127枚目 「聖樹の枝と彫刻士」


 ざくざくざく。硬いパンを切断する手元から音が溢れた。

 夜も深まり、時計の針が天辺を過ぎた頃に焼きたてのパンを出す小さな店は、イシクブールの西側に居を構えている。


 黒く塗りつぶされた町に革靴の音が反響する。墓地に近い路地を行けば、所々照らされたその先にはいつもと変わらない様子で「枝」と名の付くパンが並べられていた。


 革靴の主は店の前で足を止める。


「やぁ、シグニス。遅くに済まないが、『枝』を三本ほど買いたいんだ」


 ひそめた声で呼びかけると狭い店内から足音がして、一人の女性が窓から顔を出した。

 褐色の眉間に一瞬だけ深い谷が刻まれるが、すぐに表情が和らぐ。


「ごきげんよう、。こんなに遅くにいかがしましたか」


 髪をまとめ、頭巾をかぶって顔を出したのは――蔦囲いの宿で受付係をしていた栗毛の女性である。シグニスと呼ばれた彼女は、パンを買いに来た男性に疑問の視線を投げた。


 視線を受けて、男性は赤茶色の髪を横に振る。


「特に変わったことは無いさ。ただ朝食用のパンを買いに来ただけだよ」

「いつもは配達で届けさせるじゃないですか。お店まで来るなんて、久しぶりだと思います」


 明日は塗り直しがあるからね。

 客は呟いて、焼き上がったばかりで冷ましていた白い棒状のパンを一瞥する。


 作業部屋の奥では黒毛の獣人が作業を続けていた。その視界を遮るように、女性が前に出る。


「……あの、支払いは後でまとめてがいいでしょうか」

「いや、払うよ。一本五百スカーロだったろう」


 千五百スカーロを支払って、腕に三本の暖かい枝を抱いた男性は、シグニスと呼んだ娘の顔を伺った。暗がりに灯る僅かなカンテラの橙が、栗毛の髪を漆の様に暗く、冷たくする。


 支払いを終えてパンを受け取ってしまっている以上、男性がこの場に居る理由はもうない。

 けれど男性はその場を立ち去りがたく、足を縫い付ける地面が舗装もされていない土の上だということに、例えようのない寂しさを覚えた。


「仕事は上手くいっているかい」

「ええ。もう少しで、このお店の収入だけでもやっていけそうです」

「そうか。パパは応援しているよ」

「……ありがとう」


 少しの沈黙を挟み、女性はふと顔を上げた。背を向けた父親を見て一度迷うものの、少し大きい声を出して呼び止める。


 振り返った赤茶色に錆色の瞳。それを見据えて、シグニスは青い目を細めた。


「パパも毎日おつかれさま。……ママとお姉ちゃんのこと、よろしくね」


 ――急な実父の来訪にも関わらず焦りを隠しきったシグニスは、笑って送り出した親の背中が見えなくなったところで窓を閉めた。背後でひたすら生地をこねていた獣人が顔を上げ、成形したそれに聖樹を示すシンボルを刻んでいく。


 手際よく淡々と、テンポを崩すことなく。


 シグニスは思う。この男は、きっと石を削るより生地をこねる方が向いている、と。


 けれどこの人は生地をこねるのではなく、黙々と石の声を聴くことに全霊をかける人間なのだ。報われなくても、報われないと分かっていても――なのだとしても。


 アイベックという男を見ていて、思うのだ。

 早く。早く全てを諦めて、私の元へ落ちて欲しい。私は貴方を許すのに、と。


 祈るように願う自分の浅ましさに、吐き気がした。







 ラエルとハーミットがイシクブールに来て三日目の朝。


 夜な夜な資料の仕分けを完了させ、うつらうつらとしていた少年の目を覚ましたのは、ポフの扉を打つドアノッカーの音だった。


 慌てて飛び起きた蝙蝠を横目に、壁にかけていたコートを羽織り鼠頭を装着する。首元を隠して手袋をしていることを確認し、それから扉を開けた。果たしてそこに居たのは、濃いイチゴのチョコのような赤茶の髪をした男性――レーテ・スカルペッロである。


 レーテは酒瓶に丁度いいサイズの紙袋を抱えていたが、その中身は瓶ではなく「枝」の名前で流通している白くて長くて固いパンだった。


「おはようございます、レーテさん」

「おはようハーミットくん。昨日の今日だ、モーニングコールが必要かと思ってね」

「お気遣い感謝します」


 お土産を称して渡されたパンを机に置き、代わりに纏めて置いていた資料を腕にして、ハーミットは扉を閉じた。ラエルはまだ起きてくる気配がないので、しばらく寝かせておこうという配慮からだった。


「この『ポフ』、魔法具としての機能チェックは順調かい?」

「お陰様で。唯一の欠点といえば、起動時に平らな地面がいることでしょうか」

「ははは、確かに。平地が多い第五に比べて丘陵が多い第三や、第二の森の中では使いづらいだろうね」

「ええ。専ら、町から町への引っ越しに使われることになりそうです」

「あぁ、それは良いな。材料の輸送費と魔法具にかかる費用のどちらが値が張るのかは知らないが、輸送時の事故は最低限にできそうだ」


 夜盗や魔獣に襲われるなど、ね。

 レーテは言って、短くなった草の上に胡坐をかく。


 聞けばこの庭、定期的に魔力濃度の高い肥料をまいて牧草を生産する農地の一部らしい。そんな大切な土地の片隅に家という重いものをのせて構わないのか問うと、レーテも町長であるスカリィも声を揃えて「特に問題はない」と言うのであった。


 恐らくこの「問題ない」という言葉の中には、「魔導王国の人間を敵に回すよりははるかに安く、安定した関係を築くきっかけになれば万々歳」という商人魂が込められているのだろうが――ハーミットたちは、その厚意に甘えた形になる。


(どう転んだとしても彼らからすれば利しかないというのが、本当に、らしい)


 やはり、商人の相手をするのは苦手だ。内心ではそう呟きながら、白み始めた空に目が止まった。慌てて出たために時計を確認していなかったハーミットだが、どうやら日が昇る時間はまだ先のようである。


「レーテさんは、朝食を済ませてここに?」

「ああ。我が家の朝は酷く早いのが特徴なんだ。というのも、スカリィがあまり長く寝る人ではないからね。私も自ずと、早起きになった」

「凄いですね。私はまだまだ、しっかり眠らないと体力がもたない」

「ははは! 無理に嘘を吐く必要はないさ。君もきっと、妻と同じく仕事人間なのだろう」

「……ばれましたか」

「毎日人を相手にする仕事をしているからね。訓練のたまものさ」


 ハーミットは腕を後ろに組んだまま一向に腰を下ろす気配がない。レーテは針鼠のその様子に少しだけ寂しそうな目をしたが「仕方がないか」と、そのまま会話を続ける。


「話を聞く限り勉強熱心な君のことだ。既に知っているとは思うが、私たちには三人の娘が居てね。いやぁ、親の心子知らずとはいうが、子の心も親には計り知れないものだ……」

「何か、お子さんとトラブルでも?」

「いいや。トラブルと呼べるような大事件は、それこそ六年前に一度あったそれきりだよ」

「ええ、……存じていますが」


 なんならその現場に居たとは、鼠の口が裂けても言えないが――資料として叩き込んだ記録を脳内から引き出して、自分の記憶に蓋をしていく。


「向こう見ずな長女。探求心しかない次女。未来に夢を見る三女……中でも長女は妻のスカリィと盛大に喧嘩をして林に引き籠もり、あろうことか賊を名乗り出した――その矢先に、シンビオージの一件だ。あの時は気が気でなかったとも」

「内容とは裏腹に、楽しそうに語りますね」

「当時はこちらも必死だったがね。しかし、今になってはまあ……結果として第三大陸の中立区域で起きる事件や事故は減少の一途を辿っている。親として複雑ではあるが、その行いに畏敬の念を抱いているのも確かだよ」

「……」


 鼠顔が一、二回上下して、魔鏡素材の瞳が空を映す。少年の表情は首元を覆う針衣と鼠顔の頭部に隠されて欠片たりとも伺えない。


 ただ、シンビオージという単語がレーテの口から出た時だけ、相手の視界に入らない右の手袋に、爪の痕がつきそうなほど強く握られた痕跡があった。


「……ハーミットくんは、以前にもこの町に来たことがあるかい?」

。サンドクォーツクには仕事で伺うことが何度かありましたが、イシクブールに伺うのは初めてです」

「そうか。四天王ともなると、長期の遠征は難しくなるものなんだね」

「はい。それに私は元々、魔導王国に保護された奴隷孤児ですし。なあなあ過ごしていたら、いつの間にやら立派なお役目を任されるようになってしまったというだけで……まあ、色々あります」

「そうか。お互い苦労するものだね」


 魔導王国の住人として、四天王「強欲」としてでっちあげられたバックボーンを語る針鼠。

 苦笑交じりの回答は、レーテの同情を買うには充分だったらしい。


 鼠顔の下、琥珀の色が濁る。また少し、自分のことが嫌いになる。

 心臓の辺りで。何かが着実にすり減る音がする。


「ハーミットくん」

「何でしょうか、レーテさん」

「昨日は昼食をとったかい? この町の料理はどうだった?」


 急にすり替わった話題に目を丸くした鼠顔は、言われた通り昨日の出来事を振り返る。


「……確か、カモメ肉のステーキと芋揚げを頂きました。町へ来る道中、知り合った商人さんの奢りで」

「して、感想は?」

「トマの実のソースが、非常に美味しかったです」


 レーテはその感想にぽかんとして、それから吹き出した。


「トマの実は、多分、缶詰で、輸入ものなんだが……っ」

「はっ!? あ、そうかトマの実って第二の名産だ!! すみません!!」

「いや、いい。良いんだ。君にも抜けている一面があると知って安心したくらいさ」

「か、仮にも四天王が抜けていたら不味いでしょう」

「ははは! 何、下手に大人ぶるよりも年相応が一番だと言うじゃないか」

「……えっ」

「……うん?」


 この後ハーミットは自らの年齢を明かし、レーテは大層驚くことになる。

 結果として話題をすり替えられた理由を聞くことができないまま――少年は、起床した黒髪の少女と蝙蝠と共に、朝食をとることになった。


 朝食にトマの実が使われているのを見て、思わず噎せたのは言うまでもない。




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