第3話 自分には、無い力

 枕元のデジタル時計がAM6:48を表示した時、義郎の眉が微かに動いた。どうやら、眠りから覚めたようだ。自分の上半身を起し、左側の目を擦る義郎。


「くわぁああ、うん」


 義郎はベッドの中から出て、学校の制服に着替えた。それを着替え終えた後は、家の洗面所に行き、自分の顔を洗ったが、自分の顔に溜め息をつくと(地味な顔だな)、憂鬱な顔で家のダイニングに行き、台所の母に「おはよう」、テーブルの椅子に座っていた父にも「おはよう」と挨拶して、自分の椅子に座った。


 二人は、それぞれの場所から「おはよう、義郎」と返した。

 義郎は「頂きます」と言い、朝食のご飯を頬張った。義郎が朝食のご飯やら卵焼きやらを食べている間、父が「ごちそうさま」と言い、椅子の上から立つと、流し台まで自分の使った食器類を持って行き、ダイニングの中から出て行った。母もそれに続いて、ダイニングの中から出て行った。


 母は、会社に向かう夫を見送った。


 義郎は自分の朝食を食べ終えると、流し台に自分の食器類を持って行き、それから家の洗面所に行って、自分の歯を磨き、学校の鞄を背負って、母の「行ってらっしゃい」をうなずいてからすぐ、玄関の扉をゆっくりと開けた。


 一人で歩く町の歩道は淋しかった。待ち合わせの場所として決めている駄菓子屋まではもう少し掛かるし、自分の周りにも「あ、バカ! この、やったな」とはしゃぐ男子達や、「アイツ、マジで最低だよね?」とお喋りする女子達の姿も見られた事もあって、その淋しさがより強く感じされた。


 義郎は暗い顔で町の歩道を歩きつづけたが、待ち合わせの場所まで行くと、その表情がパァッと明るくなった。視線の先には四人、いつものみんなが立っていた。


 彼は彼らの近くに駈け寄って、彼らといつもの挨拶を交わしてから、自分達の中学校に向かって歩き出した。学校までの道は楽しかった。自分がどんなに黙っても、他の誰かが面白い話を提供してくれたし、その相手が黙ってしまっても、違う誰かがまた面白い話を「実はね」と語ってくれたからだ。


 幸せな気持ちで、彼らの話を聴きつづける。「それで?」と嬉しそうに笑いながら。義郎の口元に笑みが浮かんでいる間、彼の中である記憶が思い出された。「彼」と初めて出会ったあの日……正確にはその一日前だが、友達と喧嘩した時の記憶だ。喧嘩の原因は、本当に些細な事だった。友達が「サッカーしよう!」と決め合っている中で、義郎だけが「サッカーはやりたくない」と強く言い張りつづけたのだ。

 

 義郎は小さい事からずっと、運動が大の苦手だった。幼稚園の運動会はもちろん、小学校に上がってからも……まあ、その様子は詳しく書かなくてもいいだろう。彼らは、義郎の態度に苛立った。義郎の運動神経ついては、彼も十分に分かっている。だがしかし、義郎の「僕は、やりたくない!」と言う態度だけはどうしても許せなかった。

 

 彼らは、義郎の事を仲間外れにした。学校では義郎と一切喋らなくなったし、学校から家に帰る時だって義郎の事をまったく誘わなくなった。彼らは、義郎の事を無視しつづけた。そうする事が、彼に対する「罰」だと思ったからだ。だがそれを続ける中で、彼らの中である感情が生まれた。


 「アイツに対してちょっと、冷たくしすぎたかな?」と言う感情だ。義郎の態度はもちろん、許せない。だが落ちついて考えてみると、彼の態度に対して「尤もだ」と思いはじめた。誰だって、自分の嫌がる事はやりたくない。運動でも、勉強でも、それは誰にでもある事だ。義郎だけに限った事ではない。

 

 彼らは、義郎に謝ろうとした。だがそうしようとし瞬間、義郎の方から「ごめんね」と謝ってきた。彼らは、その謝罪に驚いた。「え?」と言う顔で。彼らが呆けた顔で義郎の目を見つめている間、義郎が彼らに向って謝罪の訳を話しはじめた。義郎も義郎なりに苦しんでいた。自分のやってしまった事、それを死ぬほど後悔していたのだ。

 

 義郎は、彼らに何度も謝った。「ごめんね、ごめんね」と。義郎が彼らに向って謝っている間、彼らも義郎に向って謝りはじめた。ごめんな、義郎。俺たちも悪かったよ。義郎と彼らは、仲直りした。そして、ちょっぴり大人になった。義郎は自分のワガママをあまり言わなくなったし、彼らも彼らで義郎の事を前よりもよく考えるようになった。


 学校の正門が見えてきた。義郎の周りには、彼と同じ制服を着た生徒達の姿しか見えない。義郎達は少し憂鬱な顔で、その正門を潜った。正門の先にあるのは、校庭の出入り口まで続いている道だ。その道をしばらく行って右に折れると、正面に学校の昇降口が現われる。昇降口の出入り口はいくつかに別れていて、二年生が校舎の中に入る場合は、真ん中の出入り口から入るのが最短だった。


 義郎は、校舎の中に入った。他の男子達も、二年〇組の下駄箱に向かって進みはじめた。彼らは下駄箱に向かって進みつづけたが、とある女子が「義郎君」と話し掛けて来たところで、その足をピタリと止めてしまった。


 義郎は、その少女に瞳を震わせた。スラリと伸びた両脚、頭の黒髪も腰まで(正確には、腰の上辺りまで)真っ直ぐに伸びている。目付きはちょっと鋭いが、その表情は優しかった。身長は、義郎よりも少し低い感じ。


「おはよう、義郎君」と、少女が微笑む。


「お、おはよう、赤塚さん」


 の声が引き攣ってしまった。


「う、うう」

 

 赤塚春子は、彼の反応に首を傾げた。


「あれれ? どうしたの」と言いながら、彼の顔を覗き込む。「顔が真っ赤、まるで林檎みたい」


 彼女は「クスッ」と笑って、彼の耳元にそっと口を近づけた。


「義郎君は知らないと思うけどね。アタシ、林檎が大好きなんだよ? 表面の皮を剥いて、中の身を『シャリ』って齧ると……ふふふ。義郎君の身体も、齧ってあげようか?」


 義郎の目が見開いた。その口元も「え、あ」と震えて、気づいた時にはもう、二年〇組の下駄箱に向って足を進めていた。

 

 春子は、その様子を眺めつづけたが、義郎の友達、下駄箱の前で義郎を待っている少年だ。その少年にギロリと睨まれた瞬間、義郎の背中から視線を思わず逸らしてしまった。


「う、くっ」


 義郎は彼らの所に追いついた後も、穏やかな顔で彼らの中を歩きつづけた。


「おい、義郎」と、隣の少年が言う。


「なに?」


「今日の昼休み、暇か?」


「え、うん」


「そうか。それじゃ、屋上に行かないか? 久しぶりに」


「ああうん、いいよ。屋上に行こう」


 少年は真面目な顔で、その答えに「ありがとう」とうなずいた。



 二年〇組の体育は、他のクラスと合同で行われる。今日の授業は、サッカーだ。

 義郎達は学校の校庭に集まって、体育の先生が来るのを待った。先生は、三分ほどで現われた。彼が生徒たちの前まで行くと、体育委員の男子が生徒たちに向って「準備体操、はじめ」と言い、生徒達もそれに従う形で準備体操をはじめた。

 

 準備運動の内容はいつも通り、屈伸から始まり深呼吸で終わった。準備運動が終わると、先生が生徒達に向って指示を出した。先生の指示は簡潔で、「クラス別に分かれてサッカーの試合をしなさい」と言うモノだった。

 


 義郎達は、その指示に従った。

 

 サッカーの試合は、すぐに始まった。義郎たちは相手のボールを奪ったり、あるいは相手からボールを奪われたりして、今日のサッカーを楽しみつづけた。義郎は味方ゴールの近くまで下がって、チームのディフェンス役を務めた。


 彼がゴールの近くをフラフラしている間も、ゲームのボールは活き活きと動きつづけた。誰かがそれを奪うと、違う誰かがそれを取りかえしに掛かり、校庭の真ん中辺りで「ふわり」と浮かんだと思ったら、次の瞬間には、ある男子生徒の支配下にサッとおさまったりした。

 

 義郎は、その動きに感動した。


「すごいな、やっぱり。僕には」


 義郎の目がうるんだ。彼は、自分の能力を知っている。その限界も、また自分と言う存在自体も。彼には、才能が無かった。「ピカン」と輝く才能が。その才能さえあれば、たとえ運動ができなくても、他の分野で『自分』と言うモノを表現できただろう。だが、神さまはその恵みを与えてくれなかった。


 一つの慈悲もなく、少年には『残酷な試練』だけが残された。その試練は、過酷だった。他人の目からは容易に見える物事でも、少年にとっては文字通りの『地獄』でしかなかった。


 少年は、自分の能力に苛立った。


 自分はどうして、他人と違うんだろう?


 他人はできるのに、自分はどうしてできないのだろう?

 

 少年は、それを悩みつづけた。何年も、何年も。それこそ、周りの人たちから「大丈夫か?」と心配されるまで。少年は、彼らの心配を察した。だから、表面上では「大丈夫だよ」と言いつづけた。


 周りの人間は、自分よりも優れている。そんな人たちに心配されるのはやっぱり、悔しかった。自分が他人の慈悲で生かされていると思うと、心苦しくて仕方なかったのだ。

 

 少年は、自分の現実を受け入れた。そして、「仕方ない」と諦めた。どんなに走っても、自分は天才になれない。天才になれないのなら、自分は落ちこぼれとして生きていくしかないのだ。

 

 義郎は、自分の正面を見た。視線の先では、少年達が活き活きと走り回っている。ある者は「おっしゃ、いただき!」とはしゃいで、またある者は「あ、ちくしょう」と叫んで。その様子はとても、楽しそうだった。


 自分の速さで走れる特権、その速さを人から尊ばれる特権。どれもこれも、義郎には無い特権ばかりだ。


 義郎は悔しいような、でも何処か悲しげな顔で、その特権をじっと眺めつづけた。

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