「題名は幻」②

 それから三、四日経った頃。僕は放課後、誰も居ない音楽室に忍び込んだ。この学校の特別教室は半数が音楽室で、その内第七音楽室まではグランドピアノが置いてある。僕はいつも、授業以外で滅多に使われることがない第七音楽室のピアノを拝借する。寮にも一応、談話室にピアノが一台置いてあるが、あそこには生徒が集まりやすい。僕は、誰にも邪魔されず曲を作りたいのだ。

 今日は、やっと一通り出来上がった曲の手直しをする為に来た。早朝の公園で作り続けた曲。そうだ…題名はどうしようか。思案しながら、指は鍵盤の上を踊るように弾む。アマービレ、カンタービレ、ブリッランテ……この小節はもう少しゆっくりと流れた方が良いな。

「……へぇー! それもしかしてナギ君が作曲したの?」

 窓から。

「……うううわぁぁっ!!!!」

「いぇい、シシリエンヌちゃん登場! ナギ君ー、テンドンテンドン」

 さ……最悪だ……!

 絶対誰にも邪魔されたくなかった。……そして特に、この不審者には。

 自称シシリエンヌは何食わぬ顔で窓から侵入してくる。いくら一階だからって。しかも、上履きのままだ。

「……土足で校内に入るな!」

「あー大丈夫大丈夫! 外歩いてたわけじゃないもん。二階の窓から壁伝いに降りてきたの」

「蜘蛛かよ!」

 すっかりやる気が萎えてしまった。もういい。今日は完成を諦めよう。

「ねーねー、なんか弾いてよ! ナギ君のピアノ聴きたいな」

「……一曲聴いたら帰れよ」

「わぁい! じゃあねー……『アメイジング・グレイス』、ピアノで大丈夫かな?」

 そう言った彼女の声、笑顔に、僕は一瞬息をのんだ。

 このリクエストは僕の意表を衝いた。それだけじゃない。“ピアノでアメイジング・グレイス”――過ぎ去った思い出。忘れかけていた、幸せな過去。

「ナギ君……?」

「大丈夫、弾けるよ」

 懐かしい響き……僕はアメイジング・グレイスを弾き始める。

 旋律を体で感じながら、頭は走りくる記憶を辿っていた。


 ピアニストの父とオペラ歌手の母との間に生まれた僕。音楽は生活の一部で、ピアノは心の一部で、体の一部だった。

 家族で音楽を愛した。家族で音楽に愛された。

『私、アメイジング・グレイスを歌うのが好きだなぁ。ねぇ、大きくなったら母さんの為に弾いてね?』

 母自身は、自分がこんな台詞を吐いたことを憶えていないだろう。憶えていたなら、歌を止めることも、他の男に走ることもなかった筈だ。

 母さん。僕は貴女が何を考えて生きてきたか解らない。天然に振る舞いつつ、父にさえ心の内を見せようとしなかった、貴女が解らない。

 母さん。今貴女が、誰の腕の中に居るか解らない。


 歌が、聞こえる。僕の鼓動は速くなった。シシリエンヌが歌ってる。僕の弾くアメイジング・グレイスに合わせて。

 顔に似合わず大人びた歌声。細い体の何処から生まれるのか、その声量。

 違う。シシリエンヌじゃない。これは……母さんの歌声。

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