156枚目 「au beurre pain」


 タイルが敷き詰められた床に、両膝をついて指を組む。

 蚤の市の喧噪を余所に、聖樹信仰教会のパルモは日課である祈りを捧げていた。


 樹香の匂いが立ちこめる中、黒い瞳は床に刻まれた教えを黙読する。


 ――それは天から降りた種である。我々が産まれる前に在った「祖」らである。

 ――伸びる腕を、天へと届かせてはならない。

 ――根付こうと伸ばす足を、切り落としてはならない。

 ――種と我らは共にあり、我らと種は共になければならない。


(その身を肥やす土とならん。その腕を阻む蔦とならん)


「おはおはー。祈るのはそれぐらいにして、あたしと話をしないかい? パルモ」

「……」


 教会に響き渡った音に眉を顰め、パルモは立ち上がる。

 心地いい静寂を邪魔したのは、姉であるピトロの声であった。


「おはよう姉さん。相変わらず信仰心が足りないみたいで何より」

「そんなに褒めないでよ、照れちゃうじゃん」

「褒めてませんけど」

「パルモにとってはそうでも、あたしにとっては褒め言葉なのさ。事実、聖樹を敬っているわけじゃないからねぇ」


 馬小屋の作業を終えて一息つきに来たのだろう。パルモにとっては七日に一度も会う間柄だ。

 信仰規約上口にすることはなくとも、汗と馬糞の匂いが染みた服で教会の椅子に腰を下ろす癖はどうにかして欲しいと思っていた。


 白木聖樹は、人が成す全てのことを「些細」の一言で片づけてしまうのだが。

 パルモはマンティラを揺らし、刺繍の端を握り締めた。素朴な蔦柄が瞬く間に皺になる。


「あの。何しに来たんですか」

「ん? ああ。表に看板が出てたから見に来たの。えっと、障壁しょうへきの衣だっけ。今日は特別展示するんだって書いてあったから」

「展示は夕方からです。強い日の光に晒してしまうと色が褪せてしまいますから。看板にも書いたはずですが」

「うん。そうなんだけどさ」


 ピトロは決まりが悪そうに髪を掻き上げると、三白眼を細める。


「終戦の時ですら展示はしなかったのに、どうして今頃なのかと思って」


 妹の方はむすりとした表情のまま、花を活けた水槽を磨く。

 一つ、二つ、三つと磨き終えて、重い口を開いた。


「……人生で、心の底から知りたくなかったことを知ってしまう確率って、どれほどのものなんでしょうね」

「?」


 ピンと来ないらしい姉に、妹は微笑みかける。


彼女・・の聖法具を展示するのは、私のわがままに過ぎません。急に、日の目を見せてあげたくなっただけです。あの衣に、沈む日の目を」


 パルモは水中花を汲む。花と茎はどろりと溶けて、最早形を保っていない。

 ピトロは妹の態度に口を曲げ、右目を隠す様に伸ばした前髪を、ただ弄った。







 イシクブール西地区。

 寝ぼけ眼を虚ろに、パンの生地に切れ目を入れる黒毛の獣人は船をこいでいた。


 彼は人づき合いが苦手で外に出ることを大の苦手としている。パン屋の店主が町を走り回っている一方、前日の夜更かしが祟って睡魔が仕事に支障をきたしていた。


 因みに、彼の息子であるペンタスも今朝方まで共に彫刻作業をしていた筈なのだが……どうやら若さで負けているアイベックは、そのようなスタミナを持ち合わせていないようだった。


 彫刻に没頭したら数日飲まず食わずで制作することもあるので、単に切り替えが下手なだけなのかもしれないが。


 工房の扉の鍵が外れ、外から店主が帰って来る。蔦囲いの宿でお馴染みの受付係は、空になったバスケットを机に置くと一息ついた。


「ただいま戻りました、アイベックさ――生地が凄い彫刻仕立てになってますが!?」

「べぇ」

「あの、『べぇ』じゃないですよ。こんなに生地を薄くして挙句の果てに重ねたりしたら上手く膨らまないのでは……うーん、でも成形し直すには発酵が進んでますね……」


 渋々といった様子で菱形のそれを焼き釜へと突っ込む。魔法具なので、焼き上がるまでに時間はかからない。


 褐色の肌に青い瞳――彼女の名はシグニシア・スカルペッロ。スカルペッロ家の三女だ。


(長いこと天井に結ばれてた物騒な紐がなくなったと思ったら、昨日は急に夜更かししてペンタスくんと石を掘ってたみたい……今まで見たことがない彫り物だった)


 以前まで彼は「習作」といいながら他者の彫刻を真似し続け、全く同じように彫り上げることを繰り返していた。


 本人に自己を表現する意思がなかったのか、込めたい思いが足りなかったのか。今となっては分からない。


(それが、この数日でこんなにも変わるなんて)


 船を漕ぎながらシグニスが見たことも無い形状のパンを成型していく黒毛の獣人は、どうやら意識を手放す寸前のところを行ったり来たりしているようだが、その動きは蝶のさなぎが羽化前にのたうつ様子によく似ている。


 シグニスは思う。


 多分、この男は生地をこねる方が向いているのだ。パンをこねて日々を暮らす方が、きっと安定した人生を送れる筈だと。そしてその人生を全力でサポートできる自信があった。


(けれど。貴方が心をすり減らしてまで欲しい日常は、鑿と鎚が奏でる旋律の向こう側にあるんでしょうね)


 惜しむらくは、彼の人生にとってシグニスの存在はあまり重要ではないということだ。


「アイベックさん。仮眠、とってきていいですよ。お疲れさまです」

「べ……べぇ……申し訳ない……仕事までおろそかに……」


 手に持っていた最後の生地を意地で捏ね上げ成形し、どうにか「聖樹の枝」を一本完成させると、アイベックはふらふらと店の奥へ消えて行く。敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ音がした。


 シグニスは成形済みの生地を発酵棚へ回し、焼きに回していた先程の生地を窯から引っ張り出す。見たことがない形状の生地は、やはり見たことがない焼き上がりになっていた。形状が不安定で名前もまだついていない。そのようなパンを売り出すわけにもいかないのだが――勿体無いので、食べてみる。


「……」


 口の中に、パイ生地のように重なった繊細な生地が香ばしくほろろと崩れ、バターの油と相まってほどよい塩味が鼻を駆け抜ける。「枝」に比べてかなり味が濃い上に柔らかく日持ちはしないだろうが、手のひらサイズで片手間に摘まめるお手軽感。


 普段使っている小麦粉とバターの配分量を明らかに誤った製法で作られているだろうが、貯金だけはあるのだ。レシピの特許などがとれたなら瞬く間に元が取れるだろう。


「……」


 シグニスは嚥下する。味から算出する暴力的なカロリーとは反比例に軽い口当たりで、あっという間に食べ終わってしまった。


 胃の中に消えたパンを、未だ求める指先。


(これは……これは……)


 悲しいことにシグニスは、自身が苦手としている母親や姉たちと同じような思考回路の片鱗をその身に宿していた。


 宿屋で度重なるクレーム対応と職場の環境改善に追われ続けた故か、好いた男の才能と将来の展望が噛み合わない現実を受け入れまいと逃避し続けたつけが回って来たのか。


 ともあれ、蚤の市のこの日。シグニスの思考回路は焼き切れた――吹っ切れた。


「アイベックさん!!」

「んべぇぁ!? 何事!?」


 快音と共に開け放たれた工房の扉にびくりと跳ね上がり、防御姿勢をとる黒毛の獣人は訳が分からないといった表情で目を瞬かせる。


 一方で商売人は子どものように爛々と目を輝かせ、寝起きの獣人に詰め寄って。


「さっきのパン!! 大変美味しかったです!! つきましては利益山分けの計画でレシピを指南願います!! さあ!! ――さあ!!」







 そんなやり取りから五分後。蚤の市、中央広場。


 飲み物を調達する為に市場へ行ってしまった親友と友人を待っていたペンタス・マーコールの元には、悩める親父が一人。


「めぇ。急にシグニスさんの目の色が変わったから怖くなって、慌てて飛び出して来たと」

「べぇ……」

「この際、工房を飛び出したことは責めないけど。どうしてボクの所に来たのかだけ聞いて良い?」

「他にあてが無かった」

「あぁ……そっかぁ」


 相変わらずの残念さに頭を抱え、ペンタスは少し考える。


 シグニスを含め、スカルペッロ家の女性たちはたまに突飛なことを言い出す傾向にある。キーナにこの状況を面白がられても困るが――町長夫妻の耳に入ったりした日には、瞬く間に外堀を埋められるか林の地面に埋められるかのどちらかだろう。


「まあ、ボクだって身内が早死にするのはもう見たくない。めぇ」

「と……父さんは死ぬのか……?」

「物の例えだってば」


 ペンタスは周囲を見回して、打開策を考える。


 一般人である父親は、この町が今日一日の間盗賊の脅威にさらされていることなど知りはしない。何かがあった場合、速やかに避難してもらうためにはどうするべきか。息子は息子なりに考える。


 祭りに浮かれる町を流し見て、目に入ったのは芋揚げが美味しい食事処。


「めぇ、いつもお世話になってるお店で日雇いの皿洗い募集してたと思うけど。興味ある?」

「ある!!」


 いつもに増して食い気味の父親に若干引きながら、店の位置と伝言を告げ。

 よろよろと寝不足の男は歩いて消えた。


 頼りない背中を見送って、ペンタスは空を仰ぐ。

 雲の気配はない。雨の匂いもしない。


(……まだ、大丈夫みたい。めぇ)


 今度は、嚆矢こうしを見逃すような真似はしない。

 青年は人混みに揉まれて戻って来る二人の姿を見つけると、大きく手を振った。




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