散った花びらの行方を僕と君だけが知っている

君名 言葉

散った花びらの行方を僕と君だけが知っている

 桜を見る度、いつも、あの歌を思い出す。

『散った花びらの行方を私と君だけが知っている それだけでたまらなく嬉しくて 美しいの』

 ありきたりな言葉を並べて作った、ありきたりでない歌。

 美咲さん。ごめんね。僕にはなにもできなかった。

 痛みを忘れて生きていくには、まだ僕は幼すぎたみたいだ。

 君がいない世界はどうにもつまらなくなった。

 今、なにをしてるの? ちゃんと、笑っているかい?

 大丈夫。僕は元気だよ。

 君との思い出を心に焼き付けて、僕は生き続けるよ。

 君の言葉を、人々に届け続けるよ。

 可憐に舞い散る、桜の花びらのように。


 ◇


 とうに暖かくなった春の陽気のせいだろうか。それとも、高揚するこの気持ちからだろうか。

 少し歩くだけで、シャツが汗ばんだ。ポカポカといった擬態語が一番ふさわしい、そんな春の日だった。

 卒業、そして入学など、出会いと別れが繰り替えされ、新生活が始まる時期。

 それと同時に、春は、新たな生命が息を始め、自然が盛りだす時期でもある。

 日本を代表する花、「桜」も例外ではない。

 通行人の視線を一斉に集めるその花は、不思議な輝きを放っているようだった。


 僕、小野隼人おの はやとは、そんなことを思いながら、「第三十二回 福井さくら祭り」に来ていた。

 周知の事実だが、福井県とは田舎だ。けれど、今日だけは違う。

 いつもの閑散とした並木道とは打って変わり、悠々と流れる足羽川を挟んで、賑やかな歩行者の列ができている。

 綿菓子を持って嬉しそうに走る小学生、酔っ払った中年の男、とりあえず騒ぎたいだけの大学生。

 各々が様々な面持ちで、この祭りに参加していた。


 ちょっと小腹がすいたし、何か買おうかな。

 たまたま列が空いていた、たこ焼き屋に並んだ。リュックからボロボロの長財布を取り出す。

 今日は土曜日で、高校は休みだ。クラス内でも浮いている存在の僕は、祭りに誘うような友達はおらず、結局一人で来る羽目になった。

 本当はこんな、喧騒の溢れる場所に来る予定はなかったが、家で惰眠を貪るよりはマシと考え、自転車を飛ばして足羽川に降り立ったというわけだ。

 おお、いい匂い……

 嗅覚が嬉しそうに反応している。

 うん、これは美味しいたこ焼きだな。間違いない。匂いで分かる。

 しかし、その時反応したのは嗅覚だけではなかった。


 ジャララン……


 たこ焼き屋のテントの奥の方から、軽やかなギターの音が響きだした。

 何かと思って覗いてみると、ギターを持った女の子が立っていた。歳は僕と同じくらい、高校生ほどに見える。

「今から路上ライブ始めます! よろしくお願いします!」

 パチパチパチ……

 数人の観客の乾いた拍手が宙に消えていき、路上ライブが始まった。

 ちょっと気になるな。これ買ったら見てみよう。


 その後、無事たこ焼きを購入し、テントのある方向とは逆方向に進む。

 観客は四人。歌っていたのは、滑らかなロングヘアーで、身長は僕より少し低いくらいの女の子だった。ショートパンツに、何かのバンドのTシャツといった姿。額に汗を流して歌う様が、何とも健気で好感が持てた。

 僕は人を見る目に肥えている訳ではないが、一般的にこの人は、かなり可愛い部類に入るだろう。透き通るような肌と、ぱっちり開いた瞳、笑った時に出来るえくぼが眩しい。

 それからも、器用な手つきでピックを操り、弦をかき鳴らす。


『橘 美咲。メジャーデビュー目指して、アコギ一本で頑張ってます! 応援してください!』


 椅子の上に立てかけてあったホワイトボードに、そう書いてあった。

 すごくしっくり来る名前だ。なんというか、ものすごく綺麗な花が咲いたみたいな。

 美しく咲く。で、美咲。うん、やっぱりピッタリ。


「花びらが散ればお別れ そんな関係ならよかったのかな〜」

 前奏が八秒ほどあり、歌い始めた。

 この歌はどうやら、彼女の一番のできの曲のようで、曲名を、『花びらが散れば』というらしい。

 しばらく立ち聴きしていると、やがて、観客は僕一人になっていた。

 周りを見渡して、明らかに何かがおかしいと感じた。

 これだけの歌が目の前で披露されているのに、なぜ誰も耳を傾けようとしないのか。

 祭りばやしの笛や、太鼓の音にかき消されてしまっているのだろうか。

 皆、おしゃべりに夢中で気付かないのだろうか。

 それとも、単に興味がないのだろうか。

 いずれにせよ、僕はとてつもなく悔しくなった。彼女の歌が届かないことが。僕なんて全くの部外者で、今日知ったばかりなのに。


 気付けば、曲が終わっていた。

 彼女の世界に没入していて、完全に我を忘れていた。焦点の合わない目つきをした僕に、丁寧に話しかけてくる。

「あの、ありがとうございます。ずっと見ていただいて」

 綺麗な人と話すというだけで、思わずたじろいでしまった。

「え? ああ、いえ、素晴らしかったです」

「本当ですか?! 嬉しいです。水曜日と土曜日のお昼から、普段は駅前でやってるので、良ければ見に来てくださいね!」

「駅前ですか? 分かりました。必ず見に行きます!」

 くしゃっとした彼女の笑顔で、心が喜びに震えた。この人の歌には、人を惹きつける何かがある。そう信じて止まなかった。

 気分良く自転車に乗り、鼻歌混じりで下り坂をいつもより速く下った。

 早く、来週にならないかな。

 その後の一週間が、ほんの少し、短く感じられた。


 *


 翌週の土曜日。

 駅前広場に設けられた噴水の前に、可憐に立つ女の子の姿があった。

 具体的な時間を聞き忘れたので、路上ライブに何時から行こうか迷ったが、午後一時頃に行って正解だった。

 僕が近づいていくと、向こうも思い出したらしく、桜のような笑顔を向けてくれた。

「あ、この前の方ですね。来てくださったんですか?」

「そうです。先日聴いた歌がすごい耳に残って。友達みんなに言いましたよ、橘 美咲って歌手がすごいんだ!って」

 嘘だ。本当はそんなことを言う友達はいない。けれど、僕の胸の中には、嘘でもなんでもいいから彼女の喜ぶ顔が見たいという、複雑な感情が渦巻いていた。

「ええ! 感激です! 今日もライブ楽しんでいってくださいね!」

 まだお客さんは僕しかいないが、始めてくれることになった。


 ジャララン……


 FコードからCコードへとコードチェンジ、そして曲が始まる。その音色は、優しく心を撫でられるような感覚だった。

『散った桜の花びらの行方を私と君だけが知っている それだけでたまらなく嬉しくて美しいの』

 この前と同じ曲だ。この歌詞は彼女が考えたのだろうか。色々な意味にとれる、奥深い歌詞だ。


 彼女の世界観に引き込まれ、またもやあっという間に終わってしまっていた。

 今日は最後まで聴いていた観客が、僕の他に数人いた。

 ダンディなハットを被った四十歳くらいの男性が、ギターケースに五百円玉を放り込むのが見えた。

「ありがとうございます! また来てください!」

 愛想良く笑顔を振りまく彼女。

 七曲ほどの演奏後、空がオレンジ色になると同時にギターを片付けだした。

 僕の他にいた観客は、とうにいなくなっていた。


「ありがとうね。君、ずっと聴いてくれてたよね。お疲れ様」

 突然、彼女の言葉が敬語ではなくなったのに、少しドキッとした。

「あれ? ごめんなさい、いつの間にかタメ口になっちゃった」

 恥ずかしそうにはにかむ彼女と夕日のコントラストに訳もなく目を逸らした。

「大丈夫ですよ。高校生なので、多分、美咲さんの方が年上だと思います」

「あはは、美咲さんかぁ。なんかだか、年上の人に呼ばれてる感じがするなぁ。君、名前はなんて言うの? 周りの子より大人びてるって言われない?」

 なんと呼べば正解か分からなかったので、美咲さんと言ってしまったが、もしかして失礼だっただろうか。だが、他にふさわしい呼び方も思いつかない。

「名前は、小野 隼人です。大人びてるというか、根暗なだけかもしれません」

「隼人くんかぁ。かっこいい名前だね。全然暗そうには見えないけどな。高校生なんて、毎秒楽しいからね。私はもう大学生になっちゃったけど、君は思いっきり楽しむんだよ」

 ここで初めて、美咲さんが大学生だと知った。

「楽しめたら……いいんですけど。あと、ごめんなさい、美咲さんって言い方、失礼でした?」

「ううん、全然大丈夫だよ。そういう呼び方する人が周りに少ないから、新鮮で面白かったの。周りは、みーちゃんって呼ぶ子が多いかな。君もそう呼んでくれていいんだよ?」

「はは……それは遠慮します」

 さすがに冗談だと思うので、苦笑いで返しておく。

「えー? 全然いいのに」

 路上での弾き語りライブが終わったあとは、僕の高校の話や、美咲さんの友達の話、お互いに好きなバンドの話なんかをした。

 そうやって他愛もない会話をして笑いあったり、特別に僕だけにアンコールを披露してくれたりした。


 それからというもの、土曜日には決まって駅前に足を運ぶようになった。流石に水曜日は行けなかったけれど、その分土曜の午後が特別だった。

 時々、差し入れとして、お菓子や飲み物を持っていくと、それはそれは喜んでくれた。

 そういう日には、限って、いつもより大きめの声で歌ってくれたりするのだった。

 観客は徐々に増えてきていたが、最後まで残って聴く者は、僕くらいしかいなかった。

 彼女の声を聴くたびに、確実に彼女に惹かれていくのを感じた。

 それが、彼女というアーティストとしてなのか、一人の異性としてなのかは分からない。ただ、どちらにせよそれが叶わぬ願いだということは、痛いくらい理解していた。


 ◇


 最近、お肌の調子がいいかもしれない。

 私、橘 美咲は、バイトに行く前の化粧をしている時、ふと思った。

 以前は、中々増えない路上ライブのお客さん問題や、たまに向けられる冷たい視線にストレスを感じ、体調を崩したり、肌の治安が最悪になるなんてこともあった。

 だが、なぜだろう。最近の音楽活動は、ものすごく楽しい。

 大学二年生なのでまだ就職活動は先。

 だけど、親からは早く音楽で生きていくのか、就職するのか決めろと急かされている。

「やっぱり無理なのかなぁ……中途半端じゃ」

 誰もいない部屋に独り言を放った。

 歌手になることは、美咲の子供の頃からの夢だった。そして、高校生までは、それはただの夢だった。

 高校二年生の時、親戚のおじさんがくれたギター。出逢ったその日から、美咲は目を輝かせて毎日練習した。

 ただ、学校が進学校ということもあり、その後は受験勉強に手一杯で、音楽をやる時間はなかった。

 ようやく大学生になり、自由な時間も増えたので、今は音楽に専念できている。

 もちろん、何度も挫折しかけた。最近だって、二度と音楽なんてやらないと思ったばかりだ。

 けれど、折れかけていた私に、優しい言葉を投げかけてくれた、あの子。初めて本気で私の音楽を好きと言ってくれた、あの男の子。

 明日のライブ、楽しみだなぁ……


 ◆


 今日で、美咲さんのライブに来て何度目だろうか。僕はすっかり常連客になっていた。水曜日は学校もあり、たまにしか来られないが、土曜日には欠かさず来ている。

 いつもと変わらない、甘美で巧妙な声とギターに浸り、今日も夢心地だ。

 だが、その日はいつもと少し違う展開が待っていた。

「今日もありがとう。隼人くん、この後ちょっと時間ある?」

「えっ!?」

 驚きのあまり、頓狂な声を出してしまった。とんだ早とちりだ。

「もし時間あるなら、この後クレープでも食べに行かない? いつもお世話になってるし」

「いいんですか!?」

 まさかの展開。この際、親戚のガキでもなんでもいい。

「もちろん。"年上"の私が奢ってあげるよ。じゃあ、ギター片付けるからちょっと待っててね」

「はい!」

 喉が異常に乾き出した。緊張のあまり、冷や汗をかきだす。

「いこっか」と言われ、隼人は駆け出した。心臓を吐いてしまいそうなほどの、緊張感を抱えながら。


 ◇


 ど、どうしよう?! 変な女だと思われてないかな?!

 さくら祭り以来、いつも路上ライブに来てくれている男の子。子犬みたいな可愛い目をしていて、母性をくすぐられる。

 その男の子を、今日はライブ終わりにクレープに誘った。

 もちろん、いつも会いに来てくれて、差し入れまでしてくれるお礼がしたかったというのもある。

 ただ、本音は、高校生のキラキラした時間をちょっとでもいいから分けて欲しかった。女の時間というのは、光よりも速いのだ。

 でも……私、捕まったりしないかなぁ!?

 端から見ればどう見えるのだろうか。友達? 姉弟? カップル……にしては歳が離れているかもしれない。

 とにかく、私が悪い女でないという事だけはアピールしないと。

 表面では冷静、内心は動揺しまくる状態で、駅前のフードコートに向かって歩いていると、隼人くんが、どこかぎこちなさそうに歩いているのに気がついた。

「隼人くん? どうしたの?」

「いや……えっと……僕は美咲さんの右か左か、どっちを歩けばいいのかなーと……」

「ふふ、面白いなあ、隼人くんは。どっちでもいいよ」

「すみません……慣れてないもので」

 ああああ……! 可愛い! 君はその不慣れな感じがいいんだよ〜

 そうこうしている内に、いつものクレープ屋の前に立っていた。

「あ、あった。ここだよ。何食べる? 私はいつもこの、バナナスペシャルなんだけど」

「えっと……じゃあ、同じので」

 うんうん、クレープ食べたことなさそうなのもまたいいね。

「はーい。すみません、バナナスペシャル二つください」

「バナナスペシャル二つですね、少々お待ちください」

 この店員さんには、私たちはどう映っているのだろうか。


 数分後、甘いバナナの香りがしてきた。一時期は週に三回食べていた大好物だ。

 私が二つを受け取り、一つを彼に渡す。

「美味しすぎてびっくりするかもよ」

「あ、ありがとうございます。じゃ、いただきますね」

 私はまだ口にせず、先に彼が食べるのを見守った。

 パク、と少し遠慮がちにかじりつく。数回噛んで味を確認すると、

「すごく美味しいです」と、目がなくなりそうなほどの満面の笑みを浮かべた。

 ああ、連れてきて良かった。それにしても、こういう類の経験の最初が私なんかでいいんだろうか、と今更ながら思う。

 ま、いいや。今は、目の前の大好物を食べることに集中しよう。

 よいしょっ、と一旦ギターを担ぎ直したその時。


 バチャッ!


 手に持っていた物体の重量が、一気に軽くなる。嫌な予感がした。恐る恐る下を見ると、最悪の事態が起こっていた。

「うわ……」

「だ、大丈夫ですか!?」

 なんという不覚。あれだけ気をつけたのに落とすなんて。

 地面には、無残に飛び散るクリームとバナナが散乱していた。自分の無能さに泣きたくなる。

 すると、また予想外のことが起こった。

 隼人くんが、彼のクレープを私に押し付け、落ちてしまった私のクレープを拾い出したのだ。

「は、隼人くん?! 大丈夫だよ?」

「いえ、僕、もうお腹いっぱいになっちゃいました。後は、美咲さんが食べてください」

 お腹いっぱいって、二、三口しか食べてないけど……

 そして、せっせとクレープの残骸を拾う彼が、突然叫んだ。

「あ! ごめんなさい! すごいセクハラ発言をしてしまいましたね!?」

 それは、食べかけのこのクレープことを言っているのだろうか。顔を真っ赤にして焦っている。

「ううん、全然そんな風には思ってないよ。ありがとう」

「嫌だったら大丈夫ですよ、僕が持って帰って食べさせてもらいます。でも、クレープも出来立てで食べられた方が幸せだと思うので」

 この子とお付き合いする子は幸せだろうな。不意にそんなことを思った。

 今まで、年下の可愛いらしいお客さんくらいにしか思っていなかったけど、こんなに男らしい面もあるのかぁ。それに、これって関節キス……

 顔が赤くなっているのを隠すため、渡されたクレープを食べて顔を覆った。

「ごめんね……拾わせちゃったりして」

 自分も手伝いたいのはやまやまだが、拾うために屈んでまたクレープを落としたりしたら、もう立ち直れないので、大人しくしておくことにした。

「いえいえ、奢ってもらったんだからこのくらい当然です」

 君はどれだけいい子なの……

「さあ、終わりましたよ」

「ほんとにごめんね……また君に借りができちゃったね。何かお礼しなきゃ」

 彼の分を買い直そうと財布を開いたが、持ち合わせの小銭では値段に届かなかった。

「じゃあ、何かお話を聞かせてください。いつものライブに終わりみたいに。大学のこととか、友達のこととか。あ、ハマってるバンドでもいいですよ。僕はそれだけで楽しいです」

 いい子だ……今すぐ抱きつきたいくらいに……

「そうだねぇ、なんか最近、ますます音楽が楽しいんだよね」

「ちょっと分かるかもしれません。美咲さんの歌、どんどん良くなってる気がしますもん。あの歌詞って、自分で書いてるんですか?」

「そうだよ。夜中に思いつくことが多いかな」

「すごい好きなんですよね、あの部分。ほら、サビの、『散った花びらの行方を〜』ってとこです」

「えへへ、ありがとう。そんなに褒めてくれるの、君くらいだよ」

 お世辞じゃなく、本当のことだ。彼は、本気で私を応援してくれている。彼は、人の喜びや悲しみを、自分のことのように思える人間なのだ。


「なんかさ、こうしてると、デートしてるみたいだね」


 何も考えずに、自然に発せられた言葉だった。

「えっ……」

 彼の顔があからさまに赤くなってから、私は自分の発言に気づく。

「あああ! ごめんごめん、変な意味はないんだよ」

 自分で言ったのに苦笑いをしてしまった。だけれどなんだか、この時間が永遠に続けばいいな、なんて思った。

 しかし現実はそうなるはずもなく、そのうちにお開きとなった。何度も感謝の言葉を述べてくれたが、感謝したいのはこちらの方だ。

 その日から、美咲は気付けば、頭が隼人の事でいっぱいだった。

 なんだろ、この気持ち。

 もやもやして苦い、でも同時に、どこかふわふわして甘ったるいような不確かな感情が、美咲の心に広がっていた。


 ◆


 今日はなんて素晴らしい一日だったのだろうか。

 憧れの美咲さんと、クレープを食べに行った。しかも、美咲さんの奢りで。

 途中、彼女のクレープが落下してしまうというアクシデントはあったけれど、それでも話をするだけで楽しかった。二時間くらい話していたらしいが、体感では十分に感じた。素晴らしい時間だった。

「デートみたいだね」と言ったあの発言はさすがにドキっとした。でも、当の本人はぽかんとしていて他意はない感じだったし、僕のことを異性としてみているわけではないのだろう。

 まあ、そりゃそうだよな……

 自宅のベッドに腰掛け、深呼吸した。

 僕みたいな人間と、あんなにキラキラした人が、話をできただけでも奇跡だもんな。

 少し甘すぎたバナナスペシャルも、美咲さんがするバイトの話も、全部いい思い出だった。


 桜。なんて美しく、儚い存在なのだろう。もちろん立派に咲き誇るその姿も美しいが、少しでも触れたら壊れそうな華奢な様子が、さらにまた美しい。触れたら壊れてしまいそうなのに、触れなきゃ崩れてしまいそうだ。まるで、この歌を歌っている、あの人みたいに……

 とっくに届かないと知った想いを胸に閉じ込め、隼人は眠りについた。


 *


 それから、ちょうど一週間後。美咲さんにさくら祭りで出会って、三週間が経っていた。

 今年の桜は、例年よりだいぶ遅い開花だったので、さくら祭りの時は満開ではなかった。ちょうど、この一週間くらいが、ピークの時期だろう。

 今日も僕は自転車に跨り、駅前へと向かう。もはや習慣として体に染み付いていた。とは言いつつも、まだ一桁の回数だけれど。

 空には所々雲があるが、それでも気持ち良すぎるくらいの天気だった。

 いつもの駐輪場に自転車を停め、噴水広場へ向かった。

 彼女のお気に入りのバンドのTシャツに、下はパーカーを巻きつけたスカート、といった服装の彼女に近づいていくと、美咲さんの方から気付いてくれた。

「おっはよう! 隼人くん! いよいよ満開だね、私の歌も一番映える時期だよ」

「こんにちは。今年も綺麗に咲きましたね。今日も楽しみにしてます」

「ちょっと準備するから待ってね〜」

 まだライブは始まっていないので、当然、客は僕だけだ。それでも、最近は多い時で十人ほどの人が足を止めて彼女の歌を聴くまでになった。着実に成長していると言えるだろう。

 と、思っていた、その時だった。


 ザーーーー!!


 突然、ゲリラ豪雨のような激しい雨が降り出す。

 その異常なまでに大きい音に、僕も美咲さんも、「何!?」と上を見上げた。

「嘘でしょ?! 隼人くん、あっちの方に避難しよう!」

 そう言って、美咲さんは屋根付きのバスターミナルの方を指差した。

「分かりました! 」

 雨音で声が聞こえにくい。

「走ろう!」

 美咲さんはギターと荷物を担ぎ、僕は自分のリュックを傘代わりにして、五十メートル程離れたバスターミナルに駆け出した。

 残り二十メートルくらいの地点で、靴にちょっと浸水してきているのが分かった。僕は少しだけ速度を上げた。


 ゴロゴロ……ピカッ!


「きゃあっ!」

 天変地異のような強い雷が起こる。空の色は一瞬で強い白になる。

 それでも構わずに、隼人は走り続けた。しかし、途中で、あることに気づいた。

 さっきまで聞こえていた、後ろをピチャピチャと走る音が聞こえない。

 後ろを振り返ってみた隼人の視界に映ったのは、もっと後方でしゃがんで震える美咲の姿だった。

「美咲さん!」

 慌てて引き返す。雷に怯えているのだろうか。彼女の震えは止まりそうになかった。

「貸して!」

 彼女から、ギターケースと荷物を半ば強引に奪い取った。そして、彼女の手を取り、無我夢中で走り出す。握ったその手は冷たく、不安そうに震えていた。

「はあ、はあ、はあ」

 普段、運動をしない隼人の息切れは酷いものだったが、なんとか屋根の下に到着した。ギターはケースに入っているので無事だったが、二人の服と髪はびしょ濡れだった。

「ごめん、美咲さん。気づけなくて」

 僕がもっと早く気づくべきだっただろう。まさか、雷に怯えているとは。

「怖かった……情けないね、私。これじゃ、どっちが年上か、分かんないよ」

 彼女の頬を滴り落ちるのは汗だろうか。雨だろうか。それとも、涙だろうか。


 少し経って、自分の手を見て驚いた。ずっと、手を繋いだままだったのだ。

「うわぁ!? ごめんなさい、気色悪いことしちゃって!」

 握った手を離そうとすると、逆に、更に強く握り返された。

「もう少しだけ……このままでいい?」

 美咲さんは僕の方ではなく、降り続ける雨を見ながら言った。表情は読めない。けれど、僕の頬が紅潮していくのだけは分かった。僕だって、自分の顔は見えないのに。


 *


 どれくらい経っただろうか。雨は多少弱まったが、止む気配はない。

 僕は濡れた服の寒さから、ひとつくしゃみをした。それに気づいた美咲さんが振り向いた。

「まずいね。風邪ひいちゃう。ついて来てくれる?」

「え?」

「結局また、走ることになっちゃうけど」

 返事をする間もなく、今度は、美咲さんに手を取られ、どこかに連れられる。いつの間にか、繋いだ手は温かくなっていた。


 走って三分くらいだろうか。手を取られ着いた先は、少し古めのアパートだった。木でできた優しいロビーは、どこか懐かしい匂いがした。

 美咲さんに、「こっちだよ」と言われ、同じように階段を登る。三階分。

 何を期待しているわけでもないのに、心臓が早鐘を打ち鳴らしている。


 ガチャッ


「散らかってるけど……上がって。シャワー浴びなよ」

 何となく息苦しい。気を失いそうなフラフラした意識の中、靴を脱ぎ、フローリングに足をつけた。


 ◇


 私は昔から、雷が苦手だった。あの眩しい光と恐ろしい音が、私の体を硬直させてしまう。


 もし、今日、彼がいなかったら……

 無事に帰宅した自室で、そんなことを思う。

 私を助けてくれた勇敢な男の子は、今、私の部屋のシャワーを浴びている。

 ギターと荷物を持って、手を引いて走ってくれた。初めて触った彼の手は想像以上に大きかった。

 やっぱり、男の子なんだな。

 私の方が年上なのに、たくさん助けられてしまった。今までも、ずっとそうだ。母性をくすぐられて可愛いなんて思ってたけど、違うかもしれない。

 今、はっきりとこの感情を表現するなら、それは紛れもなく、『恋』の気持ちだ。

 だけれど、私がこの気持ちを彼に伝えることはない。彼はまだ高校生。これから、多くの人と出会っていく。そんな輝かしい彼の青春を、私が奪うなんて真似はできない。

 もどかしい想いを抱えながら、美咲はタオルで髪を拭いた。

 この時間もいつか終わっちゃうんだろうな。そしたら君はいなくなって、私はまた一人になる。だからこそ、今だけはこの幸せを噛みしめよう。

 どうしてくれるの。全く君は……

 自分の気持ちは理解しているのに、表に出すことは許されない。まるで何かの試練を突きつけられているみたいだった。


 ◆


 シャワーを浴び終えた僕は、美咲さんに渡されたスウェットのズボンと、無難な白のTシャツに着替える。

 続いて、美咲さんもシャワーを浴びた。彼女の格好は、同じく紺のパーカーに、使い古されたジーンズといった出立ちだった。

 それから、僕は台所を借りて料理を作った。僕が料理ができることを、彼女は心底驚いていたが、休日は家にいて暇な僕は、食事を自分で作ると知ると、なぜかショックを受けていた。

 そして、雨で濡れていないか、ギターの手入れを入念に行ってから、チューニングまでし始めた。

 フライパンを振る僕の後ろで、ポロンポロンと、暖かいメロディーが聞こえる。


 完成した食事を、ちゃぶ台くらいの高さの、四角いテーブルに運んだ。メニューは、エビとベーコンのチャーハン、そしてコーンスープ。全て、冷蔵庫にたまたまあったものだ。

 二人で向かい合って手をあわせる。

 彼女から、薄っすらと石鹸の匂いがした。心は驚くほど穏やかで、幸せに感じた。

 僕より先に、チャーハンを口にした彼女。ちょっと緊張する。

 口に含んでしばらく噛みしめた後、こう言ってくれた。

「うん、すっごくおいしいよ」

「よかったです。吐き出されたらどうしようかと」

「今まで食べた料理の中で、一番、かも。ちょっぴり悔しいなぁ」

 嬉しそうにはにかむ。僕もつられて口角を上げた。

 心臓は相も変わらずにドクドクするが、それでも心地よいリズムを刻んでいる。

 いつの間にか、雨は小降りになっていた。

「ああ……満開だったのに、散っちゃったかもしれないですね。この雨で」

 一年で最も美しい時期に、こんな災難が降りかかるなんて、桜も不幸者だ。

「そうかな? 私はそうは思わないけどな」

 返ってきた答えが意外だった。思わず訊き返す。

「どういうことですか?」

「もちろん、桜って満開の時が一番綺麗だけど、その後も綺麗だと思うの。何も言わず、切なげに散っちゃうような感じがするけど、その花びらは風に乗ってはるか遠くまで届くんだよ。それが地面に落ちたら、ピンク色の絨毯を作るの。それが毎年繰り返す。ずっと受け継がれていく。なんか、感動しない?」

 本当に楽しそうに話す人だな、と思う。さっきまでのことがなかったみたいに。この人が笑うと、周りの雰囲気も明るくなる。何度も思う。まるで、桜みたいな人だ。

「へぇ、そういう考え方もあるんですね」

「私も歌手、というか、自己表現が本業の人間の端くれとしてさ、思うんだよね。桜の花びらみたいに、私の言葉が届いて欲しい、そしてその届いた人の心に可愛い絨毯を作って、私の想いがどんどん伝染して、受け継がれていけばいいなぁって。この季節になると、絶対に思い出せるような曲を、私は作りたい」

 珍しく、彼女の顔は真面目だった。

「美咲さんならできますよ。絶対に。だって、既に僕の心に届いているんですから。何十年経っても、僕は美咲さんの歌を覚えてると思います」

 何の含みも嘘もない言葉。初めて、自分に素直になれた瞬間かもしれない。

「ありがとう。君がそう言ってくれるなら、本当にそんな気がしてくるよ」

 そう小さく言い、彼女は熱々のコーンスープを口にした。部屋には、甘い匂いが充満していた。


 *


 それから四日後の水曜日。

 この間の豪雨で、多くの桜は散ってしまった。中には、もう葉桜になっているものまである。

 今日は職員会議とやらで、高校の授業は午前中までだった。それはつまり、美咲さんの水曜日ライブに行けることを示す。

 時刻は午後一時三十分。いつもならもう始まっている時間だ。

 自転車を立ち漕ぎに切り替え、息を切らしながら坂道を登った。

 ふふ。まさか平日に来るなんて、ビックリするだろうな。

 百メートル先に、いつもの駐輪場が見えた。

「はあ、はあっ、はあっ」

 ようやく到着した。小走りで噴水広場へ行く。


 噴水との距離はだんだんと近づき、いつものように、可憐に歌っている彼女が見える……と思っていた。しかし、今日は何やら様子が違う。


 美咲さんは、確かにそこにいた。白いワンピース姿で、ギターも持っている。

 ただ、そこにもう一人、彼女に話しかける男がいた。

 遠目からなので顔はよく見えなかったが、スーツ姿で、五十〜六十代くらいの男だ。かなり体格がいい。

 彼女は何やら嬉しそうに話していたので、怪しい人物ではないだろう。時々、大きめの声も上げながら、笑っている。僕は、なんとなく出て行きづらく、タクシー乗り場の看板に身を潜め、様子を伺っていた。


 数分後、男はにこやかに微笑み、その場を去った。僕は、彼女の前に姿を晒そうか迷ったが、誰もいないので出て行くことにした。

 近づいていく僕に、彼女は気づかない。終始、ニヤニヤしながら後ろを向いて荷物をゴソゴソしている。

「美咲さん。こんにちは」

 振り返った美咲さんは、不思議そうな顔をして、首を傾げた。

「あれ? 隼人くん? 今日、学校は?」

「たまたま早く終わったから来てみました」

「へー、そういうことか。ねえねえ、聞いて! 隼人くん!」

「ど、どうしたんです? 凄い勢いだけど……」

 明らかに良いことがあった顔だ。あの男と関連しているのだろうか。

「今ね! 突然スーツ姿の男の人に話しかけられたと思ったら、まさかまさかの、レコード会社の人だったの!」

 さっきのあの男で間違いなさそうだ。って、レコード会社……? え? マジで?

「それでね、私の歌を褒めてくれて、ぜひうちからデビューしないかって! まだインディーズだけど!」

 急すぎる展開に、頭が混乱する。

「え、えっと、それは、美咲さんの曲がCDになって、世に出回るってこと……」

「CDが出るかは分からないけど……とにかく、もっと多くの人に知ってもらえるし、音楽で生きていけるかもしれないの! やっと夢が叶うかも……」

 今にも泣き出しそうな彼女だった。

「音楽で生きていくって、契約とかしたりってこと? これからの活動は? 路上ライブは?」

 僕は何を聞いているのだろう。

「一度、東京の本社に来て、改めて話をさせてくれって。もしかしたら、東京に住めるかもね? そしたら、大学は辞めることになっちゃうけど」

 東京に住む……? 世界がいつもより暗くなった。

「す、すごいね、おめでとう……」

 なぜだろう。なぜ僕は素直にこれを喜べないのだろうか。 ずっと願ってたはずだ。美咲さんの曲がより多くの人に届くなんて、良いことに決まってるじゃないか。一番のファンとして、今まで見てきたんだから……


 なのに。


 どうして僕は笑えない…………?


「あれ?隼人くん? どうしたの?」

 僕の顔を覗き込むように話しかけてくる。

「よ、良かったね、おめでとう! これからもっと有名になると思うよ! 美咲さん、天才だし! そしたら、こんな小さい街でライブするようなことも……ないもんね」

 柄にもなく、大声を出してしまった。分かりやすく、彼女の肩がビクッと震えた。

 なんだこれ。こんなの、僕の言葉じゃない。やめてくれ。本心じゃない。喉が焼けるように熱いのもそのせいだ。

「隼人くん……? 怒って……るの……?」

 彼女は、完全に僕の異変に勘付いている。

「そんなわけないだろ! な、何言ってんだ?! バッカじゃないの?」

 口から出てからハッとした。もう手遅れだ。これ以上関われば、僕はもっと傷つけてしまう。

「ご、ごめん! 用事思い出したから帰るね!」

 一度も振り返らず、駐輪場まで駆け出した。

「隼人くん!?」と言った声が背後から聞こえたが、もう彼女の顔は見れなかった。

 僕の頬には、鉛のような涙が伝っていた。

 何も考えず、自転車を引っ張り出してきて、強引にペダルを漕ぎだす。頭の中には砂嵐が飛び交っている。

 そこから、どうやって家に帰ったのかすら、思い出せない。

 ただ、僕が彼女を傷つけて、もう二度と顔向けできないという事実だけが、深く僕の心をえぐった。


 *


 ハッキリと意識が戻った時、僕はベッドに突っ伏していた。

 いつもの安らかな布団の匂い。目は少し腫れている。

 あれから、何時間経ったのだろうか。二年前に買った安物のアナログ時計の針は、7を指していた。

 次々に、思い出がフラッシュバックしてくる。思い出したくもないのに。

「なん……なんだよ……」

 訳も分からず涙が溢れてくる。僕が今、流している涙の意味とは何なのだろうか。

 自分のためでもない。美咲さんのためでもない。僕は誰のために泣いているのだろう。

「う…………ぐっ…………」

 何かを口にする気にもならない。次に目を開けた時には世界が崩壊していることを祈った。深くて暗い海に沈んでいくような感覚が、隼人を襲った。


 ◇


 どうしてこうなっちゃったのかな……

 美咲は、いつもの噴水広場の前で、ぼーっと無気力に立ち尽くしていた。

 一曲目が終わって、休憩中に、スーツ姿のおじさんに声をかけられた時は、本当にびっくりした。

 不審者かな? なんて失礼なことも思ったりしたが、その予想は大きく裏切られ、待っていたのは最高の結末。

 東京に本社を置く、そこそこ大きなレコード会社の、お偉いさんだった。

 本社は東京にあるけれど、たまたま出張で福井に来て、そこで私の曲を聴いてくれた。「一目で才能があると直感した」と言ってくれていた。本当かどうかは分からないけれど、こんなにも私の作った曲を褒めてくれる人は、知っている限り二人目だ。最初の一人は……


 薄々気づいていた。私にとって一番のお客さんでもあり、友達でもある彼に、好意を寄せられていることは。

 けれど、それを認めてしまえば、全てが変わってしまうような気がした。このまま、曖昧な関係を続けていければ、それでもいいと思ってた。

 夢を叶えるのなら、それはできない。

 彼は高校生だ。まだまだこの先、明るい未来が待っている。あんなに優しい彼のことだ。きっといい人に出会うだろう。

 「これでいいのよ。これで」

 自分を納得させるために言った独り言が、すぐに体に返ってきてしまう。


「はや……とくん……好きだったのに……ごめんね……」

 涙腺は崩壊していた。溢れ出す想いが止められない。後ろにあるこの噴水の音で、私の泣いている声はかき消されているだろうか。

 隼人くん。あなたはずるい。私は言わなかったのに。ずっと好きだったのに。私はお別れの言葉なんて言わなかったのに。これじゃまるで、私が悪者みたいじゃない。せめて、最後くらいは。笑ってバイバイって言いたかったよ。

 名前しかわからない。高校も分からない。家も知らない。そういえば、学年も知らない。もう会えない。

 けれど、私は、絶対に有名な歌手になるよ。あなたがどこにいても見つけられるような人間に。だから、待っててね。

 美咲はギターを手に取り、再び"あの歌"を歌い出した。

 観客はいない。誰に届けるでもなく、ただ一人の男の子ことを想って歌った。


『散った桜の花びらの行方を 私と君だけが知っている それだけでたまらなく嬉しくて美しいの』


 その日はちょうど、福井の桜の終わりの日だった。


 ◇


 一世一代の奇跡を失ったあの日から、既に二週間が経っていた。

 月はもう五月。高校二年生になった。ウチの学校は少し特殊で、四月中旬に入学式がある。僕は、クラスが変わっても、相変わらず生活は今まで通りだった。

 友達は出来るにはできたが、皆、どこかロボットのように、機械的に、事務的に接している気がしている。

 クラスでは既に数組のカップルができており、その眩しさに目を瞑りたくなる。

 コミュニケーションって大事なんだな。中学生の時に避けずに努力すればよかった。


 朝のホームルームまで、読書をして時間を潰す。目的も何もない、無気力に生きている。あの日から、誰かと話すことは憂鬱以外の何物でもなかった。

 ちょうど、読んでいる恋愛小説のクライマックスだった。

 ヒロインが難病で、医師に余命宣告をされたことを、付き合っている相手に伝えるシーン。

『私のことは忘れて、あなたは生きて』

『そんなこと出来ないよ。君を忘れるなんて』

『あなたはこれからも生きるの。いい人を見つけて、その人を好きになるの。約束だよ』

 ありふれた展開のラブストーリーに辟易している。

 少しでも気を抜けば、この場で吐いてしまいそうだ。

 そんな僕の耳に、唐突に、後ろの席の女子の言葉が入ってきた。


「ねえ、橘 美咲って知ってる?」


 耳がピクリと反応する。すぐさま、頭にあの笑顔が蘇った。


「あー、知ってるよ、最近有名だよね。『花びらが散れば』って曲歌ってる人でしょ? なんか、わずか一週間でインディーズからメジャーデビューしたっていう」

 間違いない。美咲さんだ。ここ最近、音楽もインターネットも避けていたので、全然知らなかった。女子高生の間では結構有名らしい。やはりあの後東京に引っ越して、活動しているようだ。美咲さんがどうしたというのだろう。


「それでさ、私結構好きだったんだけど、今流れてきたニュース見たら、なんか交通事故に遭っちゃったらしいよ? 横断歩道歩いてたら、車に跳ねられちゃったって」


 え………………?


「マジ? で、どうなったの? 無事?」

「いや、なんか、ライブで石川にいて、偶然事故にあっちゃったみたいでさ、病院に運ばれたけど、まだ意識不明らしいよ。このまま起きてこなかったら、私、やだなぁ」


 石川? 交通事故? 車に跳ねられた?

 いったい誰が…………?


 頭が突然痛くなる。ひどいめまいが起こる。目の間が真っ暗になった。

 嘘だ。人が車に追突されたのを、そんな軽い口調で言えるはずがない。「駅前に新しいパンケーキ屋ができたんだ〜」みたいに言えるはずがないんだ。


 僕は読みかけの小説を乱暴に置き、後ろを振り返る。

 後ろの席の女子二人は、当然、驚いていた。

「ごめん、その記事、見せてもらっていい?」

 僕の声は震えていた。

「い、いいけど……」

 怖気付いた表情の女子からスマホを受け取り、ゆっくりと画面を確認する。


『シンガーソングライター、橘 美咲。自動車事故で意識不明の重体』


 なんだよこれ…………


 気づけば、リュックを背負って教室から飛び出していた。廊下を全速力で駆け抜ける。

 途中、担任とすれ違ったが、声をかけられる間もなく、生徒玄関に飛び込み、震える手で靴を履き替えた。

 荒い手つきで自転車を掴み、死にそうなくらい速くペダルを漕いだ。

 高校から駅までは近い。数分で着いた。


 何度も来た駅前。噴水広場を通り過ぎ、駅構内までダッシュする。

 あった。

 快速、金沢行き。あと二分で発車だ。

 券売機には誰も並んでいなかった。死にものぐるいでホームまで階段を駆け上がる。

 隼人が二番乗り場に着くのと、列車がホームに滑り込むのは同時だった。

「はあ……はああ……」

 心臓が悲鳴をあげている。

 自由席で、充分に空きの席があるにも関わらず、座らなかった。ただ、扉の近くでへたり込んだ。

 財布には五千円。スマホもある。あと四十五分で着く。

 自分でもニュースを確認しようと、電源をつけ、『橘 美咲』と検索する。

 サイトの一番上に、誰も望んでいない記事が載っていた。

 何度見ても、結果は変わらない。

 その後、SNSで検索してみると、事故の目撃者らしき人がツイートしていた。

 救急車は、石川県立病院に美咲さんを搬送したらしい。

 隼人は、事故に対しての憤怒の念を抑えるのに必死で、到着まで立ち上がれなかった。


 *


 金沢駅に到着し、扉が開くと、人の群れを掻き分けて猛ダッシュした。

 何度も人にぶつかりそうになる。改札を出て、タクシー乗り場に直行した。

「すいません! 石川県立病院まで! 急いでください!」

 タクシーの運転手は、年老いた男性だった。

「分かりました。シートベルトをお締めください」

 神様がいるのなら、どうか、今だけお願いします。僕の人生なんてどうでもいい、ただ、彼女の命を。

 タクシーを飛ばしてくれたお陰で、七分で到着した。

 運転手に何も言わずに五千円札を押し付け、無思考で病院の中に入った。

 病院内は、混乱に陥っていた。


 大勢の、ファンと思われる人達が、病院関係者に「みーちゃんは大丈夫なんですか!」と問い詰めている。

 そんなことをしてもどうにもならないと、全員分かっているのに。

 人の集まり具合で、彼女のいる病室は明白だった。

 二◯八号室。

 異常な人の群がりが出来ていた。

 病室前で、ファンを通さないようにしている医師たちは、

「手術で最善は尽くしました。後は回復を祈るのみです」

 と、ずっと同じ返答をしていた。

 その人混みを掻き分け、最前に押し入ろうとする。

「通してください!」

 そう叫んで進んでいくが、一向に進めない。

 今度は、更に大きな声で叫ぶ。


「通しください!! 大切な人に……美咲さんに会わせてください!!」


 一瞬だけ、沈黙が訪れた。その隙を見計らい、一番前まで進んでいく。

 扉の前に立つ医師は、不思議そうな顔をしていた。

「もしかして、小野 隼人さんですか?」

「はい。そうです」

 なぜ、この人は僕の名前を知っているのだろう。

「待ってましたよ。お入りください。あなたの名前を、ずっと呼んでいました」

 重い扉が開かれ、中に通される。

 以前より少し髪の伸びた美咲さんが、呼吸器をつけて横たわっていた。医師から、大きな声を出さないよう忠告される。

 久しぶりに見る彼女の顔。ゆっくりと近づく。

 柔らかな彼女の手を握り、精一杯の声を絞り出した。

「美咲さん……会いに来たよ。ごめんね。本当に……ごめんね……」

 折角ここまで来たというのに、そんな言葉しか出てこない。

 自分の無力さを恨みながら、ただひたすらに祈った。


 ◇


 ここは海。青くて暗くて深い海の中。

 底の見えない瓶の中を、ゆっくりと沈んでいくような感覚。意識は自分では操れない。

 このまま、どこに行っちゃうんだろう。

 最後の記憶は、スマートフォンを見ながら運転している車が、私の横に飛び込んできた所までだ。

 私は死んだの? ここはどこなんだろう。皆目、見当もつかない。


 すると、遠くから聞き覚えのある声が響いてきた。

「美咲さん……」

 この声の主を、私は知っている。けれど、彼はここにはいない。いるはずがないんだ。これは、私の作り出した幻聴なんだろう。


 ふと、誰かに手を握られるような感覚に陥る。

 こんな場所に人がいるのだろうか。その手は、私をゆっくりと引き上げてくれた。少しして、水中から、輝かしくて美しい、太陽が見えた。

 この手の感触も、私は知っている。


 ああ、やっぱり君だったんだね。


 ◆


 その時、奇跡が起きた。

 プツリと切れていた糸が元どおりになるように、美咲の目が開いた。

 その場にいる、医師、看護師、そして僕。全員が息を飲んだ。

「はや……と……くん……」

 弱々しいけれど、今まで聞いた声の中で、一番に綺麗な声だった。

「会いに来たよ。美咲さん。ごめんね。この前は」

 より一層、強く手を握った。

「ううん……いいの……隼人くん……あなたがずっと……好きだったの……」

「僕もだよ。ずっと、ずっと、美咲さんの全てが好きだった。大好きだったよ」

 大粒の涙が、彼女の頰を伝っていくのが見えた。それは、光に反射して、宙に飛び散った。

「私の言葉……受け継いでね。君なら……出来るから……約束だよ……」

「分かったよ。僕が君のギターで、ずっと届け続ける。約束しよう。そのために、早く退院して、また笑ってよ」

「ダメ……花びらが散れば思い出は消えるの……君は私を忘れて生きるの……でも、私の意志だけは忘れないで……春になったら、きっと思い出せるから……」

 そんなこと、あっていいはずがない。彼女が死んでいい訳なんて、世界のどこにもあるはずがない。

「何言ってるんだよ。 早く復帰して、一緒に、一緒に……」

 ベッドのシーツに、何個も水たまりができた。その液体は、僕の目から零れ落ちたものだった。

 彼女は、少し笑った。

「バイバイ、隼人くん……さっき、大切な人って言ってくれたよね……嬉しかった……今までありがとう……」

 美咲は、静かに目を瞑った。隼人の眼には、美咲が最後に見せた、桜が咲くかのような笑顔がいつまでも焼き付いていた。

「う……う……うぁ……ぁ……」

 僕は、ただひたすらに、美咲さんの手を握り、嗚咽を漏らして泣き崩れた。

 心の中で、何かが崩れる音がした。もう、美咲は目を開けない。

 隼人の泣く声だけが、白くて無機質な病室にこだました。

 いつまでも、いつまでも。


 ◇

 ◆


 あれから三年。

 僕は大学二年生になっていた。

 地元の学校に進学し、歌手になるという夢を叶えるべく、受験勉強とギターの練習を両立した高校生活を送った。

 これも、ある一つの約束のためだ。僕が憧れ続けた、あの美しい、桜のような女の子との約束。

 桜に関する思い出と言えば、それ以外思いつかない。


 そして、彼女の曲をいつも聴いていた、この噴水広場。同じ場所に立ち、あの時と同じ曲を披露する。毎週、水曜日と土曜日に。

 最近になってようやく、お客さんがそこそこ集まってくれるようになった。

 様々な表情の人々が行き交う街で、僕は今日も歌う。


『散った桜の花びらの行方を 僕と君だけが知っている それだけでたまらなく嬉しくて美しいんだ』


 歌い終わって、ギターをケースに入れていると、スーツ姿の男の人に声をかけられた。六十代くらいだろうか。すごく体格がいい。どこかで見覚えがあるような気がするが、思い出せない。

「君、ここでいつも歌ってるの?」

「はい! 毎週水曜日と土曜日に、この噴水広場で歌ってます!」

 怪しい人ではなさそうだ。

「偶然かな? 実はね、私は何年か前に、ここである女の子が歌っているのを聴いてね。彼女はぐんぐん売れて行って、今は訳あって音楽はやっていないんだけど」

「へえ……そうなんですか」

 もしかしたら、僕はその女の子を知っているかもしれない。

「なんだか懐かしいなぁ。歌っていた場所もここだった気がする。そうだ君、歌手として生きていくことに興味はない?」

 僕はビックリして、口をあんぐりと開けてしまった。

「マジですか?! え、ってことは……」

「うん、私はとあるレコード会社に勤めているんだけど、君には素質があると思う。ぜひ、東京の本社で話をさせてもらいたいんだけど、どうかな?」

「も、もちろんです! 本当に、ありがとうございます!」

 その男は、柔和な笑みを浮かべて、去って行った。

 今日も一生懸命に咲く、桜の花を見て、隼人は語りかける。

 美咲さん。君の意思は確かに届いていたよ。いつか、僕も追いつくから。


 彼女は桜のような人だった。

 あの笑顔は間違いなく、今でも僕の心の中にある。そしていつまでも、僕は彼女の一番のファンであり続ける。

 思い出というものが、今の僕らの糧になっていたとしても、それは未来には及ばない。

 今を精一杯生きる。それだけで十分だった。

 彼女はもういない。けれど、彼女の歌は、言葉は、意思は、確かに残り続ける。永遠に残り続けるんだ。

 しまいかけたギターを再び取り出し、隼人はまた歌い出した。観客はいない。


 ジャララン……


 他の誰のためでもない。大切な約束を交わした、ある一人のために、歌う。

 その歌は春風に乗って、桜の花びらと共に、どこまでも飛んで行くような気がした。

 世界の端っこまで届くことを、ただひたすらに願いながら。

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散った花びらの行方を僕と君だけが知っている 君名 言葉 @kimikoto

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