第158話 見てるよ
日が沈み夕食刻。
皆が食堂のテーブルにつき始める中、ただ一つ暁の席だけは座る者が不在のままであった。
余程仕事が大変であるらしい。
姫乃自身、あの執務室の状態と書類の量を見ればそれも納得できる。
夏休みも残り半分程。
それまでに後回しにしたデスクワークをある程度片付けなければいけない。
それはいくら暁でも食事の時間を削らなければならないくらい重労働なのだ。
「暁様を待っていても仕方ないので、こちらは先にいただきましょう。暁様も『自分のことは気にしないでくれ』と仰っていましたし」
ムクロの言葉に、それぞれが多少の躊躇は有れど、食前の挨拶を済ませ、各々夕食を摂り始める。
今晩のメニューは白身魚の香草焼きだ。
淡白な白身魚に、ムクロ自家製のハーブの香りと風味が加わり、優しく穏やかな味わいを作り出している。
ムクロの味付けは今晩も絶品であった。
しかし、そんな味わい深さも、今の姫乃には上滑りしていく。
姫乃は横目で斜め前にいるイヴに視線を向ける。
イヴは無表情のまま、目の前に並べられた皿を凄い速さで次々と空けていく。
イヴもふらん同様、肉体の維持に相当なエネルギーを要するようだ。
灰魔館のエンゲル係数が日々とてつもないことになっていっているのはまた別の話である。
「…………なんだ?」
「えっ…………?」
「さっきから私をずっと見ている。それは私に何か用があるからではないのか?」
イヴはずっと目の前の食事に視線を注いだまま、姫乃に問いかける。
イヴが自分からの視線に気づいた素振りも見せていなかったため、姫乃はイヴからの問いかけに面食らってしまった。
「いや……よく食べるなと思ってな…………」
「我々
「要するに……『美味しくて、手が止まらない』ということか?」
「そう解釈してくれて構わない」
会話を続けながらも、イヴのナイフとフォークを操る手の動きは止まらない。
イヴ自身が述べたように、本当に気に入っているのだろう。
このようにイヴは表情は乏しいが、言葉や動作で自分の気持ちをストレートに伝えてくる。
何の躊躇も、迷いもなしに。
それが食事の好き嫌いにしても、誰かに対する好意であっても。
そんなイヴの愚直とも言える様は、姫乃にとってある種『羨望の的』であった。
自分にはどうやっても、叶わぬ生き方。
それが目の前に、極身近にあるというのはどうしようもなく心が騒ぎ立つ。
特に、暁とイヴのやり取りを見ている時などがそうだ。
だから、姫乃は二人が共にいる際には努めて耳を塞ぎ、口を閉ざし、心を逸らした。
そうしなければ、自分自身が持たなくなると感じているからであり、一種の防衛本能であった。
「姫乃様」
「あっ……はい?」
手にフォークとナイフを持ったままぼんやりとしていた姫乃に、ムクロが背後から声をかける。
我に帰った姫乃は慌ててムクロの方を向いた。
「お食事中、大変申し訳ありません。姫乃様に一つお願いがあるのです」
「私に……ですか?」
頷くムクロに対し、姫乃は瞬きを繰り返す。
珍しいムクロからの頼み事に、姫乃は何事かと首を傾げるのだった。
※
小さく二回、扉を叩く音が暁の耳に届く。
扉から聞こえたノックの音に、暁は一瞬顔を上げると、一言「どうぞ」と返し、再び手元の書類に視線を落とした。
扉がゆっくりと開くと、盆を持った姫乃が静かに入ってくる。
盆の上には、仕事をしながらでも食べられるようにと数切れのサンドイッチが並べられていた。
「…………ここに置いておくぞ」
「うん。わざわざ済まないね」
「別にいい。それより、何の用だ?」
仕事の邪魔にならないよう、机の脇に盆を置くと姫乃は仕事をする暁の前に立つ。
ムクロに頼んでまで、わざわざ自分に差し入れを持って来させたのだ。
何か理由があるのは明確である。
「いや、明後日みんなで海にでも行こうかなと思ってさ。姫ちゃんには他のみんなに伝言をお願いしようと思って」
「えっ…………!?」
姫乃が驚き、声を漏らす。
暁は書類に目を向けたままであった。
「何で…………?」
「ん? いや、今年の夏はそういえば海に行ってないなぁと思ってさ。ほら、
何のこともないように淡々と述べる暁に、姫乃は目をぱちくりさせる。
あまりに呆けている姫乃に、暁は苦笑いを向けた。
「何そんなに驚いてるの? お願いしたからね。あ、あと誰か誘いたければ誘っていいよっていうのもみんなに伝えておいて。特に女の子なら大歓迎だって」
「いやでも…………お前……仕事は…………」
姫乃は呟くように言葉を漏らし、周りを見る。
昼間より減ってはいるが、まだまだ終わるには程遠い量の書類が山となり連なっていた。
姫乃の言わんとすることを察した暁は、納得したように頬を掻く。
「ま、ある程度目処が立つところまでは頑張って終わらせるさ。姫ちゃんは何も心配しなくていいよ」
「しかし…………」
「それに、さ」
「え?」
「見てみたいしね。姫ちゃんの
「なっ…………!? 何でそれを…………!?」
新しい水着を買ったということを暁は知らないはずである。
思いもしなかった暁の言葉に、姫乃は
「だって姫ちゃん、昼間ここに来た時買い物包み持ってたでしょ? アレって駅前のモールにある水着専門店の『アクアリウム』の包みだったし、そういうことかなって」
「暁…………」
それでわざわざ自分を伝言役に呼び出したのかと姫乃は納得する。
納得すると同時に、胸が強く握り締められたように苦しくなる。
昼間訪れたあの時、イヴが途中から割ってきたためうやむやになっていたかと思っていた。
姫乃自身も、二人の姿を見まいと、視線を逸らし、部屋を出た。
しかし、暁はその僅かな間にもちゃんと見ていた。
自らの仕事に追われながらも、イヴとやり取りを交わしながらも、
そのことが、姫乃はたまらなく嬉しく、たまらなく辛かった。
「それじゃあ、みんなに連絡お願いね。僕はみんなの水着姿を励みにもう少し頑張るからさ」
「…………」
「姫ちゃん?」
「あっ…………ああ……。わかった……ちゃんと……伝える」
「? よろしくね」
再び仕事に集中し出した暁に背を向け、姫乃は部屋を後にする。
鈍く痛み続ける胸を押さえながら、姫乃は暗い廊下に出ると、心の中で何度も自分に言い聞かせた。
『自分では駄目だ』、『自分にその資格はない』と。
痛みが和らぐまで、何度も何度も心の中で唱え続けた。
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