RE002 天谷と襲

「その方から離れろ!」


 明確な敵意を孕んで膨れ上がる魔力と、放たれた怒号。

 キリエに抱き竦められ、感慨に耽っていた伊月がはたと我に返るとともに。幼い肢体はふわりと持ち上げられ、その視界をどこからともなく降って湧いた薄布ベールが覆う。

「殺すな!」

 肌を刺すような魔力を辿って振り返るまでもなく、殺気立ちながら母屋を飛び出してくる一人分の気配に、伊月は反射でそう声を上げていた。

「っ……」

 本来、キリエほどの人外に通用するはずのない、未熟でいて力足らずな言霊げち

 そんなもので素直に縛られたキリエの体が、抱えられている伊月にもはっきり感じられるほどびくりと竦む。

 その硬直が解けきらないうち。八坂伊月にとって身内以外の何者でもない女神使しんしは、その手に携えた白刃の間合いまで二人との距離を詰めていた。


「それ、どっちに言ってるの?」


 容赦なく振り抜かれた太刀の一閃を、キリエの足元から前触れもなく生えた杭――あるいは、魔力を孕む影によって形作られた棘――が弾く。

 横目でちらりと、伊月の顔色を窺う余裕さえ覗かせながら。応戦を禁じられたも同然のキリエは、天谷あまやとの間へ細身の杭を次々と生やしながら飛び退ることで、太刀の間合いからひとまず逃れた。

「土地神なんだから、力量差考えて神使くらい抑えて!」

「えぇー?」

 天谷が差し違える覚悟を持って挑んだとして、キリエの魔力で形作られた杭を砕くことさえ叶いはしない。

 それほどまでに隔絶した両者の力量――正確には、キリエが有する魔力量の甚だしさ――を知る伊月は、母屋を飛び出す天谷と入れ違いに現れて、屋根の上から高みの見物を決め込んでいる父神を非難がましく睨め付けた。

「さすがにそれは横暴じゃない?」

 けれど、かさねは笑って取り合わない。

(ぶん殴るわよ)

 思わず舌打ちしかけた伊月の体を、それまで小揺るぎもさせることなく運んでいたキリエが揺すり、何事かと振り返った幼子の前で、目深に被っていたフードを脱ぎ落とす。

「お前が駄目だと言うのなら、壊したりしない」

 まるで作り物のよう整いきった白皙の美貌を、容赦なく照りつける夏の日差しへ晒しながら。そのことに対してはまるで頓着する素振りも見せず、キリエは剣呑に目を細める伊月の耳元でやんわり囁いた。

「……怪我させないように、大人しくさせられる?」

「お前がそうしろと言うのなら」

 無意識のうち、伊月の思考なかからその選択肢を除外していたのは、キリエを信じきれていなかった黒姫奈としての習い性で。

 ついうっかり、ほんの少し力加減を誤っただけで天谷を殺してしまえるキリエに、身内の制圧など任せられるはずがないと。黒姫奈であればなんとしても避けただろうキリエからの提案を呑むことに、伊月は自分でも驚くほど、少しの抵抗も覚えなかった。

「じゃあ、そうして」

 黒姫奈の死をもってようやく手にした信用を、キリエもそうそう裏切るような真似はしない。


 立ち上る煙がくゆるよう、ぐにゃりと形を崩したかげに纏わりつかれ、地面へ引き倒された天谷。

 どんなに暴れようと逃れようもなく押さえ込まれたその体には、伊月が命じたそのとおり、怪我らしい怪我は、それこそ掠り傷一つついてはいなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます