名前


「皇后陛下、今がいいところです。下がっていてはいただけないでしょうか」


 俺の心がハリケーンを食らったようにかき乱される中、男は冷静だった。


「ご安心を。賊に関しては私に」

「全く安心できません!」


 彼女は駆け足で近づいて、男に詰め寄る。


「焦って走るものではないでしょう。皇帝に選ばれた者であるのなら、おしとやかに過ごせないものですか」

「これでも努力はしているのです」


 いままで場を満たしていた冷たい空気が、彼女の登場で吹き飛んだ。

 だが、どうだろう、この状況は。

 この男、皇后に対して口出しするとか、相当な度胸があると見た。


 ん? 皇后?

 彼女が?

 この見た目で?


 確かに不思議ではないんだけど、王女とか皇女って雰囲気があったんだよな。皇后となると響きが重いな。彼女には似合わないような感じがした。


「失礼しました」


 少女はあらたまって、こちらを向く。そして、自然な動作でお辞儀をした。


「わたくしを探していらしたのでしょう?」

「そうだけど」


 なんで知ってるんだ?


「彼女――リンから聞きました」

「リンって?」


 響きからして、女っぽいけど。


「図書館にいたです」

「あー」


 あいつか。

 髪を短く切りそろえた女の姿を思い浮かべる。だが、彼女がどうしたというのだろうか。


「彼女は言いました。『図書館を出た後、目的もなくウロウロとしているうちに皇后の姿を見つけ、その姿を追って宮内を動き回る』と。ムダを省くためにも、早々に姿を表すべきだとも、おっしゃっていました」

「エスパーかよ」


 どんだけ先読みしてたんだよ、あの女。

 ああ、だいたい合ってるよ。


「皇后、よろしいので? かような人物に気を許して」


 なおも男はこちらに凍てつくような視線を向けてくる。


ツァンフーは黙っていてください。わたくしなら大丈夫ですから」


 手を出す気はないから安心してくれ。こっそりと見守るだけにするから。

 それはそれで気持ちが悪い。どうあがいても詰みじゃねぇか。どうしよう……。


 そんなことを思っていると、彼女がそっとこちらに近寄る。


「わたくしを探していると聞きましたが、なんのご用事なのでしょうか」

「用事っつってもな……」


 なんのために探してたんだっけ? 実は用事はないんだよな。

 ただ、それを言っちまうと、わざわざ出向いてくれた彼女に申し訳がない。だから正直なことは言えなかった。


「その……案内とか、してほしくて」


 苦し紛れに繰り出した答えがこれだ。これにはツァンフーとかいう男も、あきれ顔だ。

 別の言い方にすりゃあ、よかった。後悔する中、少女は目を輝かせる。


「まあ、わたくしを頼っていただけるのですね?」

「え? ああ、そんなところだけど」


 とんだ食い付きを見せた。

 まさか、信じるのか? 俺の言葉を。

 別にこの王都の案内とか必要としてねぇし、一日ゴロゴロと過ごすだけだから問題はねぇんだけど。


「喜んでお付き合いします。最初にどこを回りましょうか?」

「もう? 早くね?」

「なにをおっしゃるのですか? あなたですよ、案内を申し込んだのは」


 彼女はもうキラキラと顔を輝かせている。まるで自分が誰かの役に立てるのが嬉しくてたまらない様子だ。いや、まさしくその通りなのだろう。


 だが、俺としちゃ、反応に困る。なにより、申し訳ない。

 もっとも、今さら断るほうがおかしいし、彼女の期待を裏切る結果にもなる。


 ため息をついたツァンフーを尻目に、俺も心の中でため息をつく。


「ああ、いけない。わたくしとしたことが自己紹介を忘れていました」


 思い出したように彼女が言う。


「わたくし、フォン美華メイファといいます。気軽に下の名で呼んでください」

「ああ、俺は」


 自己紹介を返そうとしたとき、急に少女がこちらへ手を伸ばす。


「待ってください」

「なんですか?」


 悪いこととか、言うつもりはねぇよ。

 納得のいかなさを噛み締めていると、彼女は桃色の唇を動かす。


「この国では『この国での読み・・』を用いてください」

「なんで?」


 意味が分からず、目をパチクリとさせる。


「ルールなのです」

「んなこと言ったってな……」

「難しいのであれば、わたくしが読みを決めます。その通りに言っていただければ」


 美華メイファと名乗った少女が紙と筆を渡してきた。俺も受け取って、書き込む。


「名字は伏目。名前は小介だけど」

「まあ、そのような」


 俺の名を書いて伝えた途端、彼女は急に表情を明るくした。彼女の反応の意味がよく分からず、俺は眉をハの字に曲げた。


 いい機会だ。改名しよう。

 今の名前は好きじゃねぇんだ。かっこよくてクールな名前がいい。こう……中二心をくすぐらせるような。

 ああ、そういう名前を提示すればよかったな。今さらながら後悔する。


「そうですね。フー小介シァォジェというのは、いかがでしょう」

「あー、案外変じゃなかった」


 もっとカオスな読みになると思ったけど、割とまともだったな。ただし発音は聞き直したくなるし、自己紹介では誤って自分のところの読みを伝えちまいそうだ。こういうところはいつまで経っても慣れねぇだろうな。


「では皇后陛下、私はこれで。ここから先は痛い目を見て、学習していってください」

「だから悪いようにはしねぇっつってんだろ」


 んなこと、恐ろしくてできねぇよ。

 もっとも、俺の叫びは届いていない。ツァンフーはスタスタと去っていった。


「これで二人切りになりましたね」


 お、おう。

 彼女の口からそんな言葉が飛び出すと、変な気持ちになるな。俺は指先で頬をかく。


「では、行きましょう」

「まずは入り口から?」

「ええ、そこまで行きましょう」


 結局、俺は彼女に従って入り口まで戻ってくることになった。

 かくしてフォン美華メイファによる案内が始まる。俺は逃げ切れず、彼女についていくことになるのだった。

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