16枚目 「捕食者の思考」


「――おーい、鉄鋼魚! こっちだこっち!」


 魚の何処に耳があったかは忘れたが、確か腹の横だったと思う。


 鼠顔の内側で中途半端な知識を記憶から掘り出し、どういう理屈か空を飛ぶ魚に向かって手を振り声を掛けた。


 怪魚は小さい眼をこちらに向けたと思うと、おもむろに前進を始める。


 どうやらこちらに向かって来る気満々のようだ。運良く無事だった町の通りの中心に立つ俺に、魚は口を閉じたまま流れるように突っ込んでくる。


「さーて。上手くいきますよーに」


 俺は怪魚が自分を狙いに定めたことを確認すると町中を走り始める。


 六十秒あれば目的のポイントに到達出来る距離だが、引き離さないようにわざとペースを落として、途中からボロ屋の屋根の上へ飛び移る。


 怪魚は俺の背を喰らわんと追いかけてくる。途中、踏み台にしてきた背の低い家々が、怪魚の腹に押し潰され、瓦礫の山になっていった。


 追撃に使用される細い鞭のようなヒレが道を塞げば、俺はそれすら踏み台にして前へ駆けた。不安定な屋根の上を走る俺と、それを追う魚は、さながら鼠と猫の追いかけっこのようにも見える。その中で、少し高さのある建物に飛び移ろうと跳躍した。


 あと手のひら一つ分、腕の長さが足りない。


「っ!」


 まさかここで身長の低さが響いて来るとは思わなんだ!

 重力に従う足元に、怪魚の口が迫る。


「……けどっ!」


 作戦の条件を満たしたことを確認した金髪少年――ヘッジホッグは壁を蹴り、魚の頭の上へ飛び上がった。自然、怪魚の頭がほんの少し上を向く。


「鼠の顔も三度まで! 針を食らわば皿まで!」


 刺々しく在れ。痛々しく在れ。


「名付けて、針・千・本!」


 えいっ! と、最後に掛け声を一つ。


 俺は、鼠の皮を深く被り、背中の針を一斉に逆立てて。

 そのまま魚の口の中に、飛び込んだ。







「やった、のかしら」


 実感は湧かなかった。それ程までに、現実は呆気なかった。

 そもそも、自分は高台から見ているだけなのだから、手応えも何も感じられない。


「……」


 黙っていても埒は開かないか。

 ことの成り行きを端的に説明したならば、赤髪三つ編みの青年が席を外した後、ヘッジホッグは私にこんなことを言ったのである。







「――ようし、行った行った。これで心置きなく戦えるってわけだね」

「心置きなくって、貴方何を企んでるの」

「無謀な作戦」


 は?


 私が心底嫌そうな顔をすると、金髪少年は力なく目元を緩めて言った。


「まあまあ、話だけでも聞いてくれ」


 金髪少年は黄土色のコートの裾を摘まむ。


「俺の装備には幾つか特性があるんだ。一つ、見た目と種族を誤魔化す。二つ、踏まれると痛い安全靴。三つ、内側からはクリアな視界。四つ、背中の針が立つ。五つ、抜き差しできる便利な針。六つ、汎用五属の魔法に対する高い耐性付与」


「色々と突っ込みたいし特性と言い辛いものもある気がするけど耐えるわ、突っ込まないわよ」

「七つ目、背中の針で受けた魔術特性を一時的に吸収付与し、それを使用可能」

「魔術吸収型の反射魔法武具じゃないのそれ!?」


 古代の遺物感満載だ! ひと昔前なら国宝になりそうな代物である。


「あっはっはっ突っ込んだ突っ込んだ」

「笑い事じゃないわよ! え、でもちょっと待ちなさい。それが今の状況にどう関係するのよ。貴方、私の雷を受けた時、雷耐性の付いたケープを着ていたじゃない」


 そしてその灰ケープは現在、私の肩にかかっている。

 私の疑問に、少年は口元だけニコリとする。


「そう。問題はそこだ。この針は直接受けた魔術じゃなきゃ吸収できない。しかも、吸収直後からすぐに劣化が始まる――要は、威力が落ちる。やるなら素早く扱わなきゃならないのさ」

「私、そんなに早く走れないわよ?」


 ドクターとやらに治してもらった足裏だって、テント内での全力疾走と着地で擦ってしまった。痛みを堪えて特攻するにしても、それができるほどの体力は残っていない。


 しかし、少年は口を丸く開けた後でこともなさげに言葉を繋いだ。


「大丈夫、囮になるのは俺だ」


 どんな魚も、食事の時は口を開けるものさ。と、笑って言った。







 後はご想像の通り。


 金髪少年は私の肩から遠慮がちに灰ケープを回収すると、それを黄土色のコートの内側に着て。


 私は残った魔力の半分を使用して『霹靂フルミネート』を少年の背針に充電し、この町で一番高い建物である教会の屋上で待機するように指示された。


 鼠の顔を被った彼は、怪魚の口に吸い込まれるように食われたのである。


 怪魚は暫く教会の下をうろついていたが、急に口をパクパクと開閉させ始めたかと思うと煙を吹いて気絶した。


 レイピアも通らなかった硬い鱗の隙間から、魚の焼ける香りがする。


 不謹慎ではあるが、美味しそうだった。


「……はっ。いけない、私もやることやらなくちゃ」


 呆けている暇はない。三度目の『霹靂フルミネート』では、あの怪魚の動きを一時的に止める程の効力しか見込めないだろう。


 私は教会の内階段を駆け下りて、バルコニーから怪魚の顔に降りる。

 実際に足を置いてみれば、砂利道に横たわる怪魚は相当の大きさだった。


 鱗の一枚が私の背丈ぐらいある時点で、魚というよりは怪物に近い印象を受ける。


 私は急いで背に昇り、背びれの中央辺りを捜索する。


 目的の物はすぐに見つかった。あれだけ暴れていたにも関わらず、包み状になったテントは無事だったようだ。私は黒と赤のストライプを胸に抱えた。


「ふう、後はヘッジホッグさんだけど」

「うえええ、一瞬でも唾液にドボンはキツイいぃ」

「一瞬でも心配して損したわ」

「ひっどいなあ! それより手伝って欲しいんだけど!」

「はいはい」


 怪魚の背から降りて、頭側に回り込むと、半開きになった魚の口から鼠の頭が顔を出していた。


 唾液だか粘液だかでグチャグチャになっている茶色い被り物を掴んで引っ張ると、中からは同じくグチョグチョになった黄土色のコートと、それを着た金髪少年が滑り出た。


「水濡れの鼠みたいね……」

「うばあっ」


 スポンっと鼠の頭を首から引き抜く金髪少年。首から下は悲惨なものだが、顎から上は無事のようだ。汗で頬に張り付く金の髪を手袋を外した右手で気にしつつ、呼吸を整える。


「はー、粘度の高い液体への潜水はもう懲り懲りだよ」

「お疲れ様」

「ん? ああ、うん。ありがとう」

「意外そうな顔をしないでくれるかしら、私だって労いの言葉の一つぐらい知ってるわよ」

「優しい言葉を掛けつつ後ずさりというのが、君の全力の感謝なの?」

「ええ。そうよ」


 言いながらズルズルと後退する私。まさか腕の中にあるテントを魚の唾液まみれにする訳にもいかないし、私自身、得体の知れない魚のネバネバに触れたいとは思わない。


 周囲に舞う砂埃も落ち着いてきたことだし、テントの回収も済んだことだし、個人的には早々にこの島を後にしたいものである。この魚がまた暴れ出さないとも限らないのだ。


 加えて彼ら魔導王国の役人達に対して、私の利用意義が無くなってしまった現在。何をされても文句が言えないこの状況は非常に危ういものがある。


 ここに来て今更、他人に裏切られた記憶がよみがえるのだ。

 人を信じるというのはとても難しいことなのだと。幼稚な悟りを開こうとする。


「……はあ」

「?」

「気にしないで、独り言よ」

「俺は個人的に、女の子の独り言は気にしなきゃいけないものだと思うんだけど……」


 金髪少年は言って、琥珀の眼を細める。


「俺に精神感応テレパスの資質はないんだ。言いたいことがあるなら言って欲しい」

「……」

「……」

「わ、分かったわよ、正直に話すから」


 私は遂に根負けして、少年に視線を向けた。


「……未だに、ね」


 絞り出すように言葉を紡ぐと、金髪少年は静かに頷いた。


「生まれ故郷の砂漠の外に居ることも、海に囲まれた小島に閉じ込められていることも、人売りに売られそうになったことも、大きい魚に追いかけまわされたことですら、信じられないの。現実と思えなくって……夢みたいで、頭がフワフワしてて、でも痛みはあって。夢じゃないって分かってるのに、受け入れられないっていうか」

「うん」

「何だか楽しい夢の中に居るみたいで、滑稽で、なんて言ったらいいのか、分かんない。辛い、苦しい、これだけは理解しているのよ。でもその……貴方たちを信じて良いっていう現実が、私にとって都合が良すぎると思ってしまうというか」

「うん」

「……私のこと、面倒臭い人だなぁ、って思わない?」

「うん、思うけど」

「うぐっ」


 分かってはいたが肯定はして欲しくなかった複雑な乙女心が瓦解する。

 精神的ダメージを受けて蹲る私に対して、少年は目線を合わせるように中腰になった。


「君がそう感じたのであれば、そうなんだろう」


 金の糸のような細い髪が、汗ばんで赤みを増した頬に張り付いている。

 唇は薄く色が付き、睫毛は金色。カンテラの灯りの橙をはらんだ琥珀色。


 湖の上澄みを掬ったような金の虹彩に――夜空のような黒い瞳。

 青い月より、灰の月より。鮮やかにすら見える。


「君が信じられないというなら、それはその通りなんだ。君の感情は君のもので、俺たちのものじゃない。俺は否定しないよ。信じて貰えないというなら、こちらが認めて貰う努力をするだけさ。そもそも信用は一日二日で作られるものじゃないからね」

「…………」

「だから、あまり気にしなくていいよ。それは普通だ」

「……あの」

「ん?」

「距離が近いわ」

「……」


 はっと正気に戻った金髪少年は、慌てて数歩後ろに下がった。


 そうだ、それぐらいの距離が心地いい。心臓の音が耳まで響いて五月蝿かったのだ。彼の方も顔を隠しているのでここはお互い様と言ったところか……全く、良いムードも何もない。


 けれど。話して楽になったのも確かだった。


「あ。笑った顔、始めて見た」

「だから、一言多いのよ……!」


 茶化すような声に、私は頬を緩めた。







 怪魚から距離を取って教会の上から眺めていると、赤い軍服の魔族が凄い形相をしてこちらに走って来るのが見えた。


「ハーミット!」

「おう、遅かったねアネモネ。てっきりとんぼ返りするもんだと思ってた」

「馬鹿言え。つーか、無事か?」

「?」


 戻って来るなり肩をがっしり掴まれた金髪少年は何が何だか分からないといった様子で、慌てるアネモネを引き剥がす。


「どうしたアネモネ、まさか、また敵に要らない知識でも吹き込まれたのか」

「はあ? 幾ら何でも何度も同じ手を食う、俺、じゃ……」


 言って動いた視線の先に、私が入る。

 って、私?


「お嬢ちゃん、ちょいと良いか」

「え、ええ。良いわよ」

「例の苔フードと面識は?」

「苔フード? ないけれど?」

「そうか、おっけい。どうやら相手が一枚上手うわてだったみたいだ」


 青年は肩を落とすとそう言った。


「?」


 今更何を疑われるいわれがあるのか分からないので、私はそれ以上を考えなかった。


「それで、その苔フードはどうなったの? 凄く強そうだったけれど」


 彼は私の切り返しに驚いたようだが、その感情を咀嚼する間もなくしょんぼりと申し訳なさそうに、「すまん、逃がした」とだけ続けた。


 何となく予想はできていたが……あれは到底敵う相手ではなさそうだった。時魔法とか言ってたけれどあれは多分聞き違いだろう、そうに決まっている。なんにせよ、作戦もなく無闇に突っ込むのは命を捨てるのと同義だ。


 私は、命の恩人にそこまで求めるつもりはない。


「そう。ともあれ、無事で良かったわ」

「そうそう、命が第一。穏便にやり過ごせただけでも御の字だ」


 視界に入った金色が揺れた。琥珀の眼が伏せがちに青く濁っている。

 対して軍服の青年は赤い目を逸らしながら苦笑いを繰り返していた。


「一応、簡単な事情聴取はしたんだけどさ。あいつは善意が空回ったんだって言ってたぜ」

「善意が空回ったからって、どうやって島に埋まってた怪魚を呼び起こしたりなんかするんだよ」

「さあ……分かったことといえば、あいつが人売りと客を兼ねてたってことぐらいだな。だからこそもう一度念押しで聞いてみるけど。お嬢ちゃん、本当に面識ないんだよな?」

「ええ。私を運んでいた馬車の人売りたちの顔は覚えているけど、あの苔フードみたいな魔力を持っている人間は居なかったわ」

「……まあそもそも、居たとしても気付けたかどうかが怪しい所だね。彼はあの会場でも気配遮断してたから、俺たち相手に存在をくらませるのは訳ないかも」


 俺は魔力に関してはさっぱりだし、おねーさんはずっと魔術が使えなかったんだし。と、金髪少年は視線を移す。


 その目には、暗に「そちらこそ気付かなかったのか?」という圧力が含まれていたが、赤い三つ編みはゆらゆらと所在なさげに揺れるだけだった。


「ロゼの件が無ければ俺だって信じようが無かったぜ。まさか感知出来ないような手練れが混ざってるなんてさあ――あれ、人売り業界の主要人物じゃあねえんだろ?」

「占いによれば、だけどね。けど、相手が事象の二割を引き当てて来るとなると……」

「報告しねえといけねえなあ」

「放っておくわけにはいかないよねえ」


 難しい顔をした二人は顔を見合わせるなり、何とも言えない高ぶった表情になる。

 仕事が増える。そう発された言葉からは社畜の成分が滲み出ていた。


「……貴方達、仕事が好きなのね」

「俺にとってはそれが性分に合ってるってだけさ。なあ、ハーミット」

「まあ、他人に恩返しするにはこれが一番ってだけだよ。ね、アネモネ」


 背丈も年齢も髪の長さですら真逆の男二人は、口を揃えてそう言った。

 目標と、目的がある。そういう生き方。


「そう……なんだか羨ましいわね」


 肯定的に頷くと、視界が眩んだ。


 一日の間に三回も『霹靂フルミネ―ト』を使用したのだ。体調が優れないにもかかわらず、そんな無茶をしたらどうなるかぐらい、自分で分かっていた筈なのに。


 強烈な睡魔と頭痛に襲われ立っていられなくなった私は、無言で壁にしなだれかかった。

 深い海に沈むように、鼓膜が拾う音は徐々に聞こえなくなっていく。


 多分、運が良ければ、また目を覚ますことができるだろう――そんな風にぼんやりと思考する。


 砂の中に沈んで行くような感覚だ。砂嵐で何も見えなくなっていく。

 頬に添えられた誰かの皮膚の感触すら、血と汗の臭いすら感じられなくなっていく。


 けれど、僅かに残った意識の中、視界に赤色よりも黄土色が多くちらつくのを見て、私はつい笑みをこぼした。


 あは、全く、反応が大げさなのよ。ばーか。







 かくして、無法の島で道化の幕は閉じられた。


 私はその後のことを覚えていないし、思い出せもしないのだけど。

 その日は酷く久しぶりに、安心して眠れた気がした。




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