第174話 どうして……?

「ふぅ……夏とはいえやはり濡れると冷えるな……」


「…………」


「暁?」


「え…………?」


「大丈夫か? さっきからいやに静かだが…………」


「いや……大丈夫だよ」


「…………」


 二人がこの地下水脈に入って三十分ほどが経過した。

 姫乃は冷える体を擦りながら、ずっと背を向けて黙っている暁に首を傾げる。

 さっきまでは普通に話していたのに、今は明らかに様子がおかしい。

 心なしか、少し震えているようにも見える。

 何より姫乃が違和感を感じたのは、二人の距離感だった。

 今暁は、姫乃から二メートル近く離れたところでうずくまっている。

 そこは僅かにある陸地の端ギリギリで、下手をすれば落ちてしまいそうなほどだ。

 何故か、自分は避けられている。

 二人の間の距離は、姫乃にそう気づかせるのに十分なほど離れていた。


「なぁ暁……何でお前はそんなに離れてるんだ? 落ちてしまうぞ?」


「…………ここが落ち着くんだ。気にしないでくれ…………」


「落ち着くって…………それに様子がおかしいぞ? どこか具合が悪いんじゃないか?」


 そう言いながら姫乃は近づき、暁の肩に触れようと手を伸ばす。

 すると、暁はその手が自分の肩に触れる前に払いのける。

 手を払われ、驚く姫乃から顔を背けたまま、暁は震えながら声を絞り出した。


「頼むっ……本当に何でもないんだ……頼むから放っておいてくれっ…………!」


「暁…………」


 姫乃は、払われた右手を悲しげに見つめる。

 理由はわからない。

 わからないが、少なくとも暁は今自分と距離を置きたがっている。

 暁からここまではっきりとした拒絶を示されたのは初めてのことだった。

 初めてのこと故に、姫乃もどうしたらいいのかわからなかった。


「っ…………!」


 姫乃は滲んできた涙を慌てて拭う。

 今日は一日、色んなことがあった。

 見たくないもの、知りたくないものを含めて、多くのことがあった。

 そのせいで、今の自分の心が揺らぎやすくなっている自覚はある。

 しかし、まさかこれほどまでに些細なことで心を乱すとは。

 何をこれしきのことで涙ぐんでいるのかと、姫乃は自らを恥じた。

 そんな姫乃の様子に気づいたのか、暁は「しまった」という様子で慌てて振り向く。


「ごめっ…………あ…………」


 振り向いた暁の瞳と、涙ぐみ潤んだ姫乃の瞳が重なる。

 その瞬間、暁の頭の中は真っ白になった。


「あっ…………ああ…………ああぁぁっ!!」


「暁……? きゃあっ!!?」


 姫乃は短く、悲鳴を上げる。

 一瞬、自分の身に何が行ったのか、姫乃にはわからなかった。

 気づけば、目の前に暁の顔がある。

 両手はきつく押さえつけられ、仰向けになった姫乃に暁が覆い被さっているような状態になっていた。

 自分が暁に押し倒されたのだと、姫乃が気づいたのはそのすぐ後のことだった。


「あ…………暁?」


 姫乃は怯えた様子で暁を見る。

 息が荒く、目の焦点が定まっていない。

 そして、その瞳は怪しいマゼンタの光を宿していた。


「どうしたんだ暁? やはり様子がおかしい…………」


「姫……ちゃんっ……ごめ………ん………!」


「えっ…………んむっ!?」


 姫乃の瞳が大きく見開く。

 気がつけば、暁の唇と自分の唇が重なっているではないか。

 突然のことに、姫乃は全身を固く強張らせ、ただされるがままになる。

 その間にも、暁の口づけはさらに深くなっていく。


「んっ……んっ…………!」


 動揺しながらも若干我に帰った姫乃が逃れようと身動ぎをする。

 しかし、暁は逃すまいと姫乃の手を強く握りしめていた。

 そんなやり取りをしばらくしていると、暁が静かに唇を離す。

 あまりに激しく唇を奪われたためか、唇が離れた後も一筋の糸が二人を繋いでいた。

 まだ惚けた様子の姫乃は、潤んだ瞳で暁を見つめた。


「暁……どう……して…………?」


 暁は、もう何も答えない。

 答える代わりに、暁は姫乃の胸ぐらを掴むと、力任せに引っ張った。


「きゃああぁぁぁっっ!!」


 姫乃の悲鳴と、衣服を裂く音が地下水脈に響き渡る。

 しかし、すぐにその二つの音は、激しく流れる水の音に掻き消されてしまった。

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