第九章 ジンロウ

第81話 狼森の里

 いつもと違う朝食の風景に、遅れてきたメルは首を傾げる。

 新雪のように真っ白なテーブルクロスに、整然と並べられた人数分のナプキンや食器。

 そこまではいつも通りなのだが、問題はその数だ。

 テーブルの上に準備された食器は全部で三つ。

 そして、朝食の席についているのは、姫乃とふらんの二人だけ。

 空いた一席はもちろん自分である。

 そう、そこには暁と神無の姿がなかった。


「暁様と神無様は外出しております」


 そのことを口にしようとしたメルの背後から、ムクロが先んじてその答えを告げる。

 突然出そうとしていた言葉を取り上げられたメルは黙ったまま、大人しく朝食の席につく。

 すると、メルが遅れて起きてくることを見越して準備されたかのように、出来立てのエッグベネディクトがメルの前に置かれた。


「出掛けたってこんな朝早くにどこへ?」


 メルは自分のカップに紅茶を注ぐムクロに尋ねる。

 ムクロはいつも通り甘党のメルのために多めの砂糖とミルクを紅茶に添えながら答えた。


「お二人は神無様のご実家である『狼森の里』に行かれております」


「実家ぁ? 何しに?」


「『封身の儀』だ」


「は?」


 姫乃の口から出てきた聞き慣れない言葉に、思わず素っ頓狂な声が出る。

 既に朝食を食べ終えた姫乃は、食後のコーヒーを楽しんでいるところだった。

 姫乃は手にあるカップをソーサーに置くと、ふらんの方を一瞥する。

 わんこそばのように朝食を平らげ、次々と皿を積み上げていたふらんは、姫乃の視線に気づくと、口の中のものを慌てて飲み込み頷いた。


「そっか。メルちゃんにはまだ話してなかったもんね」


「いい機会だから話をしておこうか。ーーーーと言っても、私たちも聞いた話なんだがな」


「話? 何のだよ」


 メルは二人を交互に見る。

 姫乃は、メルのその視線に応えるかのように一息つくと、静かに口を開いた。


「神無の…………『禍津大神』についての話だ」


「まがつ…………おおかみ…………?」


 再び出てきた聞き慣れない言葉にメルの表情が曇る。

 初めて聞く言葉だが、何故かその音に不吉な印象を抱かせる響きがある。

 現に、その言葉を口にした姫乃、そして、意味を知っているであろうふらんの表情も同様に優れないものだった。


「簡単に言えば『呪い』だ。それもすこぶる陰湿で、執念深くて、たちの悪い…………な」


 そう言うと、姫乃は再度コーヒーに口をつける。

 不自然な間で挟まれたその動作は、まるで先ほど口にした言葉から、口内を清めているような様子だった。



 ※



 暁と神無が始発の電車に乗ってから一時間が経っていた。

 暁はぼんやりと車外の風景を眺める。

 流れいく風景は、人の手によって作られた血の通わぬ灰色のビル街から、いつの間にか青々とした命が息づく深緑の木々に変わっていた。

 暁は、ふと右肩に感じる重みに目をやる。

 暁のすぐ傍らには、朝日を浴びて艶やかに輝く黒髪の清流が流れていた。

 その清流の先では、黒髪の主である神無があどけない寝顔を覗かせている。

 整った目立ち鼻に、長く濃いまつ毛。

 そして、僅かに開かれ、安らかな寝息を立てる、瑞々しい淡紅色の唇。

 そのどれもが、奇跡的なバランスで美しく配置されており、間近で見た暁は、改めて神無の容姿の非凡さを感じていた。

 ふと視線を外に戻すと、電車はトンネルに入ったようで、車窓は暗い闇に塗り潰され、座席に座る暁と神無を鏡のように映していた。

 暁は腕時計で時刻を確認する。

 あと四駅行けば、自分たちが降りる駅だ。


「ん……んん…………」


 静かに寝息を立てていた神無が、急に呻きながら身動ぐ。

 起きるかと暁は見ていたが、神無はそのまま暁の肩から胸元、胸元から腹へと滑っていき、暁の膝の上に頭を乗っけると再び寝息を立て始めた。


「むにゃ…………ん…………」


 自分の膝の上で眠る神無を見て、暁はその髪を優しくとく。

 神無はくすぐったそうに身動いだが、変わらず気持ち良さそうに眠り続けた。


(…………あとちょっとだけ寝かせておいてあげるか)


 暁は神無の髪を撫でながら、神無をギリギリまで寝かせてあげることに決めた。

 何せ、今日は神無にとって大変な一日になるのだから。

 今のうちにゆっくり休ませてあげようーーーー暁はそう考えながら再び車外に視線を戻す。

 電車はトンネルを抜け、朝焼けに染まる緑の山々をその車窓に映し出していた。

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