RE026

 ある瞬間、突然はたと我に返るよう。

 これといった心当たりもなく自然と目覚めた伊月の視界へ、真っ先に飛び込んできたのは、本質的に睡眠など必要としていない吸血鬼の安らかな寝顔。


(寝てる……)

 大人が二人で使ったとしても充分に広いベッドの上。伊月の隣で伏せ気味に体を横たえたキリエは、作り物のよう整った容貌の大半を枕へ埋め、投げ出すよう伸ばした片手で伊月のことを捕まえていた。

「ん……」

 伊月が体を起こした拍子。伸ばした腕の先をシーツの上へと落とされたことで、キリエがぐずるよう零した吐息は、縁も所縁もない赤の他人がついうっかりと道を踏み外しかねないほどの艶を孕んでいる。

 とはいえ。キリエのそんな姿も、〔花嫁〕補正で吸血鬼の魅了にそれなりの耐性を持つ伊月の目には、単に「寝汚い吸血鬼」としてしか映らなかった。


「私、シャワー浴びてくるけど。キリエはまだ寝てる?」

「ん…………んー……?」

 黙って傍を離れたせいで、後々目覚めたキリエに浴室まで追いかけてこられては堪らない。

 そんな打算ありきで一応の声をかけはしたものの。まともな返事一つ寄越さないキリエに伊月はあっさり見切りを付け、一人でさっさとベッドを抜け出した。

 けれど――


 爪先をつけた床へ、体重を乗せた踵が下りきる前に。伊月の体は紙のよう薄く、のっぺりと黒い「手」に捕まる。

「ちょっと……」

 リボンでも巻きつけるようぐるぐると腰を抱かれ、為す術もなく連れ戻された先は、仰向けに寝転がるよう寝返りを打ったばかりの、キリエが広げる二本の腕の中だった。


 今度こそすっかり抱え込まれた挙句、甘えつくよう頬をすり寄せられて。伊月はどうしたものかと、呆れ混じりの息を吐く。

「シャワー浴びたいんだってば」

 そこで、キリエがもう一度寝直そうとする素振りをちらとでも見せようものなら、さすがに大人しくしてはいなかっただろうが。両手に捕まえた伊月の腹へぐりぐりと頭を押しつけるキリエの動きは、どちらかといえば耐え難い眠気を散らそうとしているようなそれで。

 言霊を使うほどのことでもないだろうと判断した伊月が我慢強く、手近なところにあった絹糸のような髪を鷲掴みにして、引き抜かんばかりの力を込めながら時間を潰していると。それから何分もしなうち、少しの痛痒も感じていない様子のキリエは、ようやく開いた物憂げな眼へ伊月を映し、はてと瞬いた。

「シャワー……?」

「誰かさんみたく、今の身体アストラルボディを一旦解いてまた編み直したらそれで全部リセット……なんて、都合良くできてないのよ。徒人わたしは」

 分かったらさっさとこの手を放せと、伊月がキリエとの間に腕を突っ張れば。いつの間にか着せられていた寝間着の下へ、キリエの手が何食わぬ様子でもぐり込む。

「後始末はちゃんとしたつもりだったけど……どこか気持ち悪い?」

 あどけない幼子には似合うはずもない、肌が透けて見えるほど薄いレースを重ねたネグリジェは、キリエがたくし上げた端からその裾をざっくり開いていった。

「後始末……したの?」

 キリエの魔力によって編まれた魔布なら、キリエの思うがままに形を変えて当然だろうと。みるみる形を変えていく寝間着に、伊月はさしたる注意を向けない。

「私が寝てる間に?」

 より、遥かに看過しがたい発言を受けて。伊月がキリエを見下ろす視線は、自ずと穏やかならざる険を孕んだ。

「そりゃあ……」

 当然のよう頷こうとしたキリエが不自然に動きを止め、次いで「しまった」と言わんばかりの表情を浮かべて見せたのは、で散々黒姫奈に詰られた過去を遅れ馳せ思い出したから……なのだろうと。

 いつまで経っても学習しないキリエに、伊月はあからさまな溜め息を一つ、これ見よがしと零してみせる。

「やめてって言ってるのに」

「ごめん……」


 はじまり方を決定的に間違えてしまっているくせ、それ以外ではどこまでも、まるで際限などないのではないかと思えるほどに唯一の〔花嫁〕へと尽くしてみせる。

 キリエのそんな振る舞いが、余計黒姫奈の癪に障っていたのだと。今更告げたところで詮無い事実を、伊月はすんでの所で呑み込んだ。

「……私のこと、好き?」

 その代わり口にした、ともすれば脈絡のない問いかけに、すっかりしょぼくれていたキリエの表情がふわりと綻ぶ。

「――愛してる」

 私にはお前だけだと囁く声、伊月へと注がれる視線はまるで、煮詰めた砂糖へ蜂蜜をぶち込んだかのようどろりと甘く。

「そういう顔されると虐めたくなるから、しゃんとして」

「えぇっ……?」

 その愛情を信じてしまったのだから、仕方が無いと。伊月は努めて理性的に、己の羞恥へ蓋をした。

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