちかちかして、そのまま頭を上げているのがつらい。たまらず頭を下げると、ちょうど若林くんの肩に頭を乗せる形になる。


 ああ。悪いなぁ。

 でも、ちょっと今は、身体を起こす元気はない。しばらくこうさせてもらおう。


 若林くんの方も、私なんかを支えてしまったせいで消耗してしまったのか。彼もまた、自分の頭を私の肩に預けた。

 一緒に座り込んだまま、申し訳なさそうに呟く。


「ごめん。お茶でも、淹れるべきなんだろうけど」

「いえ、おかまいなく」


 お互いに、お互いの体重を預けた状態で。

 朦朧としたまま、二人でくっついている。

 なんだか、とても心地がいい。


「ごめん。風邪、感染うつっちゃうね」

「大丈夫だよ。私、バカだから。それに、感染うつして治るなら、むしろそうしてよ」

「んー。嫌だ、やめとく」

「えー元気になってよー」

「やだよ。迷信じゃん、それ」


 弱った者同士、まるで知能指数の低いやりとりをした。実際この時、思考は上手く働いていなかったのだろう。

 もし正気だったら、とても恥ずかしくて耐えられたと思えない。

 だけど、ぼんやりしている私は、無敵だった。



 そうして軽く笑い合ってから。


「来てくれ、たんだね」

「……うん」


 若林くんに静かに問われ。

 私も、一言だけそう答える。


 まだ、自分の中で結論が出ていないのに、滅多なことは言えない。

 そういう歯止めをかけるだけの思考力はあった。


 耳元で、空気が震える。

 若林くんが、ふっと軽く笑ったようだった。


「もう。二度と、会ってもらえないと思ってた」

「どうして?」

「だって。僕たちは普通の人間にとって、――化物だから」


 その言葉に、途端に私は霧が晴れたように意識がはっきりとして、はっと顔を上げた。

 すると。


 目の前にいる若林くんの双眸からは。

 透明な液体が、ぽろぽろと零れ落ちていた。


 それが、涙だ、ということに気付くまで。私は、数秒かかった。

 冗談みたいにはらはらと滴る涙が、あまりに綺麗で、すぐに気付くことができなかったのだ。

 真っ直ぐに私を見つめたまま、若林くんはその血のように赤い目から、絶え間なく雫を落とし続けていた。



 泡を食って、私はおろおろと手を彷徨わせる。


「ど、どうしたの!? 私、なにか変なこと」

「違う。違うんだ。逆なんだよ」


 震える声で、彼は首を横に振る。どうにか涙を止めようと必死になっているようだったが、涙腺がいうことをきかないようだった。

 手の甲で涙を拭い、嗚咽混じりに若林くんは言う。



「怖かったんだ」



 馬鹿みたいに挙動不審な私の手を、すがるように握ると。

 まるで祈るみたいな姿勢で、彼は私の手を自分の額につけた。


「怖かった。本当は、最初から、凄く怖かった。

 こんな姿を見られて。気味悪がられて、また嫌われてしまうんじゃないかって。

 だから。僕の正体を知っても、望月さんが、僕を普通の人間みたいに扱ってくれたことが。本当に、本当に、すごく嬉しかったんだ。だけど」


 一旦、言葉を切って。

 若林くんはじっと目を閉じて、消え入りそうな声で囁いた。



「桜間からあの話を、俺たちの化物みたいな部分の話を聞いてしまったら。

 望月さんに、恐怖や蔑みの目を向けられるかもしれないってことが。

 僕は、たまらなく怖くて仕方なかったんだ」



 きっと、勇気を振り絞るようにして告げてくれた、彼の言葉に。

 私は、すとんと、自分の中で全部が腑に落ちた気がした。


 簡単なことだった。

 性癖とか、やらかさないか心配とか、健康のためとか、そんな理由じゃない。

 まだ付き合いが浅いとか、ただの血の提供者に過ぎないとか、御託じゃない。




 環のことが大好きなように。

 若林くんのことだって、もう私にとって、充分すぎるくらいに大切な存在になっていたのだ。




「化け物なんかじゃない」


 今度は私が彼の手を両手で握りしめ。

 真っ直ぐに、彼の綺麗な瞳を見つめた。


「他の誰が何を言ったって。私は、若林くんの味方だよ。大事な大事な私の友だちだ。

 他の誰かに強制されて、引き離される筋合いはない」


 私の答えに。

 目に涙を溜めたまま、若林くんは弱々しく微笑んだ。


「分かってはいるんだ。桜間に言われたとおりだ」


 空いた方の手で、若林くんは割れものを扱うみたいに、そっと私の頬に触れた。


「この優しさを向けてくれるのは、僕に対してだけじゃないってことは。

 君の隣は。僕みたいな異端な奴にとって、居心地が良すぎる」

「違う。私は若林くんだから大切なの。

 環だって大事だけど、私には若林くんだってすごくすごく大切なんだよ」

「……敵わないや」


 困ったように笑って。

 ようやく涙の止まったらしい若林くんは、すっかり涙の跡がついてしまった頬をぬぐった。


「ねえ、望月さん。一つだけ、わがままを言ってもいいかな」


 一度、迷うように口を開け閉めしてから。

 彼はその唇を、微かに震わせた。




「行かないで」




 なにかを恐れるように目を伏せて、彼は私のブラウスの裾を、ぎゅっと握りしめる。

 

「前に言ったことと、矛盾してることは分かってる。巻き込みたくないって気持ちも、本当なんだ。それでも。

 お願いだ。僕から離れて行かないで。どうか、一緒にいて」

「行かないよ」


 握る手に力を込めて、私はにこやかに笑う。


「大事な友だちを、放って離れて行くことなんかできないもの。

 そうでしょう?」


 私の答えに。

 若林くんは、それこそ天使みたいに、美しい微笑みを浮かべてみせた。




******




 自分のアパートに帰宅してから、バッグを床に放り出し、スマホを手に取る。座ることすらもどかしく、立ったまま環に電話をかけた。

 数コールの後、環は電話に出る。

 意を決して、私は大きく息を吸い込んだ。


「私の、友だちなの」

『白香。いきなり何を』

「若林くんも、私の友だちなの!」


 叫ぶようにして、そう言ってから。

 一息に、私は環へ告げる。


「環のことは大事だ。でも、若林くんのことだって放っておけない。環と同じように、若林くんのことも大事だから。

 だから、あの二人と縁を切ることは、できない」

『そっ、か』


 電話の向こうから。諦めと、笑い混じりのため息が聞こえる。


『そんな気はしてた。お前はそういう奴だよ』

「ごめんね、環。私、」

『謝るなよ。それがお前の出した結論なんだろ。お前の答えは尊重する。だけど』


 息を吸う気配がして。

 環は、強い口調で告げる。


『俺は、諦めないからな。

 お前の隣にいることも、お前を吸血鬼の野郎から守ることも諦めない。お前が二人の側にいることを選んだとしても、俺はこれからも変わらずお前の側にいたい。

 それでも、いいか』

「もちろん、だよ」


 今度は私が泣き出してしまいそうだった。

 だけどそうしたら、きっと環は困ってしまうから、必死に堪える。


 しばらく、電話口には沈黙が流れた。

 やがて。ぽつりと、独り言のように環は呟く。


『白香。今すぐお前に会いたいよ』

「あ、じゃあ行く!? オールでカラオケでもする!? 今ならまだ電車あるし!」

『バカ野郎。来たら怒るぞ』

「え、なんで?」

『お前のそういうところが。本当に、放っておけないんだ。俺は、』


 いつものように、間抜けな私をたしなめるように、環は言う。




『俺は。白香の親友だからな』









 こうして、私は。

 大切で大好きでかけがえのない、桜間環の親友に戻った。

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