第053話 最後の希望
タイル張りの廊下を、脇目も振らず駆け抜けていくグレイン達。
やがて彼らは廊下の突き当りにあるドアへと辿り着く。
『応接室』と書かれた表札のドアを開けると、室内の空気が漏れ出し、たちまち血の臭いが鼻を突く。
「うっ!」
セシルが思わず手で口を覆うが、グレインはそれに構わず一気にドアを開けた。
応接室の床は血の海となっており、壁や天井にまで血飛沫が散っている。
グレインは、床の上に血塗れで横たわる、二人の人体を見つける。
一人は王都からの使者なのか、軽鎧を纏った兵士の格好をしているが、既に事切れている。
そしてもう一人の身体を見て、グレインは声を上げる。
「ナタリア!!!」
それは、左肩から右下腹部まで袈裟斬りにされたナタリアであった。
グレインは彼女の元まで駆け寄り、血溜まりの中に座り込みながら、彼女の身体を抱き起こそうと背に手を回すと、ぬるりとした血の滑りとともに、仄かな体温を感じる。
しかし、すでに手足には力が入らないようで、冷たくなった四肢は人形のようにされるがままという状態であった。
「まだ息がある! ハルナ、頼む!」
グレインがそう言う前に、ハルナは駆け出しながら矢を取り出していた。
グレインに強化されたハルナは、ナタリアに矢を突き刺し、治癒魔力を流し込むが、彼女の身体は治癒魔力を受け入れない。
「そんな……グレインさま、これはもう……」
「セシル!! お前も頼む!」
セシルもまたグレインに強化され、過剰すぎるヒールの光弾をナタリアに撃ち込むが、この光弾も、ナタリアの身体に触れると同時に蒸発するように消え去ってしまう。
「何でだ! 何でヒールが効かないんだ! ……もう一回、もう一回頼む!」
ハルナとセシルは、再度ナタリアの治癒を試みるが、結果は同じであった。
彼女達は……薄々気が付いていた。
「グレインさま……ヒールはそもそも受ける人の自然治癒力を高めるのが基本です。……んぐっ、でも、今のお姉ちゃんには……ひぐっ……もう……そこまでの治癒力は……わぁぁぁぁっ!」
「グレインさん……力及ばずで申し訳……ございませんわ……」
「お願いだ、もう一度! 頼む!」
その時、ナタリアの唇が微かに動くのをグレインは見逃さなかった。
彼は咄嗟にナタリアの唇に耳を寄せる。
ナタリアはもう目が見えていないのか焦点の合わない目を見開き、声すらも出せない状態だったが、唇と息で必死に言葉を絞り出している。
「くれ……いん……そこに……いるの……きて……くれた……いたい……はなれ……ない」
「ナタリア! グレインだ! 俺はここに居る! だから死ぬな! 死なないでくれ!」
ナタリアの唇に耳を当てたまま、グレインの目からは止めどなく涙が溢れ、そのままナタリアの顔を伝い、応接室の床に血液と混ざった小さな水溜りを作っている。
「ハルナ、セシル、もう一度ヒールを頼む!」
「グレインさま、説明した通り、もう効果が──」
「分かってるんだよ!! そんな事は……もう分かってるんだ! 手遅れだって事ぐらい……。……でも……このまま何もしないでナタリアを死なせたら、俺は一生後悔する! だから、可能性がゼロでも、できる事は全部やりたいんだ!! あぁぁ……ナタリアぁぁぁ! ナタリアァァァァ!!」
彼女の背に回した手から感じられる温もりが急速に失われていくのに気が付いたグレインは、一層大きな泣き声を上げる。
「……ひどい……」
その時、応接室の入り口から呟きが聞こえる。
ハルナとセシルは、その人物に気が付くが、泣き喚いているグレインは全く認知できていない。
入り口に立っていた金髪の少女は、躊躇うことなく血溜まりの中に踏み出し、グレインの前に立つ。
「グレインさん……私なら……助けられるかも……知れない」
その時、泣き喚いていたグレインの動きがピタリと止む。
「……何だって!? お願いだ! 助けられるものなら助けてくれないか!」
「その代わり……どうか私の事を……嫌わないで」
その少女──リリーは、グレインの前に立ち尽くし、その目からは涙を流して訴えている。
「リリー、頼む! ナタリアはもうもたない! 君が、最後の希望なんだ!」
リリーは涙を拭い、両手でナイフを抜く。
「下がって……そして止めないで……!」
次の瞬間、リリーのナイフは正確にナタリアの喉笛を掻き切り、そのナイフをナタリアの胸の中心に深々と突き立てた。
ナイフが刺された瞬間、ナタリアの身体は一瞬だけ小さく弓なりに反り返り、直ぐに脱力していく。
「これで……ナタリアさんは……『私が殺した』」
グレインは、胸にナイフが刺さったまま冷たくなったナタリアを、泣きながら抱き締める。
リリーの手で正確無比に行われた殺人行為を、すぐ後ろで見ていたハルナとセシルは、腰を抜かして血溜まりの上にへたり込む。
「ど、どういう……事ですの? 何故……リリーちゃんが、ナタリアさんを……?」
「……二人とも、俺はリリーを信じると言ったんだ。どこまでも信じてみよう。……リリー、これで終わり……じゃ無いんだろ?」
リリーは小さく頷くと、ナタリアに刺さったままのナイフを抜き取り、その身体の上で、水を掬うように両手を合わせる。
同時に、グレインは自身の特殊能力でリリーを強化する。
「『
彼女がそう唱えると、合わせた手の中でどろりとした黒い液体が湧き出し、次々とその手から溢れてナタリアの身体に掛かり、その身体を包み込んでいく。
やがて全身が覆われたナタリアの身体は、あたかも繭に包まれた蛹のように、中で何が起こっているのか窺い知ることができない。
リリーはいつしか繭に両手を添え、ブツブツと呪文を唱えているが、みるみるうちにリリーの顔色が蒼白くなっていく事にグレインは気付く。
「強化されてる筈だよな……?」
リリーの術は、その状態で三十分ほど続いた。
突然、リリーがよろよろと立ち上がり、両手を繭にかざすと、繭は風化したように粉々に分解し、リリーの掌に吸い込まれていく。
後に残されたのは、服こそボロボロで血塗れだが、リリーが切り裂いた首元を含め、身体には傷一つ残っていない状態のナタリアが横たわっていた。
「終わり……ました……っっ」
リリーは蒼白い顔でそう短く告げると、ふらふらとその場に座り込んでしまう。
「リリー……ありがとう。 ハルナ、セシル! リリーを休ませてあげられる所に連れて行ってくれ。こんなところじゃ気が休まらないだろう。俺は……ここにいる」
「は、はいっ!」
ハルナとセシルは、リリーを半ば抱きかかえるように助け起こして、ゆっくりと部屋から出て行った。
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