第36話-「ありがとな。轟先生」③

 その日を境に篤を取り巻く環境はめっきりと変わった。

 とは言っても何かが劇的に変化したわけではない。篤にとっては大きな変化だったという話だ。


 まず今まで目が合うと気まずそうに顔を逸らしていたクラスの連中が、軽く会釈してきたり、手を振ってきたりする。翌日の家庭科の裁縫実習では同じ班の女子が何もできない篤に対して世話をやいてきた。それを優月が遠目から嬉しそうに、でもわずかに不機嫌に見ていることに気付いて、その女子もしたり顔で優月に笑う。優月のテーブルからは「この浮気者!」なんて喚く声が聞こえるが、篤にはなんのこっちゃ、という話だ。


 それと例の立浪誠也ファンだという低身長の男子生徒。そいつにいたっては竜也と篤の昼飯に割り込んできて、最初から最後までボクシングトークを揚々としてくれた。竜也は退屈そうであったが、篤はそれほど嫌ではなかった。


 そんな一週間が半分まで差し掛かった水曜日の放課後。篤がたまたま借りていた体育用のトレーニングチューブを返しに職員室に寄ると、体育科の教師から「レンタル料としてアレ手伝ってやんな」と一点を指差される。


 そこには山のようなテキストを抱えた担任教師の轟がいた。

 スーツを着ていても見た目は高校生くらい幼く、背が低いせいもあって、テキストはすっかり顔の半分まで積み重なり、手はプルプルと震えている。いつ落ちてもおかしくない状況でこれから教材室のある三階まで行こうとしているらしい。


 篤はため息をついて、轟からそれらを取り上げると足早に職員室を出た。


「いやあ、本当に助かりました。ありがとうございます。なんだかんだ早乙女くんには助けられることが度々ありますよね」


 黒縁眼鏡をかけ直し、後ろからてちてちとついてくる轟は微笑みながら篤に語りかける。


「別にあんたはついてこなくてもいいんだぞ。ちゃんと教材室に置いといてやるから」

「そうはいきません。生徒に運ばせておいて、自分はゆっくり職員室でコーヒーだなんて理不尽ではありませんか」


 担任一年目の新米教師はまだ正義感やら、真面目さやらが残っている。生徒を堂々と顎で使う目の色腐った中年教師共に比べてはましだと言えるが、


「いや、あんたがいると鬱陶しいから帰れって言ってんだ」


 篤にはどれも同じ面倒な奴等であることには変わらなかった。


「ガーン! それはあんまりですよ! というかそもそもですねえ、早乙女くんは普段から口が悪すぎます。それだと社会に出てからとても困りま――」

「説教するなら、なおさら帰れ。ダメ教師」


 なにがダメなのかはさておき、その言葉が痛烈に響いた轟は灰でもかぶったように煤けた顔をしている。しかし、「いや、これも普段のコミュニケーションが足りていないだけ。ならばなおさらこういう時にしっかりと距離を詰めなければ!」なんて眼鏡を光らせると、再び凛とした表情で篤に向き直った。


 轟奈菜子。通称、ナナちゃん先生は頑張るコなのだ。

 そんな轟がわざとらしく篤を下から覗きこむ。


「そういえば早乙女くん、最近雰囲気変わりましたよね。しかもここ数日はクラスの子たちとも話すようになりましたし」

「なんだよいきなり。知ったような口しやがって」

「そりゃあ知ってますよ。担任として毎日顔合わせてるんですから。それに先生、早乙女くんが相原さんと毎日一緒に帰ってるのだって知ってるんですよ」


 轟はにやにやと顔を近づける。こういう所はまだ教師というより学生というかんじなのだろうか。篤は一度轟に向き直ると小さい声で「うるせえ、余計なお世話だ」と呟いた。


 それにしてもこいつはよく知っている。初めての担任で張り切っているのかはしらないが、こんな自分のこともしっかりと気にかけているんだな。なんて篤は少し感心した。


 階段に差し掛かり、面倒そうにテキストを持ち直す篤の横に轟は肩を並べる。

 踊り場から差し込んだ夕日を階段のフレームが反射して、淡く優しい橙を煌めかせている。そんな光を握るように轟は軽く手を伸ばすと、そのまま篤の横顔に語りかけた。


「そういえば私、思うんですよ。今、早乙女くんの中で何かが変わってきているんだって」

「はぁ?」


 篤は唐突にでてきた意味不明な言葉に振り返る。


「ああ、ごめんなさい。ちょっと表現が月並みでしたね。うーん……なんて説明すればいいんだろう」


 そのまま顎に手を添えて考え込む轟を篤は怪訝な目で見つめた。


「なんと言いますか……、最近の早乙女くんはいきいきとしてます。とても晴れやかです」

「いきいき……? 晴れやか……?」


 余計にわからなかった。


「そうです。なんというか……例えると終了間際の小説の主人公みたいですね」


 例えられてもまったくわからない。それは文学大好きっ子の轟だからこその例えなのだろうが、普段から活字に一ミリの興味も無い篤にとっては全然ピンとこなかった。


 もはや呆れ顔の篤に轟は説明を加えていく。


「私の好きな小説の中に不良少年が更生していく内容の本があるのですが――」

「おい、もしかして俺がその不良少年って言いたいんじゃねえだろうな」

「あ……まあ、そうなのですけど、そこら辺は気にしないでください。あしからずです」


 あたふたと手を振る轟に篤は威圧的に鼻を鳴らす。


「それでですね。その少年は最初、世の中の全てを敵だと思って、あらゆる非行に走るんですけど、そんな時にヒロインと出会うんですよ。それがまた素敵な御嬢さんで、それから――」


 篤は欠伸をしながら話に耳を傾けた。

 どうやら辛い過去の影響で非行に走った少年はヒロインを想う愛の力なるもので更生し、周りからも徐々に認められ、最終的には自らの夢のために一から自分自身をやり直す。といった、どこかで聞いたことのあるようなヒューマンドラマだった。


 轟が本のあらすじを話し終えた頃にはもう教材室に着き、どさっとテキストを下ろして帰ろうとするが、「ここからが重要なのです!」と椅子を促されて座る。篤は『変わってきている』という言葉の意味もに落ちないので、仕方なく聞くことにした。


「端的に言ってしまうと、その主人公の序盤の姿と早乙女くんが重なって見えてるわけなんですけどね。暴力沙汰が無いだけでまさにそっくりですよ。まず友達を作ろうともしないし、行事ごとには非協力。無愛想で口は悪い。成績はいつも赤点ギリギリでそれ以上の努力をしない。授業中静かに座っているだけでこの主人公とは全然違いますけど――」

「あんた結構ずばずば言うのな」


 篤がツッコむと、轟ははっとして口を噤む。やはり教師としてはまだまだ半人前だ。


「す、すみません! 気分を損ねましたか……?」

「構わねえよ。その通りだし、逆にはっきり言ってもらった方が裏で言われるよりましだ。それより話を続けろよ」


 頬を掻いて言うと轟は申し訳なさそうに「ありがとうございます」と頷く。会話だけ聞いたら、もはやどちらの立場が上なのかわかったものではない。


 そして轟が再び口を開こうとした時、そいつはわずかに躊躇って真剣な顔をした。

 その微妙な変化に不思議がる篤を不安げに見ながら続ける。


「それで私……一度不安になって、御自宅に電話したことがあったのです」

「え……。俺ん家に?」

「はい。出たのは早乙女くんの叔母さまでした。それで聞いたんです。家族のこと、お母さまのこと。中学時代の早乙女くんのこと」

「ああ……そうなのか。じゃあ、あんたは知ってたんだな」


 轟はこくりと頷く。たぶん口に出すには少し勇気が必要だったのだろう。なにせそれがこの早乙女篤の捻くれた性格の元凶とも言えることだったからだ。


「きっとそれが原因なんですよね。ある意味で納得してしまいました。それでしょうがないことなのかなって諦めてしまった部分もあって……ごめんなさいね。ふがいない担任で」


 轟は唇を噛んでうつむく。篤にとってもその言葉は教師の言葉というより、轟個人としての精一杯の誠意として受けとめることができた。だからしっかりと目を見て返す。


「いいよ、気にするな。あんたが謝ることじゃねえだろ。それは俺の問題だ」

「けれどですね……やっぱりそれは私の問題でもあるんです。だって早乙女くんは私の教え子なんですから」


 より沈んでいきそうな轟に篤は頭を掻いた。悪い気はしないが、このままでは困る。


「そんで、その本の非行少年と俺の話はどうなってんだよ」


 仕方なく無理矢理にでも話を戻すことにした。

 轟は「早乙女くんは優しいですね」と溢すと、それに応えるように続ける。


「そんな毎日が続いてたある日、とは言ってもつい二週間前の話ですけど、このクラスに相原さんがやってきました」


 言って篤を優しく見つめると、


「お付き合いしているのですよね?」


 単刀直入に聞いた。

 生徒のプライベートをそんなはっきり聞くのか。と篤は思ったが、まあいい。隠すようなことでもないし、むしろ優月にいたってはかなりオープンなので普通に頷くことにした。


 篤の反応を見て轟は微笑む。


「一ヶ月しかいない相原さんと、まったく接点のない早乙女くんに何があって、それに至ったのかは聞きませんが、二人が一緒にいるようになってから早乙女くんはかなり表情が豊かになったと思いますよ」

「……そうなのか?」

「ええ。それに最近はクラスのみんなとも会話を交わすようになりましたもんね。先生、本当に嬉しいんです」


 言って轟は菩薩のように顔を綻ばせる。


「そしてそれは、きっと相原さんとの出会いがきっかけなんじゃないかと思うんですよ。もともと妹尾くんとは仲が良かったですが、そこは友情では変えられない愛の力だと感じてます」

「愛の……力? あんた本気でそんなこと言ってんのかよ?」


 篤が苦笑いで問うと轟は静かに頷いた。


「やっぱり思うんです。人で失ったものは人で取り返せるってね。早乙女くんが失った愛の部分を相原さんが埋めているんじゃないかな……って。私が読んだ小説もそうだったんですよ」


 一息挟んで轟は優しく唇を開く。


「それで早乙女くんは相原さんとの出会いが分岐点になって変わろうとしている。だから私が最近の早乙女くんから感じているのはその前兆で、これからあなたはもっと素敵に輝いていけますよ」

「別に俺は変わりたいだなんて……」

「思っていなくてもです。きっと、それは早乙女くんにとって、ある意味人生を左右することになるんだと思いますよ。しかも私の読んだその本だと、主人公は最後に総理大臣になりますからね。だから早乙女くんだって総理――」

「バカ。さすがに総理大臣はねえよ」

「それはそうですが……つまりはそういうことなんです」


 轟の視線は冗談とかおふざけではなく、ただ真っ直ぐに、そして純粋に篤の将来へ向いていた。それが少し恥ずかしくて、味わったことのない教師からの真剣な言葉に目のやり場を困らせてわずかに俯く。


 そういえば竜也も同じようなことを言っていた。優月との出会いは篤のこれからの未来をひっくり返してしまうような出会いで、そのチャンスを篤が手にしたのだ、と。


 篤は目を閉じて考える。確かに変わったのかもしれない。

 ここ数日は教室の視線を気にすることもなかったし、相手が接してくるから自然と口数も増えた。ボクシングを語れるやつだって増えたし、苦手な裁縫だってなんとか助けてもらって、できるようになった。


 それに決定的だったのは先週末の試合。実力差でいったら難しい相手にも勝てた。

 しかもよくよく考えてみればそれら全てに優月が絡んでいる。


 この女嫌いの俺が愛の力……か。

 篤はふっと笑う。


 しかし、もう受け入れるしかなかった。たった三週間足らずで確かに変わってきている。それはもう言い訳しようもない事実だった。そして、なんたって、篤はそれが嫌じゃない。


 篤は瞼を開けて軽く肯いた。それは轟の話に対する肯定の意味も踏まえて。

 そんな篤に轟も優しく頷き返してくれたのだった。


 無言での意志疎通を交わし、帰ろうとして立ち上がると、轟が思い出したように言う。


「あっ! そういえば今日は相原さんと一緒に帰らなくて良いのですか?」

「優月は今日は女共と帰ってるから大丈夫だ。その変わり教室に竜也を待たせてるんだけどな」

「ああ、妹尾くんですか……ならいいです」

「おい、あんた見かけによらず結構いい加減だよな」

「ふふっ、先生だって人間ですからね。でも内緒ですよ」


 これを竜也が聞いたらどう思うだろうか。普段から轟をからかっているツケだと思えば納得はできるだろう。


「では、長々と失礼しました。それにテキスト運んでくれてありがとうございます。気を付けて帰ってください」


「どうも」と軽く返事をして教材室の扉に手をかける篤を轟は再び呼びとめる。


「あと、なにか困ったらいつでも相談してくださいね。私、あなたの担任なんですから」


 篤が振り返ると轟は眼鏡を耳元でくいっとかけなおし、満面の笑みで微笑む。後ろの窓からは夕日がいっぱいに差し込み、わずかに神々しい。


 だが篤は思わず笑いそうになった。なにせ轟のその姿は教師というよりも姉という表現が似合っていたからだ。弟を心配するような教師らしからぬ童顔で健気に微笑んでいる。


 そして――篤はまた気付いた。ああ、こういうことなのか、と。


 目の前にいるこいつは俺の担任教師ではあるが、今はそんな気がしない。

 それはたぶん優月と出会う前の自分では見ることのできなかった轟の姿だ。そもそも自分という人間はこんな手伝いなんかしなかっただろうし、手伝っても即座にやることだけを終えて帰っていたに違いない。ならばこれも一つの変化なのだろうとしみじみ実感する。


 こういうふうに変わるなら、それもありかもしれないな。

 なんて思って篤は口にしてみる。それが小さな一歩だとしても、自分から意識的に行うのは篤にとって大きな一歩なのだ。


 だから軽く息を吸って、ちゃんと目で向き合って、その言葉を口にする。



「――ありがとな。轟先生・・・



 少しぎこちなく言って教室を出ていく篤に目を見張り、轟は一瞬痺れたように固まるとその場でしゃがみこんだ。


「今……先生って……。あの早乙女くんが、私を……先生って……」


 そして一人、初担任祝いだと自分に言い聞かせて奮発したカシミヤのカーディガンの袖で、ふいに濡れた瞼を拭う。


「ありがとう……は、こっちの台詞ですよ。手間のかかる教え子め」


 夕日に照らされた滴が床で弾けて虹色に光る。篤が記憶のうちで初めて誰かを「」と呼んだ、秋ももう終わりに差し掛かる夕暮れだった。

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