第192話 三日後、早朝

 薄明の下、ようやく草木も眠りから覚める。

 草木だけではない。

 どこか遠くから、蝉が忙しなく鳴く声が聞こえ、今日も一日茹だるような暑さになることを告げていた。

 三日前の夕暮れ、暁と言葉を交わした公園で、姫乃はそんな蝉の声を聞いていた。

 まだ早朝だというのに、姫乃の顎筋を汗の滴がなぞる。

 暑さでではない。

 言い表せぬ緊張感が、姫乃に大量の汗を流していた。

 その汗の原因が、目の前にいる男であることは自明のことだった。


「お父様…………」


「…………準備はできたか?」


 重く冷たい鉛のような父の声に、姫乃の喉が酷く渇く。

 姫乃は唾を飲み込み喉を潤し、むせそうになるのを辛うじて堪えた。


「…………はいっ!」


「よし。いくら人払いをしているとはいえ、いつ人が来るか分からない。始めるぞ」


 亞咬が拍子を打つと、周囲に留まっていた野鳥が一斉に飛び立つ。

 それが、姫乃にとって開始の合図だった。



 ※



「ふわあぁぁ…………」


 大きな欠伸をしながら、のったりとした動作で暁が食堂に顔を出す。

 テーブルの上の食器を下げていたムクロは、顔を上げて暁に会釈をした。


「おはようございます。今日はお早いお目覚めで」


「うーん……ていうかほとんど寝てない。ちょっと考え事しててね」


「亞咬様と萌葱様のことですか?」


「まぁね。何かしら対応しなくちゃならないんだけど、どうすべきかまとまらなくて。かといって、いつまでも保留にしとく訳にはいかないでしょ」


「そうですね。しかし、些か不思議ではありますな」


「不思議?」


「亞咬様が、あの訪問以来何の連絡をされてこないことがです。あの方なら、毎日圧力をかけてきても何らおかしくないはずです。前魔王、総司様のことが関わるとなれば尚更…………」


「それは僕も思った。でも、あちらから動きがないなら、こちらが騒ぎ立てる必要もないだろ。油断はできないけどね」


「同感です」


 ムクロは、暁の前に湯気の立つコーヒーをソッと置く。

 暁は、呼気で湯気を軽く飛ばすと、ゆっくりカップの縁に口をつける。

 かなり濃く淹れられたコーヒーに、暁は一瞬眉根を寄せるが、徹夜明けの頭と体にすぐコーヒーの温もりが浸透する。

 おかげでぼんやりとしていた頭が目を覚まし、ホッと小さく息を吐いた。

 頭の中がはっきりとしてきたおかげか、暁はムクロが下げようとしていた食器たちの存在に気づく。

 食べかけのトマトサンドに、飲み痕のついたスープカップ。

 どうやら、先客がいたらしい。


「もう誰か起きてたのかい?」


「む?」


「いや、今日は僕が一番乗りだろうと思ってたからさ。僕より先に起きてきた人がいるんだなぁと」


「はい、姫乃様がですね。日も明けぬうちから。何か「用事がある」と仰っていましたが…………」


「姫ちゃんが?」


 暁は首を傾げる。

 今日は確か生徒会の仕事もなかったはずだ。

 例え仕事があったとしても、こんな朝早くに出掛けるというのも変な話だ。

 姫乃は重度の低血圧である。

 用事があるにしても、極力早朝は避けるはずだが…………。


「その事で暁様に一つ報告があります」


「報告?」


 考えを巡らせていた暁の思考が、ムクロの言葉で一時停止する。

 白骨で眼球のないムクロではあるが、その目に位置するうろの中には、確かな憂いが見てとれた。


「実は、姫乃様から外出することは皆さんに言わないように口止めされていたのです」


「口止め? 何でまた?」


「それは私めには分かりかねますが、何かしら事情があるようでした」


「で、ムクロはよかったの? 口止めされてたのに、僕に話しても」


「…………私も、今朝外出しようとする姫乃様を見つけたのは、偶々でした。その時の様子がどうしても引っ掛かるのです」


「どんな様子だったの?」


 ムクロは口に手を当てる。

 不穏を察知した時に出る、ムクロの癖のような動作だ。


「思い詰めたような……それでいて寂しげな顔をしていました……」


「…………」


「まるで…………どこか遠くに行ってしまうような…………行こうとしているような印象でした。私も見ていられず、せめて朝食だけでもと引き留めたのですが…………まともに口にされないまま出て行かれたので…………」


 そこまで聞いた暁は、急に音を立てて椅子から立ち上がる。

 そして、すぐにムクロの方に視線を向けた。


「ムクロ、よく話してくれた。姫ちゃんの行き先は……?」


 ムクロは首を横に振る。

「だろうな」と暁は小さくぼやくと、食堂の大扉を開け放ち、急いで食堂を飛び出した。


「あの嘘つきが……!」


 暁は居もしない姫乃に向かって悪態をつく。

 三日前、公園で尋ねた時、姫乃は暁に何も話さなかった。

 その時から、既に今日のことを考えていたのだろう。

 自分一人で、この一件に決着をつけようと。


(間に合うか? 手遅れになる前に姫乃を見つけないと…………!)


 暁は急いで、他の臣下たちを起こしに行く。

 今は、とにかく姫乃を探すための人手が欲しい。

 いつになく、暁に余裕がなかった。

 急がなくては、取り返しのつかないことになる。

 そんな予感が、暁を激しく急き立てるのだった。

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