第55話-「優しく見守っててあげるわよ」③
重い霊安室の扉を開ける。
わずかにベッドがひとつと、その周りに数人入れる程度の空間で弥生は静かに眠っていた。弥生を縛っていた点滴はもう外れている。
その脇には優月が弥生の手を握りしめ泣き喚き、反対では弥生の母親だと思われるまだ若めの女が突然入って来た篤に対して、ハンカチで目を拭いながら軽くお辞儀をした。
「嘘だろ……弥生?」
篤の声に優月が振り向く。その顔は大粒の涙で歪んでいた。
「篤……篤ッ……篤……ッ」
優月はすがるような目で握っていた優月の小さな手を篤に差し出す。
その手は優月が触れていたせいかわずかに熱を帯びてはいるが、弥生独特の健気で愛らしい温もりは無かった。
「どうして……。なんでそんな急に……」
「昨晩、急変したのです」
中野が部屋の入口で呟く。それでまた優月と弥生の母は涙をこぼした。
「最後までお母様さまや早乙女さま、そして優月お嬢さまのことをお話していたと……。最後まで笑っていらしたそうです」
静かなその寝顔を見る。
弥生は澄んだように微笑んでいた。それはどこか神秘的で優しくて、心配いらないよ、とでも言うように、自分たちに向けられた笑顔のように思えて篤はその場で立ち尽くす。
なんで、そんな……、まだなにもしてやれてないのに……。
弥生と過ごしたのはたったの数日だったが、篤の中でその存在はとても大きなものになっていた。
訪れるといつも笑顔で迎え入れてくれて、その度に心が洗われるようだった。小さい身体に重い病気を抱え、それでも微笑む弥生は本当に凛々しかった。それに小学生とは思えないほどの言葉の強さと人を想う心。篤も弥生に教えてもらうことが多くあったと思う。
優月がこのままアメリカに発ってしまったら、代わりに自分が弥生の遊び相手をしていこうとさえ思っていた。
なのに……どうして……。
篤は強く拳を握って俯く。
「――そうだ。弥生ちゃん。昨日ね、篤とデート行ったんだよ。篤が来たら一緒に渡そうと思って……」
篤が優月の声に顔を上げると、優月はおもむろにポケットからイルカの髪留めを出して弥生に付けようとする。
「ほら、可愛いでしょ。あたしとお揃い。篤と一緒に選んだの……。あれ、おかしいな……うまくつかないや……あれ……あれ……?」
優月が弥生の髪を束ねようとするが、その手は震え、細い髪は清流のように指の間からしなやかにすべり落ちていった。
「なんで……なんで……。篤、ごめん、なんかうまく弥生ちゃんの髪をまとめることができないのよ。いったいどうしたのかな」
振り向いた優月は奇怪に微笑み、涙を流している。
篤は見ていられなくなって目を逸らした。
そして自分の全身が熱く、憤るのを感じる。
「篤……なんでだろ。なんでうまくつけられないんだろ……。なんで……、なんで……弥生ちゃんは今死ななきゃならなかったんだろ……」
ぐつぐつと腸が煮えたぎり、息が荒くなる。
味わったことのない真っ黒な感情が篤の思考を奪っていく。
なんで。どうして。悔しい。辛い。悲しい。腹が立つ。弥生……。
そして、
「ぁああああああぁぁぁぁああああああああぁぁぁぁぁぁぁ――――――!!」
篤は叫んだ。
唖然とする優月と弥生の母親を横目に、中野を突き飛ばして霊安室の扉をぶち開ける。
階段まで走り、叫びながら上がる。すれ違う清掃員やら眠そうな当直の看護婦らが驚異と怪訝の目で篤を見るが、それでも篤は怒鳴りながらいっきに七階まで駆け上がった。
そして、わずかに数日前に弥生と遊んだ部屋に駆け込み、ランドセルが置いてあった所のすぐ横の壁。弥生が黒づくめのやつがいると言った場所を思い切り殴りつける。
「てめぇ!! ふざけんな! なんで、なんで弥生を連れて行った!」
もうそこにはランドセルも花瓶も無く、弥生のベッドはマットレスまで綺麗に片付いていた。
「や、やめなさい! 篤! やめてっ! そんなことしても弥生ちゃんは……もう……」
わずかに時間を空けて追いついた優月が泣きながら、必死に篤を抑えようとする。
騒ぎを聞きつけてフロアの看護婦やドクターが集まり、数人がかりでやっと篤は止まったのだった。
「くそ……ちくしょう……」
もちろんそこには『何か』がいるわけもなく。撃ちつけた拳に虚しく痣が残るだけ。
力では倒せないものがある。その事実は、篤の力んだ両手を鉛のように重たく沈めた。
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