第十章 ウィッチ
第98話 前触れ
イギリス、ロンドン地下鉄。
世界最古と言われるこの広大なメトロは、今日も多くの人々で賑わい、蜘蛛の巣のような路線を忙しなく電車が行き交っていた。
しかし、そんな喧騒から少しばかり外れた筒状のトンネルの中で、か細く小さな息遣いが暗闇に紛れるように響く。
古い歴史があるだけに廃線や破棄された駅が数多く存在しているのだが、この場所もその中の一つだった。
荒廃が進み、ほとんど人が寄り付かなくなったその場所でうずくまる小さな影。
その影こそが、か細い息遣いの主だった。
グレーのパーカーとデニムのショートパンツを着たその人物は、フードを深めに被って顔を隠しているが、覗き見える顔立ちを見るにまだ幼い少女だった。
年の頃はまだ十代に差し掛かったぐらいだろうか。
しかし、幼さ以上に目立つのが、少女の疲弊具合だ。
服がボロボロなのは言うに及ばず、ショートパンツから伸びる細く白い足には、いくつもの擦り傷がある。
身体的な傷の多さだけでなく、神経を摩耗したことによる心的疲労の大きさも、その疲れ切った表情から見てとれた。
少女は疲れ切った表情で、手に持った懐中時計のようなモノを見つめる。
本来時針があるはずの部分には、円状のメーターがあり、ほぼ満タンの位置まで黄緑色の光が貯まっている。
針の先ほどの光もない地下廃線で、その懐中時計から漏れる黄緑色の光だけが煌々と輝き、少女の疲弊してくすんだ瞳を照らしていた。
その光を見つめ、体を丸めていた少女だったが急に何かに気づいたかのように顔を上げる。
左右の暗闇を交互に見て立ち上がると、懐中時計の蓋を閉じてポケットにしまう。
代わりに、背中に背負った大きなリュックサックからステッキのようなモノを取り出した。
少女は取り出したステッキの柄を捻る。
すると、ステッキは瞬時に長く伸び、先端に細めの筒を形成して、
少女は木槌を握りしめ、背中を壁に預ける。
左右を交互に忙しなく見張る様子から、
その
左右を見張っていた少女だったが、左の方から聞こえた物音に、すぐ身構える。
手にした木槌の先を向け、少女は暗闇を睨み付けた。
そうすること、数秒。
少女の息遣いだけが響くばかりで、静寂と言っても差し支えない廃線に、地を揺らすような低い轟音が響き渡る。
近くの路線を走る地下鉄の音が、ここまで響いてきたのだろう。
小さな体を芯から揺らすような轟音に、少女は一瞬、手にした木槌を落としそうになる。
慌てて木槌を持ち直し、少女がまばたきをした、次の瞬間だった。
響き渡る轟音に、トンネルの壁に大きな穴を穿つ破砕音が混じりこむ。
その音が自分の背後から聞こえたことに気づいた少女は、振り向き様に握りしめた木槌を音のする方に向かって力いっぱい振り抜いた。
すると、木槌の頭部から黄緑色の光の玉が飛び出し、そのまま槌の面に当たる。
木槌に打ち出された光の玉は、壁に大穴を穿った張本人に向かって、ボールのように勢いよく飛んでいった。
しかし、光の玉は当たることはなく、白いロングコートに身を包んだその男の体をすり抜け、そのまま穴の向こうへと飛んでいく。
まるで映画でよくある幽霊の体を物体がすり抜けるシーンを目の当たりにしたかのような出来事に、少女の重くなっていた瞼が大きく開かれる。
だがその時には、離れていたはずの白コートの男が眼前に立っており、少女の首に手をかけていた。
「がっ…………はっ………………!!」
首の痛みと、ぼんやりしてくる頭に少女は気を失いそうになる。
少女は残った力を振り絞って、木槌で男を何度も叩き、その魔の手から逃れようと必死に抗った。
しかし、男はそんなことは意に介さず、軽々と木槌を手で止めると、小さくため息をついた。
「いい加減にしろよ…………俺は
男の指先が、さらに深く少女の首に食い込む。
唇は空気を求めるかのように小刻みに震える。
瞳が完全に上がり切り、少女が手に持つ木槌と共に意識を手放そうとした、その時ただった。
「なっ…………!?」
突然、少女の体が激しい黄緑の光に包まれる。
その瞬間、男は見えない壁に弾かれるかのように少女から引き剥がされた。
男は倒れそうな体を踏みとどめて、少女を見る。
少女は完全に意識を失ってしまっていたが、その体は、依然として黄緑色の光に包まれ、宙に浮いていた。
男は少女を捕らえようと、再び手を伸ばす。
しかし、先ほどと同様、見えない壁に阻まれて手出しができない。
「クソッ…………また別の
男が悪態をついた瞬間、少女は一際激しい光に包まれる。
男は思わず手と瞼でその光を遮った。
しばらくして光がなくなり、男が再び瞼を上げると、そこに少女の姿は影も形もなくなっていた。
男は舌打ちをすると、懐から携帯を取り出す。
ボタンを一つだけ押すと、すぐに電話は繋がった。
「…………あぁ、俺だ。すまない、対象には逃亡された。恐らく空間転移を行ったんだろう。行き先はわからない。また一から探し直しだ。あぁ、『ルイス』の回収も出来ていない。あぁ、わかった。俺も一度帰還する」
男はそう言うと電話を切る。
電話を切った男の形相は、形容し難いものだった。
ただ一点、深い憎悪を突き詰めると形を為すことができる表情だった。
「…………必ず滅ぼしてやる…………
男は抑えきれぬ憎悪と共に言葉を吐き捨てる。
男が吐き捨てた言葉は、再び近くを通る電車の音に掻き消されていった。
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