第52話-「残念、あたし死んじゃった」④
数分後。優月は一つ大きな深呼吸をして話し始めた。
それは優月の父親から聞いたことと同じ。本人が語る偽りの無い事実だった。
「――それでね、パパから聞いたのよ。篤にあたしの話をしたって……。しかも別れてほしいって言ったって。さすがに泣き狂った。ごめんね、篤はなにも悪くないのにさ」
篤は黙って頷く。
「でもパパを責めないであげて。きっと篤に自分と同じ思いをしてほしくなかったのよ」
「同じ……思い?」
篤が聞き返すと優月は首を一度、縦に振った。
「前にも言ったよね。あたしのママはあたしを産んですぐに死んじゃったって。それで言った通り、ママもあたしと同じ病気だったの」
そして寒そうにマフラーを口元まで上げるとやんわり微笑む。
「パパとママの関係は医者と患者だった。もうその時にママは助からないかもしれないって言われてて、周りからも反対されてたみたいなんだけどね。それでもパパがママのことをちゃんと愛してくれたから今あたしがここに存在してる。……って他人の親の馴初めなんか話されたって困るよね」
「いいや。気にせず続けろよ」
優月は「ありがとう」と篤の肩に頭を寄せた。
「やっぱり大変だったみたい。結局あたしを産んですぐにママが死んじゃって、パパは男手一つであたしを育てることになった……。でもね、一番辛かったのはやっぱりママとの別れだったんだよ。今でも仏壇の前でママに話しかけてる姿見ると切なくてさ。もちろんママだってパパと別れるのはすっごく辛かったんだと思う。だからあたし達にはそうなってほしくなかったのよ。それで下手に思い出とかができる前にあたし達を別れさせようとしたかったんじゃないかな」
「でも優月は助かる見込みがあるんだろ? それなら――」
「本当に助かる見込みがあるなら、わざわざあたし達を引き離すようなことすると思う?」
出かけていた言葉は喉で消えた。篤は押し黙る。
「篤はなんだかんだ理解が早くて助かるわ。つまりは……そういうことなのよ」
優月はどこか繋ぎ止めるように篤の身体に腕を回して語る。
「手術のことなんだけど……正確に言うと完治と失敗の確率が四対六。良くて五分五分なのよね。それで五割の失敗のうち術中に死ぬ可能性が三割強。ママはそれで死んだの」
優月は篤の身体をぎゅうっと抱きしめる。
「でもそれを恐れたら、ただ刻々と近づいてくる死を待つだけ。つまり……死にたくなければ、死ぬことを恐れてはいけないの。まあでも、ほとんどの確率であたしはそう遠くない未来に死ぬんだろうけどね」
それはとても一般的な女子高生の言葉には聞こえなかった。
メリーゴーランドの光が木漏れ日のように優月の顔を淡く照らす。それが今だけは違う世界からの輝きに見えて、篤は目を逸らした。
「でも本当はすっごく恐いんだ」
胸元に小さな吐息を感じ、篤を握る優月の手は微弱に震える。
そんなの当たり前じゃないかと篤は思う。そして、それをどうにかしてやることのできない己の非力さを呪うが、
「でもね、そんなあたしに篤が勇気をくれたの」
ふと顔を上げた優月の慈しむような微笑みに思考を奪われた。
「俺が勇気を……?」
「そうだよ。先週の試合。あの時ね、勝手だけど篤の勝敗に自分の命を重ねてた。これで篤が負けたらあたしも死んじゃうんじゃないかって……。そしたら篤は勝った。ダウンした時は絶対負けるって思ったけど勝ったの。本当に嬉しかった」
「そうか……。それなら俺も勝って本当に良かった」
「ふふ。絶対負けると思ったって言ったのに怒らないんだね」
「今はそんなくだらないことにいちいち突っかかってられないだけだ」
「意外。篤なりに空気読んでるんだ」
「当たり前だろ、ばか」
デコピンの指は弾かれずに優月の額にそっと触れた。
なんだ。優月に何もしてやれてないわけじゃなかったのか、と篤は胸を落ち着かせる。
ならもっとできることがあるんじゃないか。そう思って口を開く。
「じゃあさ、優月もきっと勝てるよ。あの時一緒に勝ったんだから、今度だって――」
「ううん。それはまた別の話よ」
しかし、優月は首を横にふった。
「どうしてだよ。そんなの俺の試合みたいにやってみなきゃわからねえだろ」
「そうね……。でも決定的に違うのよ。ボクシングみたいに自分の意志次第でどうにかできるものではないの」
優月は篤から頭を離すとしっかり向き合う。
「まず全身麻酔をされるから自分の意志は消えちゃうでしょ。そうすると後はされるがまま。ボクシングみたいに、ここで倒れるわけにはいかないんだっ! っていう踏ん張りも利かないし、それに五十パーセントって確立は目測じゃなくて機械が出した正確な数値なの。これがどういうことかわかる?」
難しい顔を向ける篤に優月は笑うと、先程のメダルをおもむろに取り出して篤に渡した。
「コイントス……してみて」
篤は少し不思議な顔をしたが、言われるがままにメダルを撃ちあげて手の甲に収める。
「どっちだと思う?」
「表……かな?」
「わかった。じゃあ裏だったらあたしは死ぬってことで」
「えっ……、ちょっと待っ――」
「待ったなし!」
優月はおさえている篤の手を振り払って、その中を見る。
刹那、篤は手の甲にあるそれが表を向いていることを願ったが、
「裏ね。あーあ……。残念、あたし死んじゃった」
現実はあまりにも無慈悲だった。
「まあ……こういうことなのよ。あたしの命は篤みたいにリング上の可能性を秘めてはいない。こんな単純に結果が出ちゃうの」
「いや、待てよ……! もう一回――」
また飛ばす構えを作る篤の手を抑え、優月は諭すように首を横に振った。
「人の命にもう一回なんてないんだよ」
篤は崩れた表情で優月を見る。優月は聞き分けの悪い子どもを言いくるめるように無理に微笑んだ。
「それが現実なの。あぁ、あとそのメダルは篤にあげるね。縁起悪いから」
「んな……。ずっと大切にするって言ったじゃねえか……」
「ごめんね。でもいらないから、あたしの死を写したメダルだもの。捨てちゃって」
篤は心臓が引きちぎられたように痛むのを感じた。小さな銅色の硬貨が今はこんなにも重たい。篤は悔しくて、切なくて、拳を握りしめる。
そして、無意識に「ごめん……」と呟いていた。
それは裏を引き出してしまったことへの不甲斐なさか、それともこれまで優月の事実を知らずに平然と不毛な日々を過ごしてしまったことへの懺悔か、はてまたこんな言葉しかかけてやれない自分への戒めか、篤は手の中のメダルが変形するのではないかというほどの力を持て余す。
そんな篤の震える右手を優月はそっと包み笑った。
「巻き込んだのはあたしなんだから篤は謝らないでよ。それにね、篤には本当に感謝してるんだよ。謝られるなんてとんでもないよ。逆に謝るのはこっちの方なんだから」
そして優月はそのまま黒く染まりゆく空を眺めて呟いた。
「前に少しだけ話したよね。あたし、ここに最後の晩餐を食べに来たって」
「ああ……。そんなこと言ってたな」
「あれ別にキリストどうこうってわけじゃないんだ。あたしが最後に食べたい物を選んでここに来たの」
篤は首を傾げる。そんな篤に向き直り、優月は悪戯に笑った。
「あたしね。これでも病院の一人娘だからお嬢様なわけよ。ママが死んじゃってパパもあたしが可哀想だからって欲しい物は極力与えてくれたし、そこまで不自由することもなかった。学校も良いとこの私立だったし、友達にも恵まれた。でもね……恋だけはしたことがなかったんだ」
取り繕っているのか、それとも本心か。優月は無邪気に足を揺らせながら篤に微笑む。
「中学校からは女子校だったんだから無理もないよね。でも年頃なわけだし、当然男の子には興味があるわけよ。いつかあたしにも素敵な王子様がやってくる……なんて思うわけ。まあ現実はとんでもない不良少年だったけど」
「王子様じゃなくて悪かったよ」
「ふふっ、いいよ。それでも篤はあたしの立派な王子さまだから。それにやってくるというより捕まえたかんじなんだけど……今となっては笑っちゃう」
「最初は全く笑えなかったけどな」
「もう、それはいいじゃん! てか言いたいこと……わかったよね?」
「ああ。だいたいな」
優月はどうしても最後に恋愛がしたかった。だからわざわざ最後に我が儘を言って共学に編入し、無理矢理にでも彼氏を作った。今ならすべてが納得できる。
しかし、篤はこんな時でもひとつの解消できていない疑問を優月に投げかけた。
「でも――どうして俺だったんだ?」
すぐ真上にある篤のためらいない表情に優月は一瞬目を丸くしたが、瞼を閉じると「それ、言わせちゃうんだ」と頬を赤らめた。
そして、優月は篤の両手を握り、引き寄せる。
「それが篤だったのは――」
優月は言いかけて一度笑うと、ただでさえ近い二人の顔をさらに近付けて、
「笑っちゃうけど本当に一目惚れよ」
篤の瞳を覗きこんだ。
「マジかよ。それは本当に……なんと言うか……」
「なに照れてんのよ。らしくないわね」
「べ、別に……照れてなんかねえよ」
逃げるように目を逸らして、口を歪める篤に優月は微笑んだ。
「あたしが初めて教室に来た日のこと覚えてる?」
「そりゃあ……まあ……」
「篤はあたしのことなんか気にも止めずに寝ちゃっててさ」
「まだそれ言うのかよ」
優月は首を横に振る。
「そうじゃないの。そんな篤にあたしは一目惚れした……のだと思う」
「なんだそれ?」と篤は不思議そうに首をかしげた。
「なんかね。自分でもよくわからないけど、たぶんあの人はあたしと同じなんだ、って思ったのよね。他のみんなと同じ空間にいるんだけど、心ここにあらずっていうかさ。どこか世界を受け入れてないかんじ? よくわからないけど」
言って軽く笑う。
「あたしも建前としてはあんなに気丈に振る舞うけど、実は内心ここにいる人達とは一ヶ月後にはサヨナラなんだって思ってたし、それに……」
「それに……?」
ふいに俯いた優月に篤は聞き返す。
「どうせあたしはもう死にゆく人間なんだって、この世界の住人じゃないんだって、思うのよね。当然顔には出せないけど」
「ああ……、そういうことか」
「うん。でもその一方で篤はなんでもはっきり態度で示せるでしょ? 嫌いな女も教室のノリも嫌いって。周りの空気なんかおかまいなしでさ。それがかっこいいって思ったんだ」
そして篤にもう一度目を合わせると、わずかに視線を逸らして言い淀む。
「でもそんな篤にもちゃんとした理由があったんだよね」
「……理由?」
「うん。篤がそうなった理由。ごめんね、このあいだ妹尾くんから聞いたんだ。篤の……本当のお母さんこと」
篤は目を見張った。そうか……、優月は知っていたのか。
「ったく……。竜也のやつ……」
「待って! 妹尾くんを怒らないであげて! 妹尾くんは篤のためを思って言ってくれたの……。あたし妹尾くんから聞かなきゃ、平気な顔してまた篤を同じように傷つけてたかもしれないから……。ごめんね。本当にごめんなさい」
「いいよ。それはもともとわかってたことじゃねえか」
「でも……」
「俺がいいって言ってんだからそれ以上謝るな。それに竜也を責める気もない。あいつは無駄なことはしないやつだからな。優月の言う通り、本当に俺のことを考えて言ったんだと思う」
そう言って篤は優月の頭をぽんと撫でた。
「それに優月は母親とは違う。そうだろ?」
「うん……」
そんな大きな手の温もりを感じながら優月は言葉を紡ぐ。
「だからね。あたしは最後までちゃんと篤と過ごしたい。篤のお母さんみたいに離れ離れになっても、決して篤のことを蔑ろになんてしない。忘れない。命は簡単に消えちゃうかもしれないけど、この想いは絶対に消えないの……。だから――」
「だから優月。最後まで、せめて残された一週間だけは俺と一緒にいろよ」
優月の言葉を遮って、優月の手を取って、篤は自らの溢れる意志でそう言った。
「優月の親父さんには悪いけど、どうせ残された時間もあと少しなんだ。せめて俺にできることはさせてくれ。優月の力になりたいんだ。まだ借りも返せてねえしよ」
篤が力強く見つめると、優月はつう、と涙を一筋流した。
そして、
「ありがとう……ごめんね……」
と何度も繰り返す。
篤はそんな優月を意図せずに抱き寄せていた。首筋には優月の熱い涙が伝い、咽る息は何かを求めるように、でもどこか安心したように耳を掠めていく。
それを実感する度、篤の心臓も決意したように脈を刻む。その想いがどういうことなのか、篤は今だにわかっていない。しかし残されたわずかな時間、優月を守り抜くというざっくりとした使命感だけは身体全体を纏って離れなかった。
そうだ。たとえこの期間が終わり、再び二人が相見えることがなくても、この想いは決して忘れないだろう。命が消えてもこの想いは簡単には消えない。
それだけは確信して篤は優月の身体を強く抱いた。
それは篤と優月の最後の一週間の幕開け、冷たくも温かい寒空の下。
鮮やかな光と煌めきが躍る、闇の中の二人。
この時間は永遠だった。
そしてこの時の二人は当然知ることは無かった。
迫る死が嘲るように笑っていることに。
――命は本当に簡単に消えてしまうことに……。
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