RE075 襲、解放される

 雫除けとして被ったヴェールの下から、神泉の水面すれすれに開いた〔盾〕の外へと、伊月は手を伸ばす。

 その手元から、するりと伸ばした帯状の魔力。

 伊月自身の魔力炉が生み出し、マテリアルボディを満たす体内魔力オドは温存したまま。余剰魔力の一部を割いて形作った魔力の「手」は、伊月が纏う余剰魔力における魔力オドをそのまま反映する形で、何をせずとも「影」を孕んだ。


 御神木から絶えず滴る魔力マナの雫に凪ぐことを知らない神泉の水面から、その奥底へ。伊月が伸ばした魔力の「手」は、伊月自身の特異な視界を頼りにその父親である襲のマテリアルボディを探り当てる。

「白さま――」

 キリエが器用に影を操って見せるよう、魔水へ浸け込まれた襲の体に魔力の「手」を巻きつけながら。泉の外に立つ白を、伊月は「こちらへどうぞ」と手招いた。


 〔盾〕を足場に神泉を覗き込むという、皇国育ちの感性では不遜極まりない伊月の振る舞いとは対照的に。そっと目を伏せ呼吸を整えた白は厳かな佇まいで、御神木から滴り溜まった魔水マナへとその身を沈める。

 水底を這う御神木の根が、マテリアルボディを失った徒人の魔力炉を絡め取ると。白と入れ替わりに、国津神としての役目を解かれた襲が解放される。


 十年ほど魔水に浸け込まれていたマテリアルボディを水面近くまで引き上げた伊月は、そのまま〔盾〕を足場に岸へと戻った。




「どこも溶けてない?」

 生身の体同士では初めて顔を合わせる父親に対して、伊月が発した第一声が、それ。


 高濃度の魔水マナマテリアルボディの修復怪我の治療に使えるが、扱いを誤れば逆にマテリアルボディを損ねてしまうこともある。

 わかりやすく揶揄うような調子でわりと洒落にならない軽口を叩かれた襲は思わず、目覚めたばかりで鈍い手足の感覚を確かめた。

「いきなり不安になるようなことを言わないでくれるかな……」

 幸いにして、岸に近い場所はさほど深くない神泉から引き上げられた襲の体は、その末端までもが少しの瑕疵もなく、徒人のマテリアルボディとしてまっとうな形を保っている。

 どこかののよう、徒人でありながらうっかりとマテリアルボディを失ってしまう、というような事態は免れていた。

「大事なことでしょ」

「そうだけど。僕だってそれなりに未練があったし? さすがに自分の体くらい、ちゃんと保存してるよ」

 宵闇から紡いだ糸で丁寧に仕立て上げたような、深みのある黒のヴェール。

 その実、ヴラディスラウス・ドラクレアの手で瞬時に編み上げられた魔布を、襲の前でするりと脱ぎ落とした伊月。その視線、その、溢れるほどに魔力を宿した双眸が、意味ありげに襲の輪郭をなぞる。

「そうみたいね」


 そのに何が映っているのか。

 襲の姿が、伊月にはどう見えているのか。


 興味をそそられた襲がそれを問う前に、まじまじと注がれていた視線が外れる。

「国津神が領域外余所で子供を作るなんて、生半可な未練じゃないわ」

「あー……」

 内心の読みづらい澄まし顔を並べた双子の前で、襲はへらりと苦笑した。

「君たちの前であんまりこういう話はしたくないんだけど、彩花のことには深い事情があって……愛花さんが眠ったままでも、体が健康なら子供は産めるだろうって話が、日代の方であったらしくてね? だから――」


「それが嫌なら、日代の女なんて愛さなければよかったのに」


 伊月の言うことはもっともだが、それができたら誰も苦労はしない。

「好きになった人が、たまたま日代の生まれだったんだ。しかも奇跡的に両思い。……伊月ちゃんなら、諦められた?」

 なんとなし、この流れはヴラディスラウス・ドラクレアの「地雷」足り得たのではと。襲が不安に襲われたのは、取り返しようのない言葉がすっかり口を衝いて出てしまってからのことだった。




 伊月の両手がおもむろに伸ばされて、鏡夜の耳をぴたりと塞ぐ。

「メンタルレイプくらって衝動的に自殺するような女の成れの果てに、訊かないでよ。そんなこと」


 表向きは綺麗に隠されている伊月の本音を、混ぜ合った余剰魔力やメビウスクラインの繋がりから掬い上げ。不愉快な過去の反芻にささくれだった感情を宥め賺すよう、キリエは伊月の小柄な肢体を抱き寄せる。

 鏡夜の耳元から離れた子供の両手は、大人しくキリエが伸ばす腕を掴んだ。

「でも。そういうことなら、襲は日代がどうなっても気にしないわよね?」

「これでも元国津神の護家関係者だから、あんまり大きな声では言えないけどね」


「それなら、いいの」

 ゆるゆると力の抜けていく体。

 すっかり預けられた重みを丁寧に抱え込み、されるがままの〔花嫁〕へ、キリエは頬をすり寄せた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます