「題名は幻」
「題名は幻」①
ほんの少し
夢を見たい
夢と知りながら
溺れてしまいたい
少し冷たい風が吹き荒ぶ三月の空の下、僕は学生寮の近くの公園に足を運んだ。散歩をしている老夫婦の姿が目に入ったきり他に人影はなく、閑散とした中にスズメの囀る声だけが、高らかに聞こえてくる。早朝五時とは流石に僕も張り切り過ぎたが、僕はこのひんやりと澄んだ外の空気が大好きだ。
貸し切り状態の、広い公園。点々と並んだベンチの、わざと真ん中のひとつに腰掛けて、僕は空を仰いだ。心地良い。今日も作業が捗りそうだ。
鞄から膨らみまくった書類挟みを取り出して、途中まで音符が並んだ五線紙を一番上に置く。後は、流れるようにペンを走らせ、指が勝手にベンチの上を弾んだり、鼻歌演奏してみたり。傍で見ていると随分怪しい人物に映るかもしれないが、これが僕の作曲方法だ。
「へぇー、スゴイねー」
髪の毛。
「……う、うわっ!」
僕は思わず声を出して肩を揺らした。膝に載せていた紙束が全部、砂の上に落ちてしまった。誰かが僕の背後から覗き込んできたらしい。だからいきなり目の前に簾状の髪の毛が垂れ下がってきたわけだ。軽くホラーだよ。心臓に悪いったらない。
「あー、ごめーん! そんなに驚くと思わなかったから……」
「……何ですか。僕に何か用でも?」
少し恥ずかしいところを見られた。この場はさっさとやり過ごしたい。
見ると、相手は僕と同じ学校の女子らしい。うちの学校はこの辺じゃ名の知れた音楽学校で、淡い菫色をした女子用制服は珍しいし目立つ。何故こんな早朝に制服で……とは愚問なので、出かかったところで止めた。
「えー、キミこんな時間に制服で何やってるのー? 宿題?」
お互い様だと思い僕が飲み込んだ台詞を、彼女はさらっと言った。
「……誰ですか。僕に何か用ですか」
僕は前言を復唱する。
「私、キミ知ってるよ。女子達の注目の的だもん。確か、天才ピアノ少年ナギ君。私と同じ学年だよねー」
「人の話を聞け!」
僕は地面に散らばった楽譜を拾い集める。これ以上関わり合いたくない。今日はもう寮に帰ろう。
「……ああっ、拾うな! お前は手伝わなくていいっ!」
「ナギ君って曲も作れちゃうんだね! スゴいなー! 私はオタマジャクシ苦手だよー。……あ、はい。これで落ちたの全部だよ」
「……どうも」
彼女から受け取った楽譜を順に並べ直す。手を動かしながら、どうしても腑に落ちないことがあったので尋ねた。
「オタマジャクシって……楽譜くらい読めないと致命的だろ。お前、同じ学校だよな?」
「うん、でも声楽科だから、私は勘でどうにかなったよー」
「声楽……隣りのクラスか。それにしては、全く見覚えのない顔だな……。お前、名前は?」
「私? 私は……シシリエンヌ」
「……はぁ?」
そんな曲だったら知ってる。作曲はレスピーギ……だったか。今は関係ないが。
「シシリエンヌって……確かフランス人女性の名前だよな。お前は何処から見ても生粋の日本人に見えるけど。それに、長くて呼びにくい」
目線を手許の紙束に落としたまま僕が並べ立てると、彼女は拗ねたように頬を膨らませた。僕が騙されなかったことが御不満ですか。
「じゃあ、略してシシルで許してあげるわよ」
「……本気?」
「まさか。私はフツーの日本人ですぅー」
語尾を伸ばしながら、自称シシリエンヌは鼻歌まじりに戯けたステップを踏み出した。
その曲は『シチリアーナ』、フランス名シシリエンヌ。
あの人が好きな、曲だった。
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