第208話 婚約者

「どう? このレストラン海鮮料理が有名でね。特に、この真鯛のポアレは絶品で……」


「知ってます。ここは父の所有するレストランですから」


 ナイフで小さく切り分けた真鯛の身を、姫乃はフォークで淡々と口の中に運ぶ。

 緋彩が姫乃を連れて来たのは、駅からほど近い場所にある高級ホテルだった。

 その展望フロアに店を構えるフレンチ料理専門のレストランである。

 先に姫乃が述べたように、ここも紅神の所有するビルであり、姫乃にとっては殊更珍しい場所でもなかった。


「なぁんだ。折角下調べして来たのに」


「料理の蘊蓄うんちくをひけらかしたいのであれば、他を当たって下さい。私は特に興味はないので」


「ふふ……本当に手厳しいな。少しは婚約者フィアンセに可愛らしいところでも見せてくれればいいのに。陛下に見せるみたいな」


 料理を切っていた姫乃の手がピタリと止まる。

 ずっと愛想のない顔をしていた姫乃だったが、緋彩の一言に明らかに気分を害したように眉間に皺を寄せた。


「……なぜそこで暁のことが出てくるんです?」


「何で亞咬さんが俺を君の婚約者にしたか分かるかい?」


「それは、父の目的と貴方の目的が一致したからでしょう? 私は所詮そのための交渉材料でしかない」


「確かに、君の言う通り亞咬さんは『黒耀色の魔王』の仇である『黒い目』の情報を欲して俺にコンタクトを取った。その過程で、俺は『黒い目』を追うための更なる力として、『紅神』の名と『魔王の配下ヴァーサル』の地位を欲した。つまり利害の一致があった。それは認めよう。だけど、それだけじゃないんだ」


「どういう意味です?」


「亞咬さんは君の気持ちをよく知ってるということさ。『魔王』と『背信の裁き手』……絶対に結ばれることはない二本糸。まるで『ロミオとジュリエット』だ。さぞ……今まで辛かったろう」


 緋彩の言葉を聞いた瞬間、姫乃は拳を握って思わず立ち上がる。

 自分の心の内を晒け出されたばかりか、わかった風な同情的な慰めの言葉。

 姫乃の神経を逆撫でし、怒りを買うには十分だった。

 姫乃は震える手で拳を握り、唇を噛んで緋彩を睨みつける。

 しかし、緋彩は至って冷静に、落ち着いた様子で姫乃を見つめていた。

 あまりに静かな緋彩の視線と周囲の客の奇異の視線に、我に帰った姫乃は大人しく席に座り直す。

 座り直し、姫乃は項垂れて強く自分を責めた。

 また、自分はやってしまった。

 昼間のことを散々悔やんでおきながら、この体たらく。

 自分の愚かさにほとほと呆れ、怒りを超えて悲しくすらある。

 そんな姫乃が冷静さを欠いたことを自己嫌悪している姿を見て、緋彩は目を細める。

 まるで喜んでいるかのような緋彩の表情に、姫乃は不快を隠さずまた睨みつけた。


「……何ですか。そんなに私が取り乱した姿が滑稽ですか?」


「いやいや。可愛らしいなと思ってね。やはり、間違いない」


「……?」


「初めは、亞咬さんに頼まれて君の婚約者になった。勿論、俺自身の打算が有りもした。でも、既にその時からかな。君のことに興味を持ったのは」


「何が言いたいんですか?」


「君はとても魅力的な女性だ。容姿は勿論のこと、今回のような愛する人のために滅私奉公するその……一途さといじらしさも……ね」


「いじっ……!?」


「だから、いつしか本気で思うようになっていたんだ……君を本当にモノにしたい……ってね」


「っ……!!」


 緋彩は前にいる姫乃の頬に手を伸ばし、優しく触れる。

 しかし、姫乃はその手を払いのけ、変わらず緋彩を睨んだ。

 明らかに自分を拒絶する姫乃の態度に、緋彩は何故か嬉しそうな笑みを浮かべた。


「本当に可愛いなぁ……素敵だ……」


 その笑みを見て、姫乃の背筋が凍りつく。

 何故だか理由は分からない。

 見た目は先ほどまで緋彩が浮かべていた笑みと何ら変わらない。

 しかし、今の笑みの根底には何か別の、今まで感じたことのないどす黒いモノが潜んでいた。

 固まり、動けなくなった姫乃を見て、緋彩は一瞬ハッとした表情をする。

 だが、すぐにいつも通りの笑みを浮かべ、払われた手を擦った。

 ようやく体の硬直が解けた姫乃は慌てて席を立った。


「すいません……気分が優れないので今日はもう帰ります」


「そうかい? それじゃあ、送るよ」


「結構です! 一人で……帰れます」


「そう? じゃあ、気を付けて」


 意外なほどあっさりと緋彩が帰ることを了承したことに、若干の違和感を感じつつも、姫乃は足早にレストランを後にする。

 去っていく姫乃の後ろ姿を黙って見送った緋彩は、姫乃の姿が見えなくなると、真紅のネクタイを緩めて、「フゥッ……」と一息ついた。


「いかんいかん……つい抑えが効かなくなるなぁ。悪い癖だ」


 緋彩はテーブルの上の握られた自分の右手をゆっくり開く。

 そこには、小指の先にも満たないほど小さな種が一つ、転がっていた。


「バレちゃったかな……バレただろうなぁ……あの様子だと。まぁ、多分大丈夫だろう」


 緋彩は、手の中の種を人差し指と親指の先でいじる。

 しばらく種をいじっていた緋彩だったが、突然その種を指で弾き、空中高く放る。

 そして、落ちてきた種をキャッチして再び右手の中に収めると、緋彩の指の間から、真紅の枝がゆっくりと顔を出し、大きな蕾をつけたかと思うと、あっという間に薔薇に似た大きな花を開かせた。


「『花』が開く時間は十分にある……十分にね」


 大きく咲き開いた真紅の花を見て、緋彩は嬉しそうに口角を吊り上げる。

 その歪んだ目の奥には、先ほど姫乃が感じた得体の知れないどす黒いが確かに潜んでいた。

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