第59話 魔界の記憶
「貴女様は魔界を統べる、王になるべき器なのだから」
悪魔の男は瞬間移動の反動で口から血を流しながら、狂酔的な笑みを浮かべてそう言った。
もう逃げる気もないのか、両膝をついてヘルヴィを見上げている。
「王? 魔界? 貴様は何を言っている?」
ヘルヴィにはわからない。
魔界などという単語は、何千年も生きてきたのに知らない。
だがなぜか、初めて聞いた気がしなかった。
「貴女様が覚えてないのも、無理はありません。貴女様の魔界の記憶は、封印されているのです」
「ほう、記憶を封印している? 誰がだ?」
どうやって、などは聞かない。
記憶の封印は人間や普通の悪魔にはほぼ不可能に近いが、ヘルヴィには簡単に出来ることだ。
「今現在、魔界を統べている王族や貴族達です。そいつらは貴女様の力を恐れた。たった一人で、魔界の全てを壊せる貴女様を」
大昔にこの世界の生態系を崩壊させたヘルヴィ。
そのときに出した力さえ、本気ではない。
本気を出したら、生態系よりもまずこの星が崩壊してしまうからだ。
「だから王族や貴族達は、全員で協力して貴女様の記憶を封じたのです」
「ふむ、なるほど」
悪魔の中でも最強の王族や貴族達が、協力しても記憶を封じる手しかなかった存在。
それがヘルヴィだ。
「今の魔界を本当に統べるべき王は、貴女様なのです! だからお戻りください!」
男は膝をついたまま頭を垂れる。
ヘルヴィが心の中を覗いても、本気でそう思っていて、そして畏敬の念を抱いている。
「貴女様の記憶を解くことは、難しいかもしれません……。私以外にも貴女様を王に、という人々は大勢いますが、その者達の力を合わせても不可能です」
王族や貴族が百人以上で封印した記憶だ。
ただの悪魔が何千人、何万人集まったところで、それを解くのは不可能である。
「しかし記憶など無くても、その力さえあれば……!」
「……ふむ、そうか」
頭を垂れる男の目には、ヘルヴィの足しか見えない。
ただあとは、ヘルヴィが魔界に戻ってくるのを祈るだけだ。
「まず魔界の現状や、どれだけの規模の世界なのか、どういった場所なのかを知らんと話にならん」
男はハッとした。
確かに自分の要望をただ伝えるだけで、何も説明していなかった。
「そ、そうですね、では詳細を……」
話します、と言おうとしたのだが、その前にヘルヴィが言葉を続ける。
「だからまず、記憶を取り戻す」
「はっ……?」
男がその言葉の意味を理解する前に、ヘルヴィは右手を軽くこめかみに当てる。
そして――絶大で暴力的な魔力が、その場を支配した。
悪魔の男は近くにいることすら耐えられず、数十メートル吹き飛ばされてしまった。
「……これか、私の記憶を封印しているものは」
自分の脳の中を覗き、確認した。
ヘルヴィは今まで自分の記憶が封印されているなど、考えもしなかった。
あるともわからない封印を解けるわけがない。
しかし、封印があるとわかれば、話は別だ。
「お、お待ちください! そんな無理をすれば、貴女様が死んで……!」
吹き飛んだ男は地面に這いつくばり、ようやくヘルヴィが何をしようとしているのかを理解し、そう叫んだ。
悪魔の中でも王族や貴族にしか出来ない、封印魔法。
それを最強の者達が協力してやった魔法を、一人で無理やり解くなどまず不可能。
そんなことをすれば脳が一瞬で焼けて蒸発してしまう。
「舐めるなよ、悪魔の王族だが貴族だが知らんが――私が、頂点だ」
ヘルヴィはこの世界を軽く滅ぼすことが出来るほどの魔力を、そのまま脳にぶち込んだ。
そして――ヘルヴィから発していた風は収束し、収まった。
「へ、ヘルヴィ様……?」
目を瞑ってこめかみに右手を当てたまま固まっているヘルヴィ。
そのヘルヴィを見ながら近づいていく男。
しかしもう心の中では諦めていた。
あれだけの魔力を脳に送って、死なないはずがない。
「ああ、ようやく見つけたヘルヴィ様が……! なんて、馬鹿なことを……!」
「誰が馬鹿だと、クズが」
「えっ……?」
ヘルヴィは目の前にいる目障りな男を、蹴りで吹き飛ばした。
軽く数百メートルは吹き飛んだが、ヘルヴィとしては軽く小突いた程度の威力だ。
「ふむ、思い出した。なかなか刺激的で楽しめる封印だったな。まあ、テオとのキスほどじゃないが」
そう言いながら吹き飛んだ男に近づいていくヘルヴィ。
男は今の攻撃で骨折や内臓が破壊されているが、近づいてくるヘルヴィに狂気的な笑顔を浮かべる。
「さ、さすがですヘルヴィ様……! 王族と貴族が協力して封印したのに、こうもあっさり……! やはり貴女様は、王になるべき器です!」
こんなにも最強な存在だということは、全く想定はしていなかった。
しかしこれほど嬉しい想定外はないと言ってもいい。
やはり男が崇拝している最強は、魔界にいる王族や貴族を簡単に皆殺しに出来る。
「記憶がお戻りになったのであれば、もう何も憂いはありません! 魔界に戻り、ヘルヴィ様が王に……!」
ヘルヴィの頭の中には、魔界の光景が思い浮かぶ。
一万年以上も前の光景だが、はっきりと思い出せる。
確かに今いるこの世界を力で統べるよりかは、魔界を統べた方が楽しめるのかもしれない。
しかしもちろん、ヘルヴィの答えは――。
「なるわけないだろう、クズが」
拒絶だった。
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