第52話 ヤバい人の「やばい」はめっちゃヤバい
それは試験期間も中盤にさしかかった、ある日のことだった。
「やばい」
一旦、サークル部屋から退席していた
きょとんとして、私たち二人は顔を上げる。
私たちは一時間後に控える試験に備え、サークル部屋で教科書とノートを広げているところだった。
さっきまでは他にも先輩たちがいたけれど、一足早く試験に行ってしまったので、ここにいるのは私たち三人だけだ。
うちの大学は、法律学科だけでも一学年五百人以上いるマンモス校だ。なので必修の授業は、前半クラスと後半クラスで取る授業が分かれている。人数が多くなりすぎてしまうからだ。
よって、後半クラスである環と蒼兄、そして藍ちゃんは、今回のテストは不在である。教授が違うのだ。彼らはレポートと授業内のテストで、既に試験は終わっているらしい。羨ましい。
それはさておき。
戻ってきた緋人くんは、額から汗を流していた。確かに今日は、ひとたび外に出れば凶悪な暑さだけれど、この短時間に室内でそう汗をかくことはないはずだ。廊下にだってエアコンが効いている。
不思議そうに相方を眺め、紅太くんが首を傾げる。
「どうしたんだよ緋人」
「アリスにバレた」
法律用語を詰め込んでいたところに、突如ファンシーな単語が飛び込み、私は混乱した。
脳内で三月ウサギがラッパを吹き鳴らしながら、ハンプティ・ダンプティがダンスを始める。
あぁ、やめてくれ……せっかく構成要件を整理したところなのに……。
私の脳内でメルヘン劇場が開幕してしまった一方。
しかしそのラブリーな単語で、紅太くんは何かを理解したようだった。
「マジか。口止めしてたはずだろ」
「それをかいくぐるのがあいつだろ。ちくしょう、思ったより早い」
早口で言いながら、緋人くんは自分の荷物と、勝手に紅太くんの荷物もまとめ、紅太くんの腕をつかんで立ち上がらせた。
「ここも嗅ぎつかれた。もうすぐ来る。逃げるぞ」
またもや手短にそう言うと。
紅太くんを強引に引っ張り、彼らは瞬く間に窓から姿を消した。
喧噪が去り、嘘のように室内が静まりかえる。
一人取り残された私は、しばし呆然とした。
数秒のタイムラグの後。開け放たれた窓から、むわりとした熱気が私の肌を包んでから。
「えぇ……」
ようやく私は我に返った。
思わず声も出ようものだ。
なんだったんだ……?
何が何やら分からんぞ……?
ていうかここ二階だけど、いろいろ大丈夫?
二階から逃げ出したことそのものは、あの二人なら身体的には大丈夫そうだけど、外から見られてない??
社会的に大丈夫???
まあ、その辺はきっと緋人くんのことだから抜かりはないんだろうけど。もしくはそのリスクを犯しても、逃げ出さなければならない程の相手ってことなんだろう。
にしても。話しぶりからすると、アリスっていうのは特定の人を差してるみたいだったけど。あの二人が脱兎の如く逃げるなんて一体どんな相手よ。
…………。
……あの二人が逃げ出す相手。
リスクを犯しても、逃げ出さなければならない程の相手?
何者をも恐れぬ緋人様と、実はその彼を大きく上回る力を持つ吸血鬼の紅太くんが、何をさておいても逃げ出す相手……。
私、逃げた方がよくないか?
相手の正体を知らないながらに冷や汗が流れて、私はがたりと椅子から立ち上がる。
私を!
置いていかないでくれ!!
いや私は別に関係ないことだから平気ってやつなのかもしれないけどさぁ!!!
それにしたって怖いじゃない!!!!
せめてちょっとやそっと説明して!!!!!
しかし時は既に遅し。
教室のドアからノック音がして、私はびくりと肩を跳ねさせた。ギギギ、と油の切れたブリキ人形のように、ぎこちなくそちらに顔を向ける。いや今時、油の切れたブリキ人形なんざ見たことないですけれども。
でもあれだ。先輩か同輩か、サークルの誰かかもしれないし、と気を取り直して首をぶんぶんと横に振ったのもつかの間。
「失礼いたします」
私の淡い期待を見事に打ち破り、遠慮がちに部屋へ響いたのは、見ず知らずの人物の声だった。
けれども。
私の想像に反して、扉の影から姿を現したのは、小柄な体躯の大変に可憐な女の子だった。
楚々としたコットン素材の白いブラウスに、同じくコットンのネイビーのロングスカート。冷房対策だろうか、肩には白いレース編みのショールを羽織っている。肩からは革製の可愛らしいポシェットを提げ、小脇には布張りの本を抱えていた。
彼女自身もその装いにしっくりくる、白い肌に赤い唇だ。おまけに髪は、くるくると丁寧に巻かれた、肩より少し長い黒髪ときている。
森の中で肩にリスを乗せているのが非常によく似合いそうである。
白雪姫かな???
なんというか、文学少女という呼称がすこぶる似合いそうなお嬢さんだ。
……あれ?
なんかの間違いかな?
緋人くんの言ってた件とは、無関係な人かな?
「あの。こちら、国際法研究会のお部屋で、合ってますか?」
「はい、そうですけど」
もしかしたら入会希望の人か、サークル員の誰かに用事かな、とまたもや気を取り直しかけた矢先。
「こちらに、若林紅太さんと奥村緋人さんはいらっしゃいますか?」
……やっぱりこの子が、彼らが危惧した人物のようだった。
聞かれたものの、ああやって二人が逃げ出した手前、正直に彼らの動向を答えるのは憚られて「ええっと、今はいないみたいですね」と無難に答える。嘘ではない。
答えた後で、サークルに所属してることも認めない方がよかっただろうかと思ったが、……まあいっか。サークルにいることはバレてるっぽいし。私以外の誰かに聞いてもどのみちバレちゃうし。
私の答えに「そうですか」と少しだけ気落ちした様子で、唇に指をあててうーんと考え込んでいたが。(なにそれ超絵になるんだけどめっちゃ可愛い撫で回したい……。)
やがて彼女は顔を上げ、真っ直ぐ私に向き直った。
「申し遅れました。
私。
やだ、名前まで可愛い。
存在全体がメルヘン過ぎる。
ぬいぐるみと甘いお菓子と紅茶を与えて写真撮影しながら、存分に愛で回したい。
苗字が有栖川だ。きっと緋人くんの言っていたアリスっていうのは、この子のことで間違いないのだろう。
だけど、一体なんでこの子から逃げる必要が?
などと、暢気なことを考えていた私だったが。
次に続く彼女の言葉に、今学期一番の盛大なフリーズをすることになる。
「私。若林紅太さんの許嫁です」
い。
……い?
……………。
……いいなずけ?
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